en zh es ja ko pt

巻 65, 号 62014年11月/12月

In This Issue

裏道に佇む中国の歴史的モスク(The Back-road Historic Mosques of China) // 文:シーラ・ブレア(Sheila Blair) | ジョナサン・ブルーム(Jonathan Bloom) | ナンシー・ステインハード(Nancy Steinhardt)  | 写真:ジョナサン・ブルーム
a
中国河南省開封にある清真東大寺の正門の木板は、龍、魚、鳥、牡丹や蓮の花、幸運のシンボル等、中国伝統のモチーフがカラフルに描かれ、その中にアラビア文字のカリグラフィが見える。LED照明の電源コードが屋根瓦を支える垂木から垂れ下がっている。 

世界最大の人口を誇る国が持つ、その小さな数字に私たちは興味を持った: 100。 これは、米テキサス州やフランスを若干上回る程度の面積にあった30,000棟を超えるモスクのうち、1700年より前に建設され、中国の中部と北部にまだ現存するモスクのおおよその数だ。 私たちはその中で最古かつ最も忘れ去られたモスクを探して中国の奥深くまで潜入する旅に出ることにした。

入口とその向こうの景色を美しく見せる枠のような機能を果たす壁の円形開口部は、中国で「月門」として知られている。 中国の庭園で一般的によく見る手法であるが、宗教的建築物でも採用されており、この写真にあるものは、西安大清真寺の壁である。 
入口とその向こうの景色を美しく見せる枠のような機能を果たす壁の円形開口部は、中国で「月門」として知られている。 中国の庭園で一般的によく見る手法であるが、宗教的建築物でも採用されており、この写真にあるものは、西安大清真寺の壁である。 

出発する前の準備段階として、統計的なことを調べた。 中国の13億以上の人口の内、1.8%にあたる2300万人がイスラム教徒である。 その内訳は、中国語を話す回族1000万人、チュルク語を話すウイグル族840万人を始めとする10の主要な民族や言語グループで構成されている。 それ以外には、チュルク語を話すカザフ、キルギス族、サラール族、タタール族、ウズベク族、およびモンゴル語を話す東郷族と宝安族、さらにペルシャ語を話すタジク人がいる。 

滞在日数は限られており、中国の誰もが知っている歴史的モスクを訪れる時間はなかった。 例えば、北京の牛街清真寺(この名前は、近くに、牛(豚ではない)を屠殺するイスラム教徒居住区があることから付けられた)や西安大清真寺等、観光客がツアーガイドに率いられて訪れる観光名所である。 また、広州(旧広東)にある懐聖寺や、泉州の清友寺、杭州の鳳凰寺、揚州の仙鶴寺等、中国の南東部の海岸沿いで、観光客に人気の古い港町にあるモスクも避けた。 これらすべてのモスクには、シルクロードに沿って海路で中国に上陸したイスラム教徒の布教者が中国の狭義や神話を反映して付けた中国名がある。 また、カシュガルや中国最西端にあるその他の街でウイグル族が集まる有名なモスク群もリストから外した。これらのモスクは近くのウズベキスタンやその他中国西部に程近い国のモスクと極めて共通点が多いためである。

最初に訪れたモスクは、河北省北西部にある清真北大寺で、私たちがこれまで見てきた歴史的モスクに共通する要素を多く示しながら、中国のこの地方特有である、非宗教的な要素と宗教的な要素の伝統的特徴も複雑に取り入れている。 例えば、屋根の低い応接間や部屋に囲まれてた中庭や木造建築、やや高い位置にある礼拝大殿、その周辺を囲む石やレンガ壁である。 
私たちが訪れた最初のモスクは、河北省北西部にある清真北大寺で、私たちがこれまで見てきた歴史的モスクに共通する要素を多く示しながら、中国のこの地方特有である、非宗教的な要素と宗教的な要素の伝統的特徴も複雑に取り入れている。 例えば、屋根の低い応接間や部屋に囲まれてた中庭や木造建築、やや高い位置にある礼拝大殿、その周辺を囲む石やレンガ壁である。 
最上: 最初に訪れたモスクは、河北省北西部にある清真北大寺で、私たちがこれまで見てきた歴史的モスクに共通する要素を多く示しながら、中国のこの地方特有である、非宗教的な要素と宗教的な要素の伝統的特徴も複雑に取り入れている。 例えば、屋根の低い応接間や部屋に囲まれてた中庭や木造建築、やや高い位置にある礼拝大殿、その周辺を囲む石やレンガ壁である。: 多くの歴史的モスクは、近年改装工事が進んでいる。例えば、甘粛省の天水の北関清真寺。ここでは、写真の奥の方、中央にある礼拝用のくぼみであるミヒラブの上にアラビア文字のカリグラフィがオリジナルのままの状態で残されている。 

