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巻 66, 号 32015年5月/6月

In This Issue

スラウェシ島の洞窟アーティスト - 文:グラハム・チャンドラー(Graham Chandler) || 撮影・動画撮影:メレディス・コフート(Meridith Kohut)
Leang Jarie(「手の洞窟」)を探検する考古学者とガイド、最近発見された世界最古の手形を使った抜き染め壁画がある洞窟の1つ。

文:グラハム・チャンドラー(Graham Chandler)
撮影・動画撮影:メレディス・コフート(Meridith Kohut)

動画一行を前へ前へと押し進めながら、ヘッドランプの光を頼りに這い進みます。低い位置にある鍾乳石に注意しながら、むっとした湿気に息が詰まりそうです。低い通路を通って、竹のはしごが下にある控えの空間へと下っているところに到着しました。日光がちらちらと煌き、私たちをからかっているようです。ついに辿り着きました。自然にドーム型になった壮大な開口部からは、何百メートルも下に広大に広がる緑の田園風景を垣間見ることができました。これが、ブル・シポン(BULU SIPONG)です。

AramcoWorldに同行して、マロス-パンケップの洞窟のうち10をまわる4日間の探検ツアーのメンバーは、竹のはしごを降りて、ブル・シポンと呼ばれる洞窟の内部からでてきました。
AramcoWorldに同行して、マロス-パンケップの洞窟のうち10をまわる4日間の探検ツアーのメンバーは、竹のはしごを降りて、ブル・シポンと呼ばれる洞窟の内部からでてきました。

ブル・シポンは、インドネシアの南スラウェシ州にある何百もの鍾乳洞のうちの1つです。南スラウェシ州は、首都マカッサルの北に車で1時間強走ったところにあり、最近世界最古の洞窟壁画が発見され、新たに注目されるようになった地域です。壁面に手を押しあてて、その上から赤い顔料を吹きかけて作成された壁画は、世界でこれまで発見されてきたうちで最も古い壁画であることが最近確証されました。少なくとも39,900年前の壁画であるということです。この算出された年代により、南スラウェシ州(マロス・パンケップと呼ばれる)は、人類の認識や創造的表現の起源や発展をたどる上で重要な世界地図上の場所として注目を浴びるようになりました。これで、初期の人類の移動ルートと同様に、この種の芸術は南西ヨーロッパで始まり、後に南アジアや東南アジアを通って東に広がり、オーストラリアに伝わったとされる長年受け入れられてきた説に疑問が投げかけられることになりました。13,000キロ離れたヨーロッパの壁画と同じ時代であることから、人類は、先史時代の同じ時代に、西から東まで世界の様々な場所で高度な芸術を生み出していたことが示されました。 

何年もの間、インドネシア人の考古学者は、洞窟の壁画が40,000年~50,000年前の現代の人間が出現したころにまで遡るのではないかという強い直感を持っていました。私たちがマロス・パンケップを訪れたのは、それらの洞窟を長年研究してきたインドネシア人考古学者に会い、初期人類の歴史について考察する上で新たな発展(革命ではないとしても)をもたらした壁画を自分たちの目で実際見るためでした。2月の雨季の時期でしたが、幸運なことに、同地区最高の「壁画ギャラリー」10か所を考古学者ムハンマド・ラムリ(Muhammad Ramli)とムバラク・アンディ・パンパン(Mubarak Andi Pampang)と共に探検することにしていた4日間、毎日青空が広がりました。

これらの洞窟の壁画は、遅くとも1950年代には地元の人々や考古学者に知られるようになりました。近くに住んでいた人々、また何世紀にも渡ってこれらの丘で狩りや薬草採取を行ってきた祖先を持つ人々は、もっと以前から気が付いていたのでしょう。最近まで、世界の考古学者たちは、マロス・パンケップの壁画は10,000年以上昔のものであるはがないと考えてきました。というのも、熱帯のカルスト(石灰岩)地形では急激に浸食が進むのが常だからです。しかし、マカッサルを拠点に活動するインドネシア人考古学者らは、壁画の多くはそれよりずっと古いものなのではないか、また40,000年~50,000年前に人類がその地域に到達して間もなく作成されたものなのではないか、という強い直感を持っていました。

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南スラウェシ州の州都マカッサルの文化遺産保存センター(Centre for the Preservation of the Cultural Heritage)に勤務する考古学者ムハンマド・ラムリとムバラク・アンディ・パンパンは、リアン・リアン先史公園(Leang-Leang Prehistoric Park)内で研究ベースキャンプとなっているシェルターに到着しました。公園内では、洞窟を示す標識()が掲げられています。Leangは、「穴」または「洞窟」を意味します。 
Leangは、「穴」または「洞窟」を意味します。 

マカッサル考古学研究所の研究者であるブディアント・ハキム(Budianto Hakim)は、「私たちは、掘削の証拠から推定を行い、骨、貝塚、紅土などの他の証拠と比較しました。炭素年代測定法に基づいて行い、30,000年前という年代が算出されました」と述べています。(実際、後に訪れた別の洞窟では、証拠は35,000年前のものであると算出されました。) しかし、ハキムも認識していた通り、壁画が近くにあった人工物と同じ年代のものであると、すぐに推測できるわけではありません。壁画作成者は、誰かが人工物を置いた時から1,000年の時を経て(または1,000年前に)作業を始めた可能性もあるのです。 

