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ヨルダン南部。WF16と呼ばれる12,000年前の新石器時代の遺跡を眺めていると、ここに住んでいた人々(その一部はこの再建されたもののように、半分地下に埋まっている小屋に暮らしていた)が農業革命の先端をいっていた可能性が高いと想像することは難しい。 |
今、Wadi Faynanは日没前である。Wadi Faynanは、北の死海と南のアカバ湾を結ぶグレート・リフト・バレーの広大な一角を占める乾いた支流の谷であるWadi Arabaへと続いている。 私は、ほとんどが地下に埋まっている楕円形の小屋に潜り込んだ。 ここは雨や太陽、寒さから身を守ってくれるこじんまりとした快適な空間だ。しかし、あと数人入ってきたら、すぐに窮屈に感じることだろう。 屋根は泥を塗った枝でできている。 低い天井付近にある窓のような開口部から、シャラ山脈のでこぼことしたシルエットの向こうに陽が沈み始めているのが見え、空をバラ色とアプリコット色の放射状に染めているのが分かる。
聞こえてくるのは風の音と、鳥の声だけだ。ここが、毎年一定期間だけ人が集まっていた小さいながらに活気あるコミュニティであった約12,000年前に頭の中でタイムスリップする。 人の行き交う声。互いに呼び合う声。走り回る子供たちのおしゃべり。おそらく動物の死骸をきれいにする際には骨にあたるフリント石器が耳障りな音をたてたことだろう。そして、今日の考古学者にとって最も重要な音。穀物が粗めの小麦に挽き出されるときに、すりこぎがモルタルに当たって、ゴリゴリとぶつかるような音や、きしむような音もあったはずだ。
このような場面は、私の想像だけの話ではない。 南西アジアで推定年代を特定できる数少ない遺跡スポットの1つであるこの場所で人類初となる共同生活や農業の試みが行われていた可能性を示す証拠を考古学者は持っている。 この場所における植物遺跡の発見は、新石器時代の人々が集まり、野性大麦を加工し、その後、おそらく種を蒔き、育て、収穫するようになっただろうこと、つまり、農作業という歴史を変える営みが当時行われていたことを示唆している。
私がいるシェルター付近には、ここにかつて住んでいた人が使っていた石で成形したフリント石器の破片と、一握りの穀物を丹念に引くために使用されていた内側がくり抜かれた石の塊が点在している。 数メートル先には、30棟以上の円形の建造物跡とありありと分かる塊や凹凸がある。地面より高い位置に床があり、私が今座っているところのような複数の部屋があるこの構造物は貯蔵庫だったのかもしれない。
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紀元前8500~6250年(陶器の開発よりはるか昔)の石壁遺跡は、WF16のより古い遺跡から徒歩15分、上り坂を行ったところにあるWadi Ghuwayr沿いにある。 この遺跡の壁は、WF16の泥を固めて作っただけの壁から建築的発展を示しているだけではない。考古学者はここで穀物栽培の証拠も発見している。 |
炭堆積物の放射性炭素年代推定は、この場所に最初に人が住んでいたのは100世紀以上も前であることを示唆しているが、私が今いる小屋はレプリカで、考古学者が約20年間に渡り発掘を断続的に行っている面積1ヘクタールの遺跡サイトで数年前に作られたものである。
外は暗くなり始めている。 この地域でヤギ飼いからガイドになったベドウィン族のモハメッド・デファラ(Mohammed Defallah)が私を呼ぶ声がする。 シェルターから這い出ると同時に、空想も中断した。 モハメッドは近くのFaynan村からここに案内した。 昼頃、彼はここで昼食のためのパンを焼いてくれた。ボウル一杯の小麦粉を水と混ぜて生地を作り、これを練って、その辺で見つけた古代モルタル石上で完璧なフラットブレッドに形成した。 アカシアの木を燃やした焚き火の残り火をさっと足で払うようにして消すと、火のように熱い砂の下に生地を入れ、数分後には、ほかほかのパンが焼き上がった。 今、私が目撃した風景は、何千年も昔、初めてパンが焼かれたときとほとんど変わらないかもしれないと、ふと思った。
Faynanにあるこの遺跡は、南レヴァントで発掘された無数の新石器時代の集落の1つであるが、ここの重要性が特に高いことが証明されつつある。 Faynanでは、狩猟や木の実の収集から、農業へと大きな変貌を遂げるいわゆる「農業革命」がこの地域一帯であっただけでなく、当初考えられていたよりもずっと南部のほうで始まったことを示す証拠やどのようにして革命が起きたかを示唆するヒントが発掘されている。
紀元前10,000~8500年と推定されるFaynanは、中東全体で発掘された新石器時代の最古遺跡の1つである。それは「世界最古の遺跡の1つということ」を意味する。そう教えてくれたのは、英国リーディング大学(University of Reading)の考古学者スティーブン・ミッテン(Steven Mithen)博士だ。 農業の起源およびその広まりの権威であるミッテン博士が初めてFaynanを訪れたのは1996年であった。1997年以降、ロンドンに本部がある英国研究カウンシルのレヴァント支部(Council for British Research(CBRL)の地域ディレクターであるビル・フィンレイソン(Bill Finlayson)博士やヨルダンの古代遺跡省(Department of Antiquities)の前発掘調査ディレクターであるモハメッド・ナジャール(Mohammed Najjar)博士と共に、この地で調査を続けている。 「ここは極めて保存状態が良い遺跡で、おそらく、人々はここで植物の栽培方法を試していただけだったのでしょう」と、ミッテン博士。
