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巻 64, 号 42013年7月/8月

In This Issue

ブルガリア南部の僻地、景色は素晴らしいが経済的には開発の進んでいないピリン山脈とロドピ山脈に囲まれた村々で、ブルガリアのムスリムが「ポマク」の名を取り戻そうとしている。 45年間の共産主義体制で疎外された彼らにとって、「ポマク」は「罪悪感を感じるべき言葉」になってしまった――そう指摘するのはポマクの名アナリスト、メフメド・ボユクリだ。 「今はインターネットのおかげで、違和感も減りました。 私たちが守ってきた文化遺産すべてを象徴する言葉になっています。」 バルカン半島にいくつかあるムスリム集団の中でも最大のポマク。だが、第1次世界大戦後にオスマン帝国から分割されたバルカン諸国では、ポマクをはじめとする民族グループが、開かれた国境や、最近ではソーシャルメディアを活用して共通の文化を再発見している。

1980年代末に国境が開かれ、そしてソーシャルメディアが到来した。そんな中、サレイカ・グロシャールのような若者が、バルカン全土を包括したムスリムのアイデンティティを新たに構築しようとしている。共産党支配を知らずに育ったブルガリア、ブレズニツァ出身の22歳だ。 彼女は伝統的な民族音楽を愛し、フェイスブックでは「ポマク、トルベシ、ゴラニ: 3つの名前、1つの民族」というページを運営している。 コソボ南部とアルバニア北部に住むムスリムの民族、ゴラニの友達をつくり、チャットをしたり、現地の民族音楽を交換したりしている。 「彼らはブルガリア語を、私はゴラニ語を学んでいます」と彼女は言う。

こういうのは気が早いかもしれないが、19世紀末と20世紀初頭にオスマン帝国の西側が民族国家のブルガリア、アルバニア、ユーゴスラビアに変わったことで失われたつながりの糸が、こうした文化的シフトによって再び紡ぎ直されているようである。 それまでオスマン帝国の統治は、ムスリムとユダヤ教徒、キリスト教徒が定義するコミュニティー概念である「ミレット」に基づくもので、オスマン帝国は独自の法律で統治をすることができた。 19世紀に国のアイデンティティが確立されるまでの間、オスマン帝国の臣民はミレットにアイデンティティを見出してきた。 オスマン帝国では、トルコ人でもアルバニア人でもアラブ人でもスラブ人でも、ムスリムは皆ムスリムのミレットに属した。言語や地理的な起源、民族性はそれほど重要ではなかった。

1800年代にバルカン半島でキリスト教諸国が新たに建国されると、ムスリムたちが孤立を始める。政府はマイノリティの彼らを潜在的な破壊分子とみなした。 20世紀、共産主義はブルガリアだけで少なくとも4つの同化政策を強行した。1回目は1912年、最後は1989年。同化政策は、オスマン帝国の強制のもとで何世紀も前にムスリムに改宗させられた国民が、クリスチャンとしてのアイデンティティを取り戻すという名目を装って強行された。 だがその後東欧では共産主義が崩壊し、EUの拡大で国境が開かれるようになった。やがてバルカン半島のムスリムたちは、オンラインのソーシャルメディアを手に入れる。これが、彼らが自分たちをどう捉えるか、互いにどう関わり合うかを最も大きく変えるツールとなった。

「私たちを取り囲んでいた国境が急に開放され、自分たちと同じような文化と、自分たちのような人々が存在する場所が他にもあることを知ったのです。」ポマクの伝統文化と、オンラインでのポマク・アクティビズムで有名になった町、ブレズニツァに住むボユクリは語る。 「自分たちは独りでないと知ったのです。」

ボユクリは、バルカン半島のムスリムが互いを知るようになるにつれ、ムスリムの民族グループに与えられた名前が人工的に思えてならなかったと言う。 例えばポマクはブルガリアだけでなく、同化が進められたギリシャ北部やトルコ西部にもいる。 ブルガリアに住むポマクはブルガリア語を話し、国外に離散したグループは移住先の言葉を話す。