世界最古の芸術(特に形象的美術)の年代を特定することは、宗教と芸術の起源に関する研究を行う上でとても重要です。ひいては、人類の創造の起源を理解することにもつながるからです。最も単純な形象的美術であっても、再現描写を作成する明確な能力が表されます。インドネシアのジャワ島で発見された、500,000年前の斜交平行模様が施された貝殻などのようなものとは対照的です。 

センターは、現在調査済みの90以上の壁画に加え、さらに新しい壁画の発見を歓迎している、とパンパン(上)は語ります。彼は、「私たちは発見者を100%信用し、毎年功績を称え、職を提供することもあります。ラムリ(上)は、1980年代から洞窟と壁画を研究し続けています。 
センターは、現在調査済みの90以上の壁画に加え、さらに新しい壁画の発見を歓迎している、とパンパン(上)は語ります。「私たちは発見者を100%信用し、毎年功績を称え、職を提供することもあります。」と彼は言います。ラムリ(上)は、1980年代から洞窟と壁画を研究し続けています。 
センターは、現在調査済みの90以上の壁画に加え、さらに新しい壁画の発見を歓迎している、とパンパン()は語ります。「私たちは発見者を100%信用し、毎年功績を称え、職を提供することもあります。」と彼は言います。ラムリ()は、1980年代から洞窟と壁画を研究し続けています。 

考古学者たちは、形象的美術がどこでいつ始まったのか、長年関心を示してきました。現代人(またはホモサピエンス)は、約200,000年前に東アフリカで進化し、現在の証拠によると、その一部の人々がレバント地方やアラビア半島の南部を通ってアフリカの外に移住したことが分かっています。そこから西へヨーロッパに移動した人々や、東に移動した人々がおり、南アジアおよび東南アジアに広がり、約50,000年前までにオーストラリアに到達したと考えられています。形象美術の起源に関する研究において重要なのは、このような移動に沿ってどこで出現したか、ということです。

19世紀の終わりに確立された説は、芸術の期限は南西ヨーロッパであり、様式的概念が西に徐々に拡散していった、というものです。これは、その時点までの発見において最古であると考えられていた場所に基づいていました。結果として、形象美術の起源に関するヨーロッパの見方が何十年も主流となってきました。世界最古の非形象的壁画は、今のところ北スペインのエルカスティーヨ洞窟にある赤い円盤の壁画であると考えられており、40,800年前のものです。最古の形象的壁画とされているのが、有名なフランスのショーヴェ洞窟のサイの壁画で、炭素年代測定法では35,300年から38,827年前のものであると推定されています。初期人類の拡散の最東端、オーストラリアの最古の壁画は、約30,000年前のものであると推定されていますが、顔料や使用されたヘマタイト(深い赤色の鉄鋼)でできた「クレヨン」が、36,000年から74,000年前という幅広い時代のものである堆積物から発見されています。

これらの事実により、起源に関する研究において結果の出せない観点が生じることになりました。正確な年代測定は重要ですが、壁画の年代を特定するのは非常に困難な作業です。炭素14法は、ショーヴェ洞窟のサイの壁画の年代測定に使用された方法ですが、一般的にはあまり有用な方法ではなく、この方法に関する意見も賛否両論があります。というのも、この方法は、顔料に含まれる化学成分を注意深く分離させ、年代測定が可能な有機成分を判定するという作業に依存しているからです。最近壁画の年代測定に使用されている方法は、ウラン・トリウム系列年代測定法と呼ばれるもので、エルカスティーヨ洞窟にある赤い円盤の最古の壁画の年代測定に使用されました。

南スラウェシ州洞窟地帯

 

すべてはこの、リアン・ティンプセン洞窟の手形の壁画から始まりました。小指付近から採取された長方形のサンプルをウラン・トリウム年代測定法で年代測定した結果、最低でも39,900年前のものであることが判明したのです。壁画を作成した古代人の真似をして、パンパンは別の洞窟の壁に手を置きます。
これら洞窟のモチーフにおいては、手形の抜き染めが最も多いパターンです。世界の壁画を研究している専門家のデービッド・ルイス-ウィリアムス(David Lewis-Williams)は、この方法は「手の描画を行うこと(「ここに私がいた」)ではなく、むしろ霊的な領域、そして霊的な力と接触を持つためのもの」であったと述べます。 
:すべてはこの、リアン・ティンプセン洞窟の手形の壁画から始まりました。小指付近から採取された長方形のサンプルをウラン・トリウム年代測定法で年代測定した結果、最低でも39,900年前のものであることが判明したのです。壁画を作成した古代人の真似をして、パンパンは別の洞窟の壁に手を置きます() これら洞窟のモチーフにおいては、手形の抜き染めが最も多いパターンです。世界の壁画を研究している専門家のデービッド・ルイス-ウィリアムス(David Lewis-Williams)は、この方法は「手の描画を行うこと(「ここに私がいた」)ではなく、むしろ霊的な領域、そして霊的な力と接触を持つためのもの」であったと述べます。 