しかし、それ以上に私たちの関心を引いたのは、あまり知られていない、裏道に佇む中国中部や北部の歴史的モスクで、これらはイスラム教のニーズを満たしつつ、中国古来の建築デザインを織り込んで建設されている。 

北京で集合したその足で、車に乗り、北京の北西にある河北省西部へと向かった。 清真北大寺を訪れるために張家口市へ向かう3時間の旅の途中、流れていく景色の中で万里の長城が見えた。 このモスクの近くにある本屋の外壁に、来客者に向けてアラビア語で書かれた「アス・サラーム・アレイクム(平和が共にありますように)」という挨拶が読んだ人の心を暖かくし、店内へといざなう。 店内にはコーランや、店主が中国語とアラビア語で書いたカリグラフィが所狭しと陳列されている。 この旅が有意義な旅になることは明らかだった。 

実際、この先2週間の陸路だけを用いた旅程では、運転手付きで6台の車を乗り継ぎ、固原市から黄河谷を横切りチベット高原にある西寧へ向かうために夜行列車も使った。 (下の地図参照)この旅の中で、私たちは中国中部、北部、中西部にある河北省、山西省、甘粛省、青海省、陝西省、湖北省と河南省の7省だけでなく、内モンゴルと寧夏回族自治区という2つの自治区も巡った。これら地域で最も高い人口を占めていたのは回族だった。

18世紀、イスラム教を中国中部にもたらすのに貢献した布教者の霊廟は、この左側の写真の甘粛省臨夏にあるもののように、パゴダ風建造物でそれと分かるようになっており、礼拝や説法のための施設がその周りに建てられている。 外観からは、それが説法やコーランを勉強するための由緒ある施設であることはほとんど分からない。 右: 浅浮き彫りフレスコ画で描かれた中国中部古来の壁で囲まれた複合建築。   浅浮き彫りフレスコ画で描かれた中国中部古来の壁で囲まれた複合建築。  
18世紀、イスラム教を中国中部にもたらすのに貢献した布教者の霊廟は、この左側の写真の甘粛省臨夏にあるもののように、パゴダ風建造物でそれと分かるようになっており、礼拝や説法のための施設がその周りに建てられている。 外観からは、それが説法やコーランを勉強するための由緒ある施設であることはほとんど分からない。 : 浅浮き彫りフレスコ画で描かれた中国中部古来の壁で囲まれた複合建築。  

中国にあるモスクの多くは長い歴史があると言われているが、これらがどれだけ古いのかを特定することは困難な場合が多い。 毛沢東主席が1976年に死去するまで10年続いた文化大革命中に失われたものについては、誰も語りたがらない。 この期間中、宗教の実践は規制され、多くの宗教的建造物は没収され、別の目的で使用された。 いくつかの地域では、何世紀も前にモスクが建設されたいきさつが片面をアラビア語で、反対側を中国語で刻まれた石碑もあったが、現存しているものの多くが1700年代以降のもので、近代的に再建、改装、再塗装されている場合も多く、すべてが元来の建築設計からかけ離れたものになっている。 実際、甘粛省天水にある北関清真寺は、そのような改装作業の真っ只中であった。

近年建設されたミナレットや非中国様式のモスクが道沿いにある臨夏の風景(左側)。かつてアジア諸国とのシルクロード交易により栄えた臨夏は、新旧合わせて70棟と、中国で最もモスクが多い都市である。
左: 寧夏自治区固原市の施設への玄関口は、イスラムと中国の建築装飾をそれぞれ組み合わせて設計されている。 外装装飾は、アラビアと中国の文字と花や果物、鳥、動物、神話獣等のモチーフを組み合わせ、屋根には中国古来の緑色の瓦を敷設し、空想上の動物を形取った湾曲させた頂華をあしらっている。 右上: 近年建設されたミナレットや非中国様式のモスクが道沿いにある臨夏の風景(左側)。かつてアジア諸国とのシルクロード交易により栄えた臨夏は、新旧合わせて70棟と、中国で最もモスクが多い都市である。 右下: 青海省の省都西寧市にある伝統的な中国様式のモスクのポーチの上には最近取り付けられた板ガラス窓は、近くにある「国際的イスラム」様式で近年建設されたモスクのドームやミナレットの影響を受けている。 