コソボとアルバニアでは、トルベシとゴラニがナシンスキを話す。ブルガリア語を話す人なら部分的に理解できる南スラブ語群の言語だ。 トルベシはコソボとマケドニアに、ゴラニはアルバニア、コソボ、マケドニアに住んでいる。 ボスニアには、ムスリムの「ボスニアック」もおり、いとこのような関係だとされる。ボスニアックは、言語的にも文化的にもかけ離れているとはいえ、自分たちをムスリムであるよりもまずボスニア人だと思っている。

外から来た者は、そうした区別のニュアンスに無頓着だ。 「ゴラニ」はゴーラ県に住む人という意味でしかない。ゴーラは1928年、アルバニアとユーゴスラビアに分割された。 トルベシとゴラニは共通の言語を持ち、同じ民族だと自認するが、外部の人と話すときは、トルベシとゴラニを区別する。 彼らの言語「ナシンスキ」は、「ナシ」が「私たち」であることから、文字通り「私たちのもの」を意味する。 個人やグループは「ナシネッツ」(私たちの一人)と呼ぶ。 ブルガリア民族誌学者のヴェセルカ・トンチェワは、疎外の度合いは疑う余地もないとしている。 自分たちを「私たち」と定義することは、それ以外はすべて「よそ者」とみなしていることである。 だがこの区別も変化し始めた。

ピリン山ろくのブレズニツァは、活動家によるポマク文化の保存運動で知られるが、その他にも歌や織物、衣装、イスラム伝統の美しさが名高い。 3500人ほどの人口の約90%がムスリムだ。 昔ながらの木と泥レンガの建物が、コンクリート製の現代家屋と隣り合って立つ。 アルミ小屋の「かんたんローン」は、その場でお金が借りられる消費者金融だ。 今はどこに家にもインターネット接続があるので、ネットカフェは店を畳んだ。

経済面では、ブレズニツァの人々は共産主義体制後、建設業での雇用機会が増えたことから、従来のタバコ栽培を離れ、男性はブルガリア都市部や海外に流出した。 女性の多くは、ドイツに製品を輸出する、村の2つの繊維工場で働いた。 2つの工場のうち、1つは紳士用のデザイナースーツ、もう1つはバイエルンの婦人用民族衣装「ディアンドル」を製作する。

共産主義体制では、トルコ人、ロマ人(ジプシー)を含むムスリムに対するブルガリアの強制同化政策で、イスラム民族衣装や音楽、文化、さらにはムスリム名の使用までもが禁止された。 皆、花や鳥の名前が多いブルガリア名に改名しなければならなかった。

「私たちには文化がない、名前も歌も、生き方すべてを変えなければならないという考えです。」ブレズニツァで生まれ育ち、左官を職業とするボユクリは語る。 共産主義の暗い時代、ゴラニの音楽が入ったユーゴスラビアのビニールレコードが村にこっそり持ち込まれた。地元の音楽とまさに同じものであったため、村人は喜びに沸いた。 「別の場所に私たちのような人がいると実感したとき、私たちの文化が認知されたと思いました」と彼は言う。

共産主義体制が終わると、ブルガリアのムスリムは、ムスリムとしてのアイデンティティを表そうと、かつての名前をこぞって取り戻した。 それから20年経った今、熱狂は冷め、新たに伝統文化と現代文化が融合したものが形になりつつある。

融合が顕著に見られるのが、結婚式だろう。ムスリムたちはバルカン半島全土にわたり、オスマン帝国時代の豊かな伝統を維持してきた。 45年間にわたる冷戦でブルガリア、ユーゴスラビア、アルバニアが国境線で分断されていたにもかかわらず、そうした伝統の多くが、各国のムスリム社会と同様のものである。

ムサ・ダラクチは明日結婚する。 27歳の彼は、国境解放を追い風に、ドイツ、デュッセルドルフ郊外の花畑で5年間働き、マイホームの資金を貯めた。新しい家はブレズニツァにある。結婚式には500人余りが招待されている。

「将来の世代にも伝統が受け継がれていくと実感できることが重要です」と彼は言う。 「父や祖父と比べると、自分は伝統には詳しくありませんが、何かは受け渡していきたいと思います。」