しかし、ウラン・トリウム測定法は、壁画の年代を直接測定するわけではありません。方解石付着物(サンプルがあった場所)から採取されたサンプル(壁画の層の上下両方)の年代を測定します。壁画の下の方解石の年代は、最も古い年代を、壁画の上の付着物は最も新しい年代を示します。

ウラン・トリウム系列年代測定法に対する否定的な見方もあります。フランス人の科学者ジョルジュ・ソーヴェ(Georges Sauvet)とその協力者たちによる「クオータナリー・インターナショナル(Quaternary International)」 誌の2015年版では、自然のウランのほとんどは浸出により激減してしまい、算出結果がゆがめられる可能性がある、と述べています。同誌は、「ウラン・トリウム法による先史時代の壁画の年代測定は、いまだに実験的なものである。技術的な改善や誤りの原因に関する根本的研究が求められている」と要約しています。

ウラン・トリウム法の推奨者は、方解石の十分深い部分からサンプルを取ることでリスクを最小限に抑えることができるとしています。サウサンプトン大学の考古科学学科の講師で、エルカスティーヨ洞窟の年代測定にも参加したアリステア・パイク(Alistair Pike)は、「この点を制御するため、私たちは層序に従って層の年代を測定します」と語ります。 

オーストラリア、ゴールドコーストにあるグリフィス大学の場所・進化・壁画遺産ユニットのマクシム・オベール(Maxime Aubert)は、複数のサブサンプルを使用して、年代測定の精度を高めています。 
ブレイニー・ウードハム(Blainey Woodham)
オーストラリア、ゴールドコーストにあるグリフィス大学の場所・進化・壁画遺産ユニットのマクシム・オベール(Maxime Aubert)は、複数のサブサンプルを使用して、年代測定の精度を高めています。 

ウラン・トリウム法は、オーストラリア、ゴールドコーストにあるグリフィス大学の場所・進化・壁画遺産ユニットのマクシム・オベール(Maxime Aubert)がスラウェシの壁画の年代測定に使用した方法です。彼は、「私たちの研究においては、1つのサンプルにつき少なくとも3つ、最大6つのサブサンプルを測定します。それらの年代は、すべて年代順になっており、サンプルの完全性を確証するものとなっています。ウランが浸出してしまっている場合でも、年代のリバース・プロファイルがあります。つまり、年代の新しい表面から年代がどんどん古くなる、という意味です」と説明しています。オベールが最初にこの研究に関わるようになったのは、2012年です。彼の同僚で壁画に関してインドネシア人考古学者に協力していたアダム・ブルム(Adam Brumm)が壁画の表面に方解石堆積物があるのに気付き、オベールにも「実際に来て、自分の目で確かめてみる」よう誘ったのです。

私たちの冒険は、マカッサルで人気のある観光スポット、オランダ植民地時代のロッテルダム要塞から始まりました。ここは、現在Balai Pelestarian Cagar Budaya Makassar(マカッサル文化遺産保存センター)となっています。雨がココヤシの木、そして赤枠の窓やドアのある要塞の黄色い壁に跳ねかかります。ガイド兼通訳の考古学者ムバラク・アンディ・パンパンは、古い御影石の階段を上り、センターの副司令官、ムハンマド・ラムリのオフィスへと私たちを案内してくれました。インドネシアの国の紋章の下のデスクに座っていた彼は、私たちを温かく歓迎し、コーヒーを出してくれました。有名なハリウッド映画でハリソン・フォードが演じた考古学者のファンならすぐに分かる帽子をかぶった彼からは、探検への情熱が感じられました。私たちは、彼に「インドネシアのジョーンズ」とあだ名をつけました。彼はほほ笑むと、私たちの先頭にたって外に出ました。

知られている最古の壁画の近くには、今は色あせてしまったbabirusa(「ブタシカ」)の壁画があります。
考古学者による上の絵は、babirusa、手形、剥離部分、および何十もの点のような方解石(「洞窟のポップコーン」、または科学的には珊瑚状洞窟二次生成物として知られる)を示しています。 
絵:レズリー・リファイン(LESLIE REFINE)、GRAPH & CO / マクシム・オベールによる提供
知られている最古の壁画の近くには、今は色あせてしまったbabirusa(バビルサ、「ブタシカ」)の壁画()があります。オベールの測定では35,400年前のものであり、この年代は西ヨーロッパ最古の形象的壁画が作成された年代と非常に近いものです。考古学者によるの絵は、バビルサ、手形、剥離部分、および何十もの点のような方解石(「洞窟のポップコーン」、または科学的には珊瑚状洞窟二次生成物として知られる)を示しています。 