7世紀にイスラム勢力が拡大するとすぐ、布教者や商人を主とするイスラム教徒が中国に上陸した。 彼らは、陸路は中央アジアを横切りシルクロードから、海路はマラッカ海峡経由でインド洋からやってきた。 歴史書を紐解くと、651年に3代目カリフ・ウスマーンが中国中部長安にあった唐朝廷に使節を派遣したとある。 イスラム勢力が中央アジアに拡大し、チュルク教からイスラム教へと改宗が進む中、10世紀には新彊ウイグル自治区西部のいくつもの町が、イスラム文化の重要な拠点となった。 いくつかの沿岸の町で発見された12世紀の墓石を除けば、中国におけるイスラム勢力の明白な証拠は南東部にある14世紀に建設されたと推定されるいくつかのモスクが最古のもので、これらのほとんどが現在再建されている。 

18世紀および19世紀には、新彊ウイグル自治区カシュガルの外れに1693年から1694年にかけて埋葬されたアパク・ホージャ(Afak Khoja)の信奉者がさらに東、甘粛省、寧夏回族自治区、中国中部の他の地域へとイスラム教の波をもたらした。 弟子たちの墓も礼拝堂や説法場所を始めとする宗教施設の中心地となった。 これらの建物は中国古来の様式とモチーフを採用しつつ、イスラム教の要請に合わせて設計されたが、西側のイスラム諸国からの訪問者が見ればびっくりするようなデザインであった。 例えば、アラビア文字のカリグラフィの多くは、中国古来の偶像的な絵画と共に壁等を装飾していた。 甘粛省臨夏市には、イスラム教を勉強する拠点であり、喧騒の都市生活の中で静寂を得られるオアシスとしての機能も果たすこれらの施設がたくさんあった。

a
新しい中華回郷文化園(右下)は、Na Family Mosque(訳注:漢字表記不明)()から程近いところにあるが、その建築設計のモデルとなった、17世紀にムガール帝国皇帝ジャハーンが建てたインド・アーグラのタージ・マハルからは3000キロ離れ、時代も3世紀違う。 この文化園は中国の新富裕層とイスラム文化のグローバル化を反映している。 右上: 寧夏回族自治区のNa Family Mosqueは、バルコニーや上向きの瓦など、中国古来の建築要素を取り入れているが、近年修復されたアーチ型の玄関口、正門を挟んだ2基のグレーのレンガ造りの塔は、ミナレットが正門を挟んで対照的に置かれるのが特徴的な中東モスクの影響を想起させる。  モスクの説教壇もまた、伝統的なイスラム様式の中国流の解釈である。  奥の壁は、同様に、中国のモチーフとアラビア文字のカリグラフィを組み合わせたメダリオンが描かれている。 

古さを残しながら、刷新されたものも多く発見した。 かつては、中国のイスラム教徒がイスラム教の聖地であるメッカに巡礼するのは2年を要する長旅であった。 今日、中国のイスラム教徒は、国内の非イスラム教徒同様、かつてないほど他の世界と結びついており、建築への影響が急速な勢いで発現し始めている。 多くの古いモスクは、新設のきらびやかなモスク同様、通常、国外からの資金援助を受け、先端の尖った緑色のドームやすらりと背の高いミナレット等、中国文化にはなかった特徴、いわゆる「国際的イスラム」様式で修復されている。 このように中国古来の建築要素に他国の建築要素が組み合わさった顕著な例を寧夏回族自治区永寧県で私たちは目撃した。Na Family Mosque(別名、Naijahu Mosque)から程近い位置にある中華回郷文化園である。この建築様式は、インドのタージ・マハルをはっきりと確認できる。

a
土台の上に外壁を建設し、レンガや瓦屋根を敷設する長方形の木造軸組構造で建設された河南省開封市竺仙清真寺()は、西寧近郊チベット高原にある楽都県の仏教の僧院の拝殿()とほぼ同じ構造である。 仏寺であれば鼓楼や鐘塔となっているところが、モスクでは通路を挟むように立つ2棟の張り出しに記念石柱を立て、モスクの歴史を刻んでいる。
中国地図