翌朝8時30分、町の広場では、ずんぐりとしたオスマン帝国時代のクラリネット「ズルナ」が結婚式を合図した。カズーのような音色と、アルト・サックス並の力強さが特徴だ。 挙式は4つのズルナと3つの「タパン(ドラム)」が告げる。それ以外に告知は必要ない。

派手な銀色のスーツを来た痩せ気味の新郎の弟が列の先頭に立ち、結婚式用の赤い旗がついた棒を振る。 旗の角にはかつて、ムスリムとしてのミレットを示す三日月と星がついていたが、今はスパンコールのハートがついている。 「共産党は三日月と星を嫌がりましたが、旗だけは赤なので許されました」とボユクリは言う。

同化政策中は、音楽家さえもズルナを手放さなければならなかった。それも、「トルコ風すぎる」という理由で。 その代わり、ブルガリア音楽やロシア音楽が演奏できるようにと、アコーディオンやサクソフォンを与えられた。

新郎は、襟に50ユーロのピン札と白いバラを留めて、家を後にする。 そして行列をゆっくりと先導し、時々立ち止まっては踊る。 新婦の家に到着するころには、たくさんの人が行列に加わっている。 正面の門は中から手で押さえられている。 紙幣が手渡され、会話が交わされる。 合奏がうるさいので、人々にはやり取りの内容は聞こえない。

ついに門が開き、客は中へ押し寄せる。 新郎と新婦は、新婦の家族が贈与する贈り物、「チェイズ」の前で撮影ポーズをとる。 二人の身長ほどに積み重なった大量のカーペットとブランケット、その周りには水切りカゴからボウルなど台所用品の山、柔らかいクッションやテディベアが置かれている。 新しい家族が築く財産を文字通り象徴するものだ。

客がまばらになると、チェイズは3階のバルコニーから、路上で待機するトラックに一つ一つ運び出される。 トラックの荷台には、チェイズを披露するために金属フレームが設けられ、行列はトラックを中心に広場へとゆっくり移動する。祝福のフォークダンスを踊る場所だ。

ブレズニツァの非公式民族誌学者、サリー・ブコヴヤン(36歳)は、村で出納長を務める。 彼はポマク文化が直面する大きな課題を議論するのが好きだ。 また、地域の伝統衣装や歌を集めた最大級のコレクションも誇る。

「女性がポマクらしい服を着なくなったら、同化政策が成功したことになります」とブコヴヤンは言う。 「女性は私たちのアイデンティティを伝え、守る存在です。女性がアイデンティティが失ったら、私たち全員が失うものも大きいのです。」

ブコヴヤンは、小さい頃、祖母の民話に引きこまれたという。 彼は祖母の歌に込められたハーモニーを感じた。鮮やかな色と幾何学模様で娘のチェイズに織り込んだハーモニーである。 「要するに祖母は美しいものが好きだったのです」とブコヴヤンは言う。 「そして歌を呟きながら亡くなりました。」

ブレズニツァの女性は今も織り物や編み物をするが、中には忘れ去られそうなステッチもいくつかある。 ブコヴヤンはエクセルにステッチやデザインを記録し、色やモチーフを一覧にした。 また、伝統的な詩や歌を1万作記録した。 さらに、オンラインの民族資料館を設けたブログも運営している。いつかレンガとモルタルでブルガリア初のポマク民族資料館を建てたいという夢もある。

好奇心旺盛なバルカン半島のムスリムの例にもれず、彼もあいた時間はブルガリアやマケドニア、コソボ、トルコの友達とオンラインで交流する。 バルカン半島のムスリムの相互理解はまだ初期段階だと彼は言う。

「ブルガリアのポマクを単一の文化グループとしてまとめることに成功できたら、トルベシとゴラニも違う国の同じ共同体メンバーと呼べるでしょう。 そうなるとブルガリアのポマクも、マケドニアのトルベシもありません。 全員が帰属できる新しい名前を持つことになるのです。」 彼によるとその名前は「ナシンツキ」で、ゴラニとトルベシが自分たちを指して言う「私たち」を意味する。