マロスに向かって北に走る道は混んでいましたが、車の中での終わりなき好奇心の探求が行われていました。「以前に発見されていなかった壁画も見つかっているのですか?」 パンパンは、「そうだ、地元の人々にも新しい発見を報告するよう勧めている」、と答えます。それから政府の考古学者が行って調査を行うそうです。彼は、「私たちは発見者を100%信用し、毎年功績を称え、洞窟のメンテナンスや警備の職を提供することもあります。私たちは、壁画が彼ら自身が誇れる遺産であることを理解できるようにしています」と説明します。

すぐに、石灰石カルストが風景の大部分を占めるようになりました。ほとんどが水田となっている平らな平野を走っていきます。ほんの数キロしか離れていないところには、200~300メートルの高さの巨大なパンの塊のように、緑に覆われた土地から不意に突き出ている石灰石の急な丘が密集しています。これらは、アートギャラリーとなる洞窟群です。総面積は450平方キロで、スラウェシの南西海岸と平行しており、内部から流れ出る川により、永劫の時を経て形作られてきました。少なくとも90の壁画が記録されており、ラムリはもっとたくさんの壁画が残っていると考えています。

レアン・サカパオの深部で、考古学者ラムリは1つの壁画を指さしました。バビルサのつがいが描かれており、まわりには手形が施されている非常に独特なものです。 
レアン・サカパオの深部で、考古学者ラムリは1つの壁画を指さしました。バビルサのつがいが描かれており、まわりには手形が施されている非常に独特なものです。 

私たちは、丘のふもとにあるレアンレアン先史公園に到着しました。センターでは、公園に数十人のスタッフをおいて洞窟の管理と掘削の実施を行っています。公園には、目を見張るような石灰石の自然の彫刻作品が点在しています。ヘンリー・ムーア(Henry Moore)の展示会にあっても場違いにならなそうなものもあります。小さな川、そして黄色・青・茶色の模様の蝶がその風景に花を添えます。スラウェシは、多種多様な種の蝶が生息していることでも知られています。ここで、私たちは4日間を過ごすことになります。支柱の上に建てられた、考古学者の木造ゲストルームの一部屋に床に転がって眠るのです。 

1分たりとも無駄にしたくなかったので、パンパンとラムリは昼食前に公園内のレアン・ペッタケレ(Leang Pettakere)にある最初の壁画に私たちを案内してくれました。パンパンは、インドネシア語の「レアン」という語は、「穴」という意味であり、「洞窟」を指しても使用される語であることを説明してくれました。熱帯雨林を抜け、南スラウェシ州のむせ返るような湿気の中で洞窟の入り口まで重い足取りで登っていきました。今後同じようなものにたくさん遭遇することになるのですが、この洞窟にもぽっかり割れた開口部があります。頭上からは、数千年におよぶ浸食を経て巨大な足のような垂直の突起物に変化した石灰石が垂れ下がっており、その周りに巻きついているつたは、まるでアール・ヌーボー装飾のようです。静寂に包まれた洞窟には、一定の間隔で水が滴る音が響き渡ります。これはまさに芸術です。私たちは、バビルサの壁画を目にしました。バビルサは、スラウェシ固有の「ブタシカ」で、食用に捕獲され続けてきましたが、今は絶滅危惧種のリストに入っています。ラムリは、壁画修復の初期の試みに注目します。「マカッサル文化遺産保存センターは、描画線をはっきりさせることにより、壁画を保存しようとしました。ここにその跡を見ることができます」と語ります。しかし、これは急速に色あせてしまうということです。

スラウェシ島の壁画は、ヨーロッパの洞窟壁画と多くの共通点があります。これらスラウェシの動物を描いた壁画、そしてその後4日間に渡って目にすることになる壁画には、西ヨーロッパの壁画と共通する特性が多くあります。世界の壁画専門家で、ヨハネスブルグのザ・ウィットウォーターズラント大学のロックアート研究所名誉教授兼特任教員であるデービッド・ルイス-ウィリアムスは、1960年代からヨーロッパの壁画を観察・研究し、その著書も多く出版してきました。彼は、「時折互いに重なっているものがある。それらは、相対的サイズに注目せずに並列にされることが多い。多くは断片的なものである。頭部は、最も多く描画される動物の部位となっている」と書いています。絵はそれぞれ異なる方向を向いており、地面は描かれていません。蹄や他の部分はたいてい描かれていませんが、描かれる場合は、想像上の地面に立っているというよりは、ふらっと浮いているように描かれています。さらに、「絵には背景がなく、木や草や、他の周りのものは描かれていない」と言います。注目すべきことに、私たちはこの特性をスラウェシの壁画にも見ることができます。

そして、手形を使った抜き染めは、これらの洞窟のほぼすべてに共通しています。南西ヨーロッパの抜き染め壁画について、ルイス-ウィリアムスは、解釈が非常に複雑である、といいます。壁画作成は、儀式であった、と彼は主張します。彼は、「洞窟が霊的な目に見えない領域への通路であることを認識する必要があり、それらが様々な世界を隔てる『ベール』であった」と述べています。「ベールに手を置くことは、手の描画を行う(「ここに私がいた」)ためではなく、むしろ霊的な領域、そして霊的な力と接触を持つためのものでした。手に吹きかけた顔料は、おそらく『媒体』、つまりベールを貫通させる強力な物質であったのでしょう」。