このように中国古来の建築様式以外で建設された新しいモスクは、数千年に渡り一般住宅や宗教的建物の別なくすべての建造物に常に適用されてきた共通の設計原則を用いる中国で長く生きながらえてきた建築文化に大きな変革をもたらしている。 支配階級やその他上層階級の広大な宮殿や大邸宅は、仏教を皮切りに、道教、儒教の各種寺院、そして最後にはモスクを建築する際のモデルとなった。 これは、驚異的な数の中国の建物がどれもそっくりになるという結果をもたらした。 例えば、9世紀の仏教寺院、13世紀の道教寺院、15世紀のモスク、16世紀の葬祭ホール、17世紀の儒教ホール、19世紀の住宅。これらすべてが見逃すことのできない類似性を示している。 都市から都市、モスクからモスクへと旅を続ける中、なぜ中国建築は1000年以上に渡り、建設時期も、建設される場所も生態系も、建設目的も異なる建物間でこんなにも多くの共通した特徴があるのだろうかという質問が浮かんだ。 建物の規模や使用されている資材の品質は、建造物の位置付けや出資者により異なっているものの、多くの場合、建造物の使用目的による違いと指摘できるものはない。

旅を続ける中で、なぜ中国建築は1000年以上に渡り、建設時期も、建設される場所も生態系も、建設目的も異なる建物間でこんなにも多くの共通した特徴があるのだろうかという質問が浮かんだ。この質問に対する単純な回答は、14世紀から20世紀に作られたモスク建築に見て取れるように、柔軟性である。 これらはすべて軸組を駆使した木造軸組構法を用いて建設されており、屋根部には瓦が使われ、長方形の中庭の周りの水平軸に沿って対照的に建物がグループ化されており、壁の向こう側は、通常、レンガを積み上げ、正門は南を向いている。 

山西省の北部、大同で最近改装された18世紀のモスクの入口を挟むように2基の3階建ての塔が立っている。これは、近年一般化されたイスラム教の非中国的シンボルの地元の解釈である。  塔の上部にある三日月形の頂華は軒先から中国伝来の鐘もぶら下げている。
山西省の北部、大同で最近改装された18世紀のモスクの入口を挟むように2基の3階建ての塔が立っている。これは、近年一般化されたイスラム教の非中国的シンボルの地元の解釈である。  塔の上部にある三日月形の頂華は軒先から中国伝来の鐘もぶら下げている。

そのため、伝統的な中国の宮殿や寺院の設計プランをモスクに変えることは、建物を中国で長く真西の方向と理解されてきたメッカの方角に向けるという程度で多くの場合そう難しいことではなかった。 通常、礼拝堂が本館となっている。本館は、その重要性を示すために台座や柱脚の上にある複合建築の中央にあり、これは中国モスク特有である。 中庭の壁に沿って、教室や事務所、沐浴所、職員や学生、旅行者用の宿泊施設等の補助施設が敷地内に併設されている。これらの施設は、一部イスラム圏では、マドラサ (イスラム教の学校)、 クタブ (小学校)、カナカ (ホスピス)イマレット (貧困者への無料給食施設)等、別のまたは近隣の建物に置かれることが多い。 これらのほとんどの施設(教育施設、事務所、宗教指導者や訪問者用居住施設)は、同様に、中国の仏寺や道教寺院でも併設されている。

a
中国伝統の手法で書かれたアラビア文字のカリグラフィ( )は、多くの場合、モスクの壁を装飾するために採用されている。写真の例は、開封市清真東大の入口。 流れるような書体は、中国以外のイスラム社会で一般に使用される葦ペンではなく、中国伝統の書道によるものである。 中央: 通常、モスク中庭の中心に置かれる、パゴダの様な「 望月摟」はミナレットではない。しかし、青海省循化サラール族自治県にあるこのモスクでは、据え付けられたスピーカーが、これが元来この理由で設置されたことを物語っている。 : 中国の伝統的な建物の屋根は、通常、施釉を塗布した瓦が敷設される。屋根の先端や稜線に沿って植物や花のモチーフや龍や鳳凰等、想像上の生き物が飾られる場合もある。 筒瓦の先端にはアラビア語の碑文の形に成形されているものや、龍の図柄が押印されているものもある。 これらの特徴をすべて取り入れているのは、河南省沁陽市の北大寺の屋根である。
内モンゴル自治区の首都フフホト市のモスクの外にある甘味屋では、看板は中国語主体で書いてあるが、小さな楕円マークの中にアラビア語でこの店で販売している食品はハラールであり、イスラム教徒が食べることができる旨を記している。 一方、楕円マークに書かれたアラビア文字は、中国語のように、一語一語独立して書かれており、これは誤りである。
内モンゴル自治区の首都フフホト市のモスクの外にある甘味屋では、看板は中国語主体で書いてあるが、小さな楕円マークの中にアラビア語でこの店で販売している食品はハラールであり、イスラム教徒が食べることができる旨を記している。 一方、楕円マークに書かれたアラビア文字は、中国語のように、一語一語独立して書かれており、これは誤りである。