ブレズニツァのケーブルテレビ局は、地元のニュースも配信する。 村のほぼ全員が視聴するので、主要な住民討論の場となっている。 視聴者は電話で曲をリクエストしたり、画面のテロップを通じて誕生日、出産、訃報、記念日、結婚式などの告知を行うことができる。

オーナーのイスマイル・グロシャールによると、ここ数年はブルガリアの歌謡曲の人気が薄れ、代わりに地元の伝統的な民族音楽の人気が高まっているという。推定ではリクエストの3分の2が伝統的な民族音楽に対するものらしい。 またブレズニツァでは、メフメド・ボユクリがテレビ局に、コソボから来たゴラニの民族グループ、ブラカ・ムスカ(ムスカ兄弟)のMP3を提供して以来、彼らの人気が高まっている。 グロシャールによると、彼らの曲は地元のミュージシャンが祝宴でよく演奏するそうだ。 「ヴォ・カファナ」(カフェで)、「チェルノ・オコ・サレノ」(輝く黒い瞳)、「トゥズィナ・イェ・ムロゴ・テスカ」(悲しき海外)などの曲がある。

19歳のゼイネップ・サカリは、ブラカ・ムスカのファンで、ブレズニツァに2つある民俗合唱団の1つ、ガイタニのメンバーだ。 彼女によると、町の若者の半分が伝統音楽に興味があるという。 ストレスを感じたとき「映画を観たいとは思いません。 民族音楽を聴いたり、織り物をするほうがいいです。」

友人でガイタニの仲間でもあるサレイカ・グロシャールは、コソボを訪れた最初のポマクの1人になれてラッキーだったと語る。 合唱団は去年コソボで公演を行った。 「あんなに写真を撮られるとは思いませんでした。 私たちが着ていた「ノシ」(民族衣装)がよほど気に入ったのですね」とグローシャールは言う。 今度は彼女がブラカ・ムスカをブレズニツァに呼んだ。 「来てもらえるのが夢なんです。」

コソボへ車で6時間入ったところにあるプリズレンには、ライフ・カシが住んでいる。コソボのラジオ・テレビ局のボスニア語部門で働くトルベシのジャーナリストだ。 ナシンツィのオンライン担当の中心人物として、彼はインターネットでバルカン半島に住むムスリムのネットワークを作り、リサーチをし、国境を超えたつながりを構築している。 また、バルカン半島のムスリムの問題を扱う地域の会合や会議にも参加する。

コソボ南部にある故郷のプリズレンは、バルカン半島で最もオスマン帝国の影響が強い町だろう。建築物だけでなく、多文化の精神にそれが現れている。 プリズレンには多数派の民族がいないので、セルビア語、アルバニア語、トルコ語、英語、ナシンスキ、どんな言語も自由に話すことができる。 旧ユーゴスラビアのように、南欧のカフェ文化を持つ点も独特で、 プリズレンではクリーミーで見事なマキアートも飲める。

「人も文化も信仰も非常に似ていますが、言葉は違います。」カシは屋外のカフェでそう語る。 「100年前は皆が同じ言葉(ナシンスキ)を話していましたが、その状況も変わりました。」

ゴラニは、コソボ南部のゴーラ州に住み、ナシンスキを話すムスリムとして定義される。コソボで公認される6民族の1つだ。 だがトルベシは違う。これまで世間的にボスニアックとしてのアイデンティティを押し付けられたためだ。ボスニアックはボスニア語(公式にはセルボクロアチア語として知られる)を話す大きなグループであり、マイノリティのトルベシはその中で政治的な一体性に預かることができた。 今日トルベシは、職場や学校でボスニア語を話し、ナシンスキは家で使う。

ミフタル・アデミはそんな状況を変えようとしている。 彼は自作出版したナシンスキの文法書を持ってカフェにやってきた。 彼は、ラテン文字をベースに、ナシンスキ特有の発音には付加記号をつけたナシニツァというアルファベットも考案した。 彼の息子、アナンドは医学生で、ナシニツァのフォントをデザインした。 「ウィンドウズにも簡単にインストールできますよ」とアナンドは言う。 ナシンスキの文字をより「自然で本格的に」することが目標だという。