マロス・パンケップの壁画の中で変わっているものは、ブル・シポンの壁画に描かれているこのボートに乗った2人の人の壁画です。1人は魚をやりで突き刺しているように見え、もう1人はボートを漕いでいます。
マロス・パンケップの壁画の中で変わっているものは、ブル・シポンの壁画に描かれているこのボートに乗った2人の人の壁画です。1人は魚をやりで突き刺しているように見え、もう1人はボートを漕いでいます。

ラムリは、ここには「指が3本や4本の手形、手のひらだけの手形、あるいは腕を模ったものもあります」と述べます。西ヨーロッパやオーストラリアの手形の壁画にも、同じように指が5本以下の手形が見られます。それらの意味に関しても、相対する説が幾つも提唱されています。手話の一種として指を曲げたものであるというものから、儀式的に指を切断したとするもの、壊疽などの自然な理由であるというものまで様々です。ラムリは、「以前の研究者による解釈の中には、深い悲しみにある時に指を切り落としたというパプアやアボリジニーの文化と比較するものがありました」と語ります。

実際的な観点では、フランス人の先史芸術専門家であるミシェル・ロルブランシェ(Michel Lorblanchet)が、1990年代にフランスの洞窟である実験を行いました。彼は、口にふくんだペンキを壁の7~10センチ(2~4インチ)のところからふきかける「スピット・ペインティング」と呼ばれる手法を実際に試し、様々な手形とよく似たものを作成することに成功しました。

この手法が後代まで使用されたのかどうかは分かりませんが、手形の抜き染めは、南西スラウェシの主要民族であるブギス族が今日でも使用しています。家族が新しい家を建てた場合、引っ越しをする前に、特別に指名された指導者が儀式を執り行います。一家の長がナッツか米の粉を混ぜたものに手をいれて、建物を支えるに梁に押し付けて形をつけます。この行為は、新しい住人に幸運をもたらすと考えられています。 

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:ラムリとパンパンの解釈では、この壁画は髪をとがらせた女性がlassoed anoa(ラッソエド・アノア、小さな水牛に似た動物)を引きずっているところだということです。:レアン・サカパオの入り口で、コーヒーと軽食で一休みする探検隊スタッフ。 

次に、水田や農場の周りに作られた高い芝の道を歩いて、レアン・ブルン(Leang Burung)2に向かいました。ここでは、1970年から2012年までの長期間に渡って掘削が行われてきました。ほとんどの洞窟は、地元の人が洞窟発見時に初めて見たものに基づいて名前が付けられています。「ブルン」は「鳥」を意味しており、パンパンによると、たくさんのツバメがここで巣を作っていた、といいます。ここは洞窟の中ではなく、がけの下の部分で、この上に壁画のある洞窟があります。40年に及ぶ掘削により、地表から6メートル下、水が出る直前まで到達しました。この掘削により、35,000年前に人類が道具を作り食事をしていたことを示す最も連続した記録が考古学者たちに提出されることになりました。これは、スラウェシにおける現代人の最古の証拠となっています。(他の場所、例えばジャワ島では、45,000年前の証拠が見つかっています。)

レアン・ブルン1と呼ばれる近くの洞窟では、入り口付近の木がのけられて日光や二酸化炭素が入るようになってしまうと、壁画の多くがいかに急激に風化してしまうかを示しています。

オーカーを粉砕し、ラムリは壁画の多くに使用されている顔料作成の最初の手順を見せてくれました。これは、現在でもこの地域で一般的な方法となっています。
オーカーを粉砕し、ラムリは壁画の多くに使用されている顔料作成の最初の手順を見せてくれました。これは、現在でもこの地域で一般的な方法となっています。

初日に4つも洞窟をまわり、私たちは素晴らしいスタートを切ることができました。ベースキャンプに戻ると、地元のケータリングスタッフが夕食を持ってきてくれました。ご飯、魚、そしてスープです。スープは、西洋人はオックステールスープと呼びますが、ここではsop buntut(ソップ・ブントゥット)という人気のあるインドネシア料理です。 

2日目は、文化的な気分転換で始まりました。ブギス族のシャリフディン(Syarifuddin)が家に招いて、4年前に作った儀式用手形を見せてくれました。彼は妻のミルナワティ(Mirnawati)、そして息子のモハメド・ディルガ(Mohammed Dirgah)を紹介してくれました。色あせてはいましたが、彼の手形が家の6本の梁それぞれに確かにつけられていました。

また洞窟に戻りましょう。私たちは、さらに水田の周りの土手をゆっくりと歩きました。カルストに近づくにつれ、時折泥に足をとられて足首まで埋まってしまうこともありました。パンパンは、この地域は低水地域で雨季の間は足を踏み入れられないこと、レアン・ジン(Leang Jing、「悪の洞窟」)に行けるのは幸運であったことなどを話してくれました。びしょびしょに濡れたブーツでごつごつした岩を登っていくと、今にも壊れそうな竹のはしごがありました。横木の間隔は、通常のはしごの倍はあります。 