さらに、中国のこの伝統工法は、仏陀が残した仏舎利を納めた塚を意味するインドの仏塔の中国版であるパゴダとは異なり、通常、高さがない建築が特徴だ。 礼拝時刻を告知するために使われる塔であるミナレットは、伝統的な中国のモスクでは必ずしも必要なものではないとされた。しかし、一部の中国モスクでは、建設業者がパゴダの代わりに「望月摟」をモスクの中庭の真ん中に置いた。 これは礼拝時刻を告知するためではない。この機能は、モスクの入口から行われ、現在でも、電気式増幅器をつけて行われる場合がある。 

a
中国の伝統建築は、一般的に、木材の柱と梁を使用し、アーチ形構造を採用しない。 例外は、モスクのメッカ方向にある壁に設けられたくぼみであるミヒラブで長い間採用されてきたアーチ型天井だ。モスクはそれまでにはなかった形状を中国のモスクにもたらした。  左から右: 臨夏(老王寺)、同心県、定襄県(左下)のミヒラブ。 右下: 定襄県の塗装された木材の梁。
a
a
保定と開封(竺仙清真寺)。

ほとんどの地域が乾燥したイスラム圏では木材が不足しており、建築業者はレンガや石を好んで使うが、中国では木材はいつの時代も潤沢に利用できた。 伝統的な中国の木造建築は、宮殿、寺院、モスクのいずれを建設する場合でも垂木や屋根を支える横木を支えるために木製の柱が重要な役割を果たしている。 これらの要素はかすがいを用いたほぞ継手法を使用して組んでおり、ネジや釘を使わない 軸組として知られる。 

この構法は14世紀から17世紀の間に複雑さを増した。 14世紀には軸組は2、3層重ねるだけのシンプルなものであったが、17世紀になる頃までに9つの異なる角度から5~7層の軸組となるまでになった。 中国の腕木は極めて精巧で、ウズベキスタンのブハラやスペインのグラナダ等、万華鏡のような鍾乳石に似たモチーフが特徴のイスラム建築を装飾するムルカナスの中国版であるとみなされてきた。

a
青海省の黄河の上流にある、洪水泉清真大寺は、中国中部で最も保存状態が良く、最も刺激的なモスクの1つだ。 その入口部では、釘やネジを一切使わず、柱や梁、腕木がほぞ継手法により組まれている中国古来の木造軸組建築の極めて顕著な特徴を示している。

建築において木材は最も重要な資材であるが、レンガは建物の壁を分けるため、外壁として特徴的に使用されており、瓦が屋根部には使用されていた。 伝統的な中国の建築業者はアーチ型天井や丸天井施工法に精通していたが、ほとんどの場合、地上の建造物ではなく地下の墓でこれを使用していた。 

一方、イスラム教徒にとってアーチは特に宗教的な意義がある。 イスラム時代にイスラム教が創始して以来、モスクのメッカ方向(キブラ)にある壁に設けられたくぼみであるミヒラブは、今日まで、さまざまな差異はあっても、アーチという形状だけは変わらずに採用されてきた。 北アフリカ、中東、中央アジアでは木材が不足しているため、これらの地域はいずれも、天井部を施工するためにレンガや石を用いて丸天井にする。丸天井とは空間を覆うための屋根部をアーチ型にしたもののことである。 中国人のイスラム教徒もまた、丸天井とイスラム教を結び付けていた時期があるようだ。私たちが訪れた木造建築のモスクの中には、建物の最も重要な部分であるミヒラブの前の柱間にレンガでアーチ型天井や丸天井を施したものがあった。 この種の建築は、中国語で「無梁殿(むりょうでん)」として知られる。 また、構造上は柱や梁に依存したまま、ドーム空間を真似た木造建築が作られていた時期もある。 