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ビル・フィンレイソン(Bill Finlayson) / wadi faynanプロジェクト(wadi faynan project) |
2010年、WF16 の発掘チームは、今日に至るまでWadi Faynan最大の発見とされている遺跡を発掘した。それは、まだ農業が始まったとされるよりも昔、紀元前9700年と推定される円形劇場のような建物である。 この発見は、農業が高度な社会的組織をもたらしたという仮説に疑問を投じることとなった。 事実はその反対の順序だったのではないだろうか? この建造物はさらに研究を進める準備が整うまで、雨風により風化してしまわないよう、覆いが被せられている。 |
さらに、もう1つの別の発見が、Faynanの遺跡としての重要性を決定付けた。 2010年、大学生や地元のベドウィン族を含めた発掘チームが、22×19メートル、テニスコートの約2倍の大きさの円形劇場のような建物を発掘した。この発掘に誰もが驚いた。 それは、まだ農業が始まったとされるよりも前、紀元前9700年と推定される。 この当時の建物としてはこれまで発掘された中で最大規模である。
幅1メートルのベンチが周囲を約半分囲むように配置されており、Faynanで発掘された別の石造りのオブジェクトの装飾に似た波模様があしらわれ、高さの異なる別のシートがベンチの一部を支えている。 深さ1.2メートルの溝が先端まで敷設され、片端にはコップのような形をしたモルタル石が施された2つの石製プラットフォームが置かれている。 さらに丹念に調べた結果、考古学者は壊れた石のボウルの破片を発見した。 また、地面には柱を差し込むための穴のようなものもあり、木製の柱を支えていた可能性があるそうだ。
「(この建造物が)穀物を挽くような機能的な活動のために使われていたのか、収穫や生贄を捧げるなどの儀式用に使われていたかはまだ分かっていません」と、ミッテン博士。 「しかし、ここで驚くべきことはその推定年代です。新石器時代の黎明期にこれが建造されているという点です」 現在は、風化しないように埋められてしまったとはいえ、この建造物は私が立っている地面の下にあるくぼみからでもはっきりと認識することができる。
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新石器時代の全盛期のWadi Faynanの楕円型の石造りの小屋を描いたこのイラストは、この遺跡での風景を捕らえている。 |
「先史時代、それもできれば新石器時代の遺跡を発見すること願ってこの地に初めてやってきたとき、他の考古学者たちはこぞって『絶対に見つからない』と言いました」ミッテン博士は当時を思い出して言った。 「肥沃な半月状地形の最南端にあるレヴァントは、変化に取り残された地域である。 地中海一帯での発展は、すべてエリコ近くのヨルダン・バレーの反対側、または、ギョベクリ・テペが発掘されたばかりのトルコを数百キロ北上した地域で行われた、と。彼らは口を揃えてそう言いました」
エリコとギョベクリ・テペは、地中海一帯という広大な地域でこれまで発掘された遺跡の中で、最重要とされる前期新石器時代の2大遺跡である。 ヨルダン川西岸にあるFaynanから北に125キロ行った場所に位置するエリコは、1950年代、英国の考古学者キャサリーン・ケニョン(Kathleen Kenyon)博士によって初めて発掘された。 エリコで発掘された遺跡には、高さ8.5メートルの塔、巨大な石壁、現在、Wadi Faynanで発掘されたものとよく似た無数の円形建造物等がある。 トルコ南東部に位置するギョベクリ・テペは、丹念に装飾されている長方形の石造りの柱が特徴で、高さが3メートルにも及ぶ柱もある。ギョベクリ・テペは1990年代初頭、ドイツの考古学者クラウス・シュミット(Klaus Schmidt)博士により発掘された。
「現在分かっていることは、レヴァントでは、人類の発展はある特定の1箇所が起こったわけではない、ということです」 「複数の異なる地域で近代的発達が同時に起こったのです」
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桃色のセイヨウキョウチクトウがWadi Faynanのささやかな小川沿いに咲いている。今日、この川は、新石器時代以前に比べずっと干上がってしまっている。 確かに、周辺地域で発掘した遺跡は、人類の歴史をほぼ途切れることなく100万年までの生活について教えてくれる。 |
Wadi Faynanの前期新石器時代の遺跡には、現在、WF16という平凡な名前がつけられている。このように番号をつけて周辺の他の遺跡と区別している。このほとんど干上がってしまった小川沿いにある周辺の遺跡は100万年の人類の歴史を物語る。 最古の遺跡は前期旧石器時代に作られた手斧で、そこからほぼ連続的に現在までの進化を示唆している。