薄暗い涼しい内部に入ってしまうと、その厳しい試練を乗り越える価値があったことがはっきりわかります。古代の狩猟や漁獲による生活を描いた本物のタペストリーがそこにはありました。私たちはヘッドランプや懐中電灯を向け、魚をじっと見るペリカンから、髪をたててラッソエド・アノア(小さな水牛に似た動物、インドネシア固有種)を引きずる女性の姿まで、細部にいたるまで見渡しました。アノアは今日ではほとんど見ることができません。パンパンによると、アノアは今では天然記念物となっているということです。ペリカンの首は優雅に曲線を描いており、ペリカンが見つめる魚は体から尾まで完璧な形をしています。ここには動物以外の物も描かれています。インドネシアにはあまりない、足形の例も見つけることができました。

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左から右:斜交平行模様の甲羅が描かれたかめの頭、尾、ひれ/足(レアン・ブル・バラン)、小さな池で泳ごうとしている見える2匹の魚(レアン・ラシタエの正面の壁)。パンパンは、「これらは海に生息する種ですが、ジン洞窟の壁画には淡水魚が描かれています」と語ります。レアン・ジャリエ(Leang Jarie)の小さな形象的壁画には、人が描かれています。 

私たちの目には、壁画の保存状態は大変良好であるように見えましたが、ラムリは、彼がその壁画を最初に診た1980年には、より鮮明に描かれた壁画がもっとたくさんあった、と説明してくれました。方解石の量が増えることで、絵文字の多くは消し去られていきます。彼は、オベールのチームが小さなダイヤモンド刃のこぎりで年代測定サンプルを採取した場所を見せてくれました。サンプルは、25,000年前のものであることが分かりました。 

レアン・ジャリエ(Leang Jarie、「手の洞窟」)にこの名前が付されたのは、最初に発見された時、いたるところに手形や手形の染め抜きがちりばめられていたからです。今では、他のほとんどの洞窟と同様に、その多くが方解石の侵入により覆われてしまい、はっきりと認識できるものは非常に少なくなっています。ラムリは、これらすべての洞窟で方解石の増加が進んでいる1つの理由として、大気中の二酸化炭素濃度が増加した結果、石灰石と反応して表面に方解石の堆積物が生成されていることが挙げられる、と言います。

次に訪れたのはレアン・ティンプセン(Leang Timpuseng)です。私たちがここにやって来た目的の洞窟の1つです。オベールにより世界最古と年代特定された壁画がある洞窟です。ラムリは、染め抜き壁画、そして端にそってある小さな点を見せてくれました。これは、外科的にサンプルを切り取った跡です。断面にははっきりとした層が診られました。壁画の上に方解石の層、そして非常にうすい赤い塗料の層、そしてその下の石灰石の層です。私たちは、注意深くサンプルが切り取られた場所を感嘆の念を持って見つめていました。なんといっても、革命的な説が始まった「グラウンド・ゼロ」となった場所なのです。すべてが手形であるわけではありません。ここのバビルサの壁画から採取したサンプルは、35,400年前のものであることが判明しています。動物を描いた壁画の中では世界最古のものの1つとなります。

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ブル・シポンのこのムカデ()は、作成者が自然の石の特性を利用して、対象の姿を強調したものです。この手法は、西ヨーロッパの壁画では一般的に見られますが、スラウェシにおいては珍しいものです。:このぼんやりとした壁画には、ペリカンが描かれています。首が曲線を描き、魚を見つめている様子です。

3日目、私たちは北からスタートし、周りを水田に囲まれた道を30分進んでレアン・ラシタエ(Leang Lasitae)に向かいました。洞窟の正面の真上には、直角に交わる2匹の魚が描かれており、内部にはさらにたくさんの魚の壁画がありました。パンパンは、主に海の絵が描かれていることは、主なリソース源が海であったことを表している、と言います。今では2キロほど離れていますが、当時はもっと近かったと考えられています。彼は、「これらは海に生息する種ですが、ジン洞窟の壁画には淡水魚が描かれています」と語ります。また、形も正確であるため、種類も推測できると言います。 

ここから、少し歩いてレアン・ブル・バラン(Leang Bulu Balang)に向かいます。この洞窟は海に面しています。ここで、私たちは初めてカメの壁画を目にしました。2匹のカメの壁画には、斜交平行模様の甲羅、はっきりとした頭、尾、そしてひれが描かれています。これらのカメも絶滅危惧種であるそうです。

歩みを進めながら、次の洞窟では特別なものを見せてくれるとパンパンは言います。氾濫した水田を通って非常にぬかるんだ道を進んだ後、泥だらけになったブーツで石灰石の急な岩屑を登っていきます。その先にあったレアン・サカパオ(Leang Sakapao)は期待を裏切らない素晴らしい洞くつでした。天井が1メートル弱ほどと低くかったため、私たちはあおむけに横になって壁画を見る必要がありました。そこには、つがいのバビルサの写実的な壁画がありました。ラムリは、洞窟に寝ころびながら詳細を説明してくれました。「見ての通り、オスのブタシカとメスのブタシカが描かれています」。彼は、つがいのバビルサが描かれている壁画は他には知らない、と語ります。実際、このようなつがいの壁画はヨーロッパの壁画においても非常に珍しいものです。