a
中国建築はこの1000年基本的に変わっていないため、ある建造物の推定年齢を特定するには、庇を支えるための横木である「軸組」の複雑度を見る必要がある。 軸組が複雑であるほど、近代に作られたということである。 これにより、洪水泉清真大寺は18世紀から19世紀にかけて建設されたと推定される。 : 洪水泉清真大寺では、素晴らしい彫刻が施された木板が張り巡らされ、ドームを髣髴させる精巧な木張り天井が特徴のこの小さな四角い部屋にミヒラブが設けられている。  

モスクの装飾は、カリグラフィ、幾何学模様、植物を用いた装飾というイスラムの伝統モチーフと、芍薬、蓮、龍、鳳凰という中国の伝統モチーフを同列で組み合わせたものだ。 モスクであれ、市場であれ、アラビア文字の使用が中国のイスラム教徒とそれ以外の市民の最も明確な違いである。 

17世紀頃、中国の腕木は極めて精巧で、ウズベキスタンのブハラやスペインのグラナダ等、万華鏡のような鍾乳石に似たモチーフが特徴のイスラム建築を装飾するムルカナスの中国版であるとみなされてきた。中国のアラビア文字で書かれたカリグラフィの多くは、他のイスラム圏が使用する葦ペンではなく、中国で長く使用されてきた筆を使って流れるようなラインで書かれている。 植物や花を描いた装飾では、2つの伝統が多く混じり合っているが、偶像を一般的に回避することが求められるイスラム教の宗教的制約の中でも神話に登場する獣を描く中国らしさもある。 これらの神話獣が入口や装飾的な屋根の両脇に守り神のように描かれている場合もあれば、彫刻や塗装を施した装飾の中に組み込まれて描かれている場合もある。 同様に、イスラム教徒が中国伝統のお香を焚くモスクや、砂に立てられた線香から煙が溢れる青銅製または陶器製の大きな壷(アラビア語と中国語で碑文が刻んである)が置いてある中庭もある。

今回の旅で最も驚いたことは、平安県にある美しい洪水泉清真大寺であったかもしれない。このモスクへは、黄河の上流に沿って青梅省の黄土高原を抜け、西寧市から7時間かけてようやく辿り着いた。 中央アジアの砂漠の風により1000年かけて蓄積された黄土の上に立つ小さな農村をいくつも通り過ぎる中、この先に素晴らしい建造物が存在すると想像することはできなかった。

a
洪水泉清真大寺の管理人は私たちを歓迎してくれた。 モスクとしては珍しいことに塗料のない外観が、保全された元々の美しさを強調している。

驚いたことに、寂れた場所にあるこのモスクでは、改装された痕跡はほとんどないにも関わらず、保存状態が良好だ。 目を閉じて、近代中国ではほとんど失われてしまった静けさの中で歌うカッコウの小夜曲に耳を澄ますと、この木造モスクが卓越した精巧度で建設された18世紀か19世紀にタイムスリップした。  

ナンシー・ステインハード シーラ・ブレア(Sheila Blair)sheila.blair@bc.edu)とジョナサン・ブルーム(Jonathan Bloom)jonathan.bloom@bc.edu)は、ノーマ・ジーン・カルダーウッド大学およびボストンカレッジでイスラムおよびアジア美術学を、バージニア・コモンウェルス大学ではイスラム美術のハマド・ビン・ハリーファの講義を担当している。
シーラ・ブレアとジョナサン・ブルーム ナンシー・ステインハード(Nancy Steinhardt)nssteinh@sas.upenn.edu)はペンシルバニア大学東アジア美術学部学部長兼教授である。 著書にはエジンバラ大学プレスから近日出版予定の『中国の初期モスク(China’s Early Mosques)』がある。

 

本記事は、印刷版Saudi Aramco Worldの14ページに掲載されています。

2014年11/12月号の画像に関しては、パブリック・アフェアズ・デジタル・イメージ・アーカイブを参照してください。

This article appeared on page 14 of the print edition of Saudi Aramco World.

Check the Public Affairs Digital Image Archive for 2014年11月/12月 images.