アデミは、まるで希少言語の愛好家のように、ナシンスキの美しさを語る。 「古代の言語です。ものすごく古い言語なのに、現代に生きています。」 ナシンスキは、セルビア語やブルガリア語など、南スラブ語群の基本であった。 「私たちの言葉は木の幹で、他の地域言語は枝です。」彼は説明を続ける。 「文語ではありませんでした。」恥じることも誇りに思うこともなく、事実だけを述べた。 彼によると、ナシンスキで出版された本はわずか15。だが、今後は増えると期待している。

国境の反対側、アルバニア北部には、ゴラニの村が9つあり、約1万5千人のゴラニが住んでいる。 共産主義体制では、ほぼ孤立した状態で住んでいた。 ナシンスキの言語と文化を研究する著名な学者、ナジフ・ドクレに会うためにアルバニアのクケスに向かう車の中で、カシは2000年に初めて国境を超えた時のことを振り返った。

ボルヤの村では初めての文化祭が開かれていた。 カシはコソボを訪れた最初のナシンツィの1人だった。 「国境から32キロ離れたところで育ちましたし、ユーゴスラビア人は越境が許されませんでした。 完璧に閉ざされた国境だったので、逆に興味をそそられました。」

車は泥地を通過した。ここは彼がコソボを訪れた1年前の1999年には、コソボ紛争の難民でいっぱいだったという。 今日は雨がひどい。 灰色の空は濡れたアスファルトと無色の山に溶け込み、すべてが混ざり合い、ぼやけている。バルカン半島の複雑なアイデンティティの混合のように。

私たちが到着すると、ドルケは家にいた。彼はナシンスキの言語、文学、歴史、文化について20冊以上の本を著してきた。 共産主義の時代は、学校検査官として地域を広く旅し、仕事のかたわらこっそり研究に打ち込んだ。 「ゴラニの村全部で人々から言葉を教えてもらいました。 辞書を作るのが目標でした。」

彼のアルバニア・ナシンスキ辞書は、ナシンスキを扱った最初の辞書である。 ドルケは棚から黄色いノートを取り出し、何十年にも渡る現地調査の結果を見せてくれた。ゴラニ文化(そしてマイノリティ文化ならどれも)に興味を持つことが危険であった時代である。 「秘密でやったことです。 誰にも見つかりませんでした。」彼は言う。

ナシンスキの文字は、言語の保存ではなく、科学的な目的があってのことで、読んでもらうためではないとドルケは言う。 「多くの科学者が、ゴラニとトルベシが音楽文化を持った音楽の民族だとの見方をしています。 それはそうですが。 結婚式では、声がいいとか、才能があるとかは関係ありません。 全員が歌います。」彼は言う。 口承伝統の強さからか、彼は「詩」と「歌」を区別せずに使う。

私たちは、ブラカ・ムスカに会うためにコソボに戻った。ソーシャルメディアやデジタルオーディオ、ウェブサイトのおかげで、ブレズニツァそしてバルカン全土で最近人気が高まっている伝統的なゴラニのバンドだ。 彼らがいるゴーラの南端、レステリカの村に行く途中、荒く険しいシャール山脈の西側の山肌が見える。 地元民は、この山脈が自分たちの精神を物理的に現わしていると感じている。 カシはそんなシャールの写真をフェイスブックに投稿している。様々な季節に様々な角度から何枚も。まるでそれらが家族の一員であるかのように。

「ポマク、ゴラニ、トルベシに、文化の核を確立してもらいたいのです。私たちの文化、歌、伝統をもっと発展させられるように」とカシは語る。 「以前は情報がほとんどありませんでした。 ジャーナリストの私でさえ、トルベシ以外に自分たちのような人がいることを知らなかったのですから。」

レステリカの道路はきれいだが、険しい。 家の外観は完璧だ。ゴラニは何十年も他の旧ユーゴ地域やイタリア、スイスで出稼ぎをしていた。 伝統的な職業である羊飼いは廃れ、建設業が盛んになった。 道行く女性たちは、フォーマルな長い黒のサテンのコートを着ている。明日のクルバン・バイラムという犠牲祭(アラビア語では「イド・アル・アルハー」)に備えて友人宅を訪れるためだ。