ブル・シポンに描かれたオニイトマキエイ。
ブル・シポンに描かれたオニイトマキエイ。

最終日、私たちはブル・シポン洞窟に向かいました。1時間高速を走った後、単シリンダモーター付きの長くて細い伝統的な釣り用ボートで水路に沿って30分ほど進み、洞窟の中を登ったり腹這いになったりしながら20分ほど進んで行きます。そこには全く初めて見る壁画がありました。これも西ヨーロッパの壁画では一般的な手法ですが、スラウェシでは珍しいものです。自然の岩の特性を利用して、壁画の対象をちょうど浅浮き彫りのように描いています。ムカデがこの手法で描かれていました。自然に隆起した炭酸石灰が生き物の体の一部に使用されています。横からと真上からの両方が描かれたボートの珍しい壁画には、2人の人が乗っている様子も描かれています。1人は魚をやりで突き刺しているように見え、もう1人はボートを漕いでいます。ラムリは、このボートの壁画は年代測定には理想的なものであるものの、残念なことに十分な量の方解石の層がない、と言います。もう1つ珍しい壁画は、オニイトマキエイの壁画です。 

オベールは、スラウェシ島で最近特定された年代は、「人間の創造性に関する深い源、おそらくアフリカでの源を示唆している」と述べています。ハキムは、後にマカッサルに帰ってから、洞窟にそれほどたくさんの野生生物の壁画があった理由について説明してくれました。彼は、「通常、壁画はある種の魔術的で神聖な儀式と関連付けられます。それらは狩猟がうまくいくようにとの希望や祈りを込めて行われたものです」と言います。それはまた、環境を描写する1つの方法でもある、と彼は付け加えています。 

この4日間、私たちが目にしたのは単なる壁画のみではありませんでした。先史時代の精神をも垣間見ることができたのです。先史時代における芸術の進化を紐解く上で、スラウェシも考慮する必要があることを認識するようになったのはつい最近のことです。しかし、新しい説はすべてそうであるように、この説も具体化するための時間が必要であり、完全に受け入れられるようになるのは、さらに研究や年代測定プロジェクトが進められた後のことです。 

レアン・サカパオの断崖を上る急な坂道に沿って、丘を囲む劇的な景色を目にすることができます。この景色は、巨大な幹のような石灰岩の柱に時折阻まれます。この地域の人口、および人間の活動が増えていくことにより、それほどの長い期間に渡って壁画を守っていた二酸化炭素、湿度、および他の環境条件の絶妙なバランスが変化してきており、年代測定作業や地域の保存が急務となっています。
レアン・サカパオの断崖を上る急な坂道に沿って、丘を囲む劇的な景色を目にすることができます。この景色は、巨大な幹のような石灰岩の柱に時折阻まれます。この地域の人口、および人間の活動が増えていくことにより、それほどの長い期間に渡って壁画を守っていた二酸化炭素、湿度、および他の環境条件の絶妙なバランスが変化してきており、年代測定作業や地域の保存が急務となっています。

ハキムは、発見して年代測定しなければならない壁画はもっとたくさんある、と考えています。彼は、古代スラウェシは、最初に移住してきた現代人の地理的人種のるつぼの1つであったと見ています。例えば、「カリマンタン(ボルネオ)はスラウェシへの橋の1つだった」と彼は語っており、結果として、この地域は研究すべき新しい主要な地域となっています。 

オベールも同意しています。彼は、スラウェシの壁画の年代測定をさらに進める計画であるといい、現在カリマンタンで発見された壁画の年代測定を行っています。東南アジアの壁画の年代を特定することにより、スラウェシの作品に参考になる他の証拠が提供されることになります。 

しかし、緊急性という意味で、時間が重要な要素となっています。4日間に渡る洞窟探検で見た通り、スラウェシの壁画は環境による攻撃にさらされています。その風化は急速に進んでいます。マカッサルのオフィスに戻った後、私たちはセンターの図書館で、ハサヌディン大学の考古学格子であるイワン・スマントリ(Iwan Sumantri)に会いました。彼は、「研究者、そして考古学者として、マロス・パンケップの先史時代の洞窟付近で行われている採鉱のことをとても心配しています。さらに、地元の住民が水田でわらを燃やしたりすることで、洞窟の保存に脅威を与えており、壁画の劣化が急速に進んでいるのです」と語っています。