ムスカ兄弟の1人、ムラット・ムスカの家に着いた。彼はブラカ・ムスカの音楽は現実感があるから、悲しい響きがするのだと説明する。 「レステリカに住んでいますが、ここには仕事がありません」と彼は言う。 「私たちの曲はまさにそれを歌で表現しています。 ここでの暮らしを歌にしているのです。 昔羊飼いだったころの記憶を人々から聞いて歌にしたものもあります。 でも、新しい曲は移民としてイタリアやスイスで暮らすこと、ビザのことなど、現代的なテーマが多いですね。」

レステリカには、村のラジオ局であるラジオ・バンブスがある。 FM信号は15キロしか届かないが、2009年以降はインターネットでもストリーミング配信されている。マネージャーのネシム・ホジャによると、オンラインのリスナーは常時500~600人いて、その多くが西欧や他のバルカン諸国に移住した人々だという。

ホジャによると、ラジオ局の使命は、ナシンツィがお互いを知る助けとなること。 インターネットは国境と距離で分断されたバルカン半島のムスリムたちに、かつては不可能だった結びつきを簡単に実現した。 ホジャは携帯電話を取り出し、録音した音楽を再生する。 ブルガリアのポマクから、電話配信で歌のリクエストが入ったようだ。 「いろいろなジャンルのナシンスキ音楽を持っているので」とホジャは言う。 彼はさらに、ブレズニツァの住民からブラスカ・ムスカのリクエストがあるように、レステリカの人からはガイタニのリクエストが後を絶たないと語った。昨年ここを訪れたブレズニツァのグループだ。

朝6時半、リュビニェにあるカシの家に着くと、シャール山脈頂上の後方で、紺碧の空が白み始めた。 「朝早く行かないと良い場所が取れません」と彼は言い、近くのモスクに出かけた。

道を埋める男たちは、何か目的があるような様子で、同じ方向に向かって歩いている。 モスクは、1979年に建てられた。ユーゴスラビアの未来的なスタイルは、将来への希望を胸に秘めていた人々が建てたかのように見える。 主な礼拝場はいっぱいだったので、参拝者は隣の廊下や上の階のバルコニー、教室に流れた。教室の黒板にはアラビア語、トルコ語、ナシンスキで「楽しい休暇を」と書かれていた。

礼拝が終わると、カシは墓地に移動した。 ここではイスラムの伝統が生活の基本であるから、本能で体が動くのだろう。 カシは、簡素なコンクリートの長方形の上に草が乗ったもの―― 彼の祖父母の墓の前にひざまずいて静かに祈った。 次に妻の母親の墓に行く。 「バイラムではいつもこうしているんです。」

バイラムの昼食をたくさん食べた私たちは、若い新婚女性のセルマ・シャイピの家を訪れた。 「伝統を維持できるのは大きな喜びです」とシャイピは結婚式のビデオを見ながらそう語る。 「同時に、毎年何か新しいことが出てきますし。」

彼女の結婚式には、ブルガリアのポマクの結婚式と同じ要素がたくさんあった。 カーペット、織り物、布といったチェイズが人に見えるように高く積まれ、ズルナとドラムが結婚式の始まりを告げる。「チョラピ」(手作りのウールの靴下)という手頃な贈り物は機会あるごとに大量に配られるようだし、結婚式で付き添い役を務める男性の肩にかけられたタオルは、新しい家の衛生環境を象徴している。

シャイピは、母親の結婚式と自分の結婚式には「大きな違い」があるという。 例えば彼女の母親は馬に乗り、参列者は同じ皿から食事を取り分けて食べた。 シャイピは婚前の儀式で、まばゆいカラフルな伝統衣装を着たが、挙式では欧米スタイルの白いドレスを着た。 彼女の母親は、伝統的なノシを着て式を挙げた。 「幸せでいっぱいの日に、こんな美しい衣装を着られるなんて素晴らしいですね」と彼女は言う。 最大の違いは、彼女の母親がペイントを施されて結婚式を挙げたことだろう。

花嫁のペイント儀式では、花嫁の顔と手に白いペイントを施し、明るい色のスパンコールとヘナで細かい模様を描く。かつてバルカン半島のムスリムでは一般的な慣習だった。 この伝統はオスマン帝国の時代にさかのぼるが、どこから発生したものかは不明だ。 コソボでこの芸術を実際にこなすことができるのは、近くの村に住む老女だけだという。ブルガリアでは花嫁にこのようなペイントを施す村は3つしかない。

ビデオでは、シャイピの女友達が、シャイピを囲んで歌を歌っている。 既婚女性は、明るい赤と黄色の伝統衣装を、未婚女性は白を着る。 シャイピは声を上げて泣き、心の底から悲しんでいる。まもなく家族に別れを告げなければならないからだ。 新しい家(つまり夫と義家族が住む家)は、実家から歩いて2分しか離れていないとはいえ、彼女の悲しみは鎮まらない。

女友達が歌う。「今まで母親の言うことをきいた。 これからは義母の言うことをきかなければならない」と。

「言うことはきいてくれますか。」 私は、居間で彼女の反対側に座っていた彼女の義母に尋ねた。 「はい。きいてくれます。」同じような誠実さと誇りを持ってそう答えた。

「ききますよ。」シャイピもおどけた口調で言った。 「耳がありますもの。」

犠牲祭、クルバン・バイラムの祭事で重要な儀式が、近くの村のネブレゴステでこれから始まる。背後にそびえ立つシャール山脈の険しい山道を家々が転げ落ちそうな場所だ。 中央広場ではたくさんの催し物が開かれる。 迷彩服と黄色のレインスーツ姿で、ナイフとロープ、ビニール袋を持った男性が30人ほど集まっている。 バス停では大きなグリルが設置されている。スイスで出稼ぎをする地元ナシンツィが寄付した7頭の牛の肉を調理するためだ。

屠殺はイスラムの教えに則りスムーズに行われた。 肉の重さを量るスケールと、貧しい人に肉を分けるためのビニール袋が用意された。 まもなく男性が焼きたての腎臓をまな板に乗せて振舞って歩いた。

イスマイル・ズルジは、この様子をスマートフォンでとらえ、チューリッヒにいる家族に生映像を送った。 退職間近のゼネコン従業員の彼は、年に数回車で郷里に帰る。 中央広場の修理や、バイラムで使う家畜の購入などへの資金調達を手伝っている。

チューリッヒのナシンツィ社会は、連帯感があり組織力も強いと彼は言う。シャールというスポーツクラブで祝い事を催せば、1500人は集まるのが普通だ。 「子どもたちができるだけ自分の文化を知り、どこにルーツがあるのかを知ることが重要です」と彼は言う。 このようにバルカン半島から離散したグループは多い。初代は社会主義のユーゴラスラビアの時代にさかのぼる。

ズルジの祖父世代は、毎年夏になるとシャール山に羊の群れを連れて行き、冬になると低地のテッサロニキに移動させていたが、その子らは教育を受け、伝統的な職業に就くことはもうない。 彼はソーシャルメディアが個人的にもコミュニティとしても彼らの発展を助けてくれるだろうと考えている。 「息子はインターネットでブルガリアのポマクのことを読んでいます」と彼は言う。

インターネットはつながりの強化に役立った。 「コミュニケーションが休みなく続くだけでなく、インターネットで知り合ったゴーラのゴラニとスイスのゴラニが結婚するケースすらあるんですよ。 子供同士のつながりはとても強く、まるで彼らがここにいるかのようです。」

マシュー・ブルンワッセルwww.matthewbrunwasser.com)はイスタンブールに拠点を置き、独立新聞記者、ラジオ記者として活躍する。

Boryana Katsarovawww.boryanakatsarova.com)はフリーランスのフォトジャーナリスト。パリのコスモス・フォト・エージェンシーに所属する。

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This article appeared on page 2 of the print edition of Saudi Aramco World.

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