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レアン・レアン先史公園の道をぶらぶら歩く若者たち。公園の壁画は十分に文書化されていますが、127の洞窟のほとんどが公園の外にあり、現時点で調査が行われたのは90の洞窟のみです。右下:40,000年前に始まった慣行の現代版として、公園近くの村の住人であるシャリフディン(Syarifuddin)は、色あせた儀式的な手形を見せてくれました。これは、4年前、伝統に従って幸運をもたらすように家の丸太に付けられたものです。 
40,000年前に始まった慣行の現代版として、公園近くの村の住人であるシャリフディン(Syarifuddin)は、色あせた儀式的な手形を見せてくれました。これは、4年前、伝統に従って幸運をもたらすように家の丸太に付けられたものです。 

保存の必要性により、年代測定にさらに緊急性が加わることになりました。スマントリは、現場保存の最初のステップは、文書化であるものの、壁画が発見されている127の洞窟のうち、今まで文書化されたのは約90であると言います。第2に、規則や規制に従って、一般に情報を与え意識を高めるプログラムの実行を推奨しています。「例えば、他の壁画に関連した材料を探し出すことにより、壁画の耐久性を高めるための物理的保存を行う必要があります」。重要な壁画にフェンスなどの物理的障害を設置することも、破壊を抑制することにつながる、と彼はつけ加えています。

結局のところ、これらは世界的に重要な地域なのです。2014年のアンティクィテイ誌「東南アジアの壁画の初期生存の世界的意味(The global implications of the early surviving rock art of greater Southeast Asia)」と題する記事の共著者であるグリフィス大学のポール・タオン(Paul Taon)は、「東南アジア、ヨーロッパにおける壁画に関する理解のみならず、オーストラリアの壁画に関する理解という意味も持っている」と書いています。彼は、「例えば、カカドゥ・アーネム・ランドや北オーストラリアの他の場所では、現存する最古の壁画は自然のままの動物や抜き染めで構成されている。これにより、これらのデザインの作成が最初の植民地化の時代に伝えられたものである可能性が考えられるが、個別に発明されたものである、またはまだ知られていない文化交流の結果によるものである可能性も発生する。これら3つの可能性は、どれも興味をそそるものである」と加えています。

これらの問題を解決するため、アリステア・パイクは、現在新しい研究が進行しているアラビア半島、インド、そして沿岸の移動ルートなどを新しい調査分野として加える必要がある、と語ります。 

村々を通り抜け、そこの住人と話をしながら、考古学者のラムリ、パンパン、そしてチームメンバーは洞窟の4日間に渡る探検を終えました。パンパンは、地元との関係が保存の成功の鍵をにぎっている、と語ります。彼は、「私たちは、壁画が彼ら自身が誇れる遺産であることを理解できるようにしています」と言っています。
村々を通り抜け、そこの住人と話をしながら、考古学者のラムリ、パンパン、そしてチームメンバーは洞窟の4日間に渡る探検を終えました。パンパンは、地元との関係が保存の成功の鍵をにぎっている、と語ります。彼は、「私たちは、壁画が彼ら自身が誇れる遺産であることを理解できるようにしています」と言っています。

すべてを動かすもとになったのは、スラウェシの新しい年代です。オベールは、「この新しい年代により、人類の創造性に関する歴史の新しい章が始まりました。これは、40,000万年前、世界の反対側で、私たちの先祖が同時に洞窟の天井や壁に壁画を作成していたことを示しています。つまり、人類の創造性の一番の起源は、恐らくアフリカであることを示唆し、人類という種は特別な種であり、芸術が私たちを人類にしているのである、という考えを強化するものとなっています」と語っています。

ハキムは、これはインドネシアにおいて特別に喜ばしいことである、と語ります。「これまでヨーロッパは、世界最古の壁画があることで知られてきました。今は、最古の壁画はマロスにあります。私はそれを本当に誇りに思っています」と彼は述べています。 

グラハム・チャンドラー 著者 グラハム・チャンドラー (www.grahamchandler.ca) は、考古学、航空学、およびエネルギーに関する論題に焦点を当てている。ロンドン大学で考古学の博士号を取得。アルバータ州カルガリー在住。 
メレディス・コフート メレディス・コフート(meridith.kohut@gmail.com; @meridithkohut)は、2008年より数々の世界的出版物向けに中南米およびメキシコ各地のニュース、特集記事、ビデオ・フォトジャーナリズムを制作している。テキサス大学ジャーナリズム校(University of Texas School of Journalism)卒業。ベネズエラのカラカス在住。

左から右:斜交平行模様の甲羅が描かれたかめの頭、尾、ひれ/足(レアン・ブル・バラン)、小さな池で泳ごうとしている見える2匹の魚(レアン・ラシタエの正面の壁)。パンパンは、「これらは海に生息する種ですが、ジン洞窟の壁画には淡水魚が描かれています」と語ります。レアン・ジャリエ(Leang Jarie)の小さな形象的壁画には、人が描かれています。  ブル・シポンのこのムカデ(左)は、作成者が自然の石の特性を利用して、対象の姿を強調したものです。この手法は、西ヨーロッパの壁画では一般的に見られますが、スラウェシにおいては珍しいものです。 このぼんやりとした壁画には、ペリカンが描かれています。首が曲線を描き、魚を見つめている様子です。

This article appeared on page 2 of the print edition of AramcoWorld.

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