WF16から東へ0.5キロ進んだところ、Wadi Ghuwayrの入り口に、陶器が開発されるより前の紀元前8500-6250年と推定される後期新石器時代の遺跡がある。 大きな遺丘または山のような形をした居住地の遺跡であるWadi Faynanを5キロ南下した地域では、農業や鉱業・精錬業の跡が発見されている。 これは、青銅器時代初頭である5500 年前と推定される。
ここで、ローマ遺跡、ビザンチン遺跡、イスラム遺跡も忘れることはできない。 Faynanはローマ帝国支配下にある最大の銅鉱山であった。その後、ビザンチン帝国時代には、 パレスチナ・テルティアの司教の拠点「Phaenon」となった。 イスラム遺跡にはマムルーク朝時代のカラヴァンセライがある。 この膨大なタイムスケールこそ、Wadi Faynanで調査に当たる考古学者が、このように長い期間で連続的に人間の活動を記録している場所は世界にほとんどないと主張する所以だ。
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共同生活の中で野生植物の栽培が始まり、文明化をもたらした可能性があるWadi Faynanの岩の上でスナヒバリが羽を休めている。 |
しかし、謎に満ちた古代円形劇場や人類の発展に関する疑問を突きつけたWF16こそ、ミッテン博士のような新石器時代の専門家を興奮させる。 「ギョベクリ・テペのような華やかさはないかもしれません」WF16の柱を支えるための穴について「朽ちてなくなってしまった(木製の)トーテム・ポールを支えていたのでしょう」と説明しながら、博士はそう言った。この穴は屋根を支えていたのかもしれない。 「もし、この建造物に屋根があったとしたら、壮観なものだったでしょう」
建造物の目的が何であったにせよ、どうやら共同生活の中心地であったことは確かなようだ。 ここで共同生活を送っていた人々がどれほど根を下ろして定住していたかを突き止めることは、発掘チームのこれからの課題だ。 1年の特定の時期だけ、おそらく野生植物の収穫作業や、収穫を祝うために集まった可能性がある。 この建造物は農業の開始時期をそれまでいわれていた時期よりも前、紀元前約8000年、10,000年以上も前に開始されたことを示唆するため、人間社会の発展順序に質問を投じている。 共同作業のための集会が農業へと発展したのだろうか? 今日のところ、通常、考古学者はその反対の順序で発展が行われた説を支持している。 つまり、農業の開始が共同生活や定住生活を促進したという説だ。 しかし、それは事実とは異なっているかもしれない。
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1990年代半ばにWF16が発掘されるまで、Beidhaはヨルダンで最も有名な新石器時代遺跡だった。 新石器時代トレイルのルート上、Wadi Faynanの南、世界的に有名なペトラの北数キロの場所に位置する、この巨大なナバテア人の交易拠点は、紀元前4世紀初頭に建設された。 |
WF16では人々が定住していたのではなく、1年のうち一定期間人々が集まるための場所であったという仮説は、米ワシントン州のウィットマン大学の考古学者ゲイリー・ロールフソン(Gary Rollefson)博士が支持していた。ロールフソン博士はヨルダンの砂漠の東部で何年も新石器時代の発掘調査に携わってきた人物である。 「WF16は「収穫や狩猟を始めとする一時的1な社会的活動を行うため」の場所であったと考えられている」と博士は教えてくれた。 「同時に、婚姻やギフト交換、共同作業が「社会的アイデンティティや団結」を促したのだろう」 これらのことは、この時代に作付けや収穫のために人々をまとめるのに役立った可能性がある。
ギョベクリ・テペにおいても、その目的に関して同様の質問が浮上している。ただし、ギョベクリ・テペでは貯蔵庫や集団作業をするための建造物だとはっきり分かるものは発掘されていない。 「ギョベクリ・テペはFaynanを始めとする他の遺跡のように「一般的な」新石器時代遺跡の代表するものではありません」とミッテン博士。さらに、「Faynanの建築遺跡はエリコ遺跡よりも正確な年代が特定されており、保存状態が良い」と付け加えた。
現在、WF16はこの地域で最もアクセスしやすい新石器時代遺跡の1つである。 シリア北部にあるJerf el-Ahmarは、1999年、Tishrinダムの下に沈んだ。WF16を発見し、南ヨルダンで長い時間調査に携わってきたフィンレイソン博士がそう教えてくれた。 彼は「政治的動乱がイラク北部へのアクセスを抑制し、1950年代と1960年代に発掘されたイランにある遺跡は、1979年の革命以降、行くことが困難になった」とコメントしている。
ここWadi Faynanは、気候の良さも遺跡の保全に有利である。 野生の穀物が育つ地域の最南端にあり、北側や西側にある水が豊かな地域と比較して、傷付きやすい新石器時代の遺跡を劣化させたり、損失してしまうような農業や都市化が緩やかな過疎地であった。
こうしてWF16の丘の上に立つと、この干からびて岩だらけの土地が、どうして農業革命の最先端をいく、そうでなければ目立つことのないコミュニティを支えることができたのかを想像することは難しい。 しかし、この地ではかつては降水量が多く、狩猟や採集を行う人々や農業を始めたばかりの人々は、オークやイチジク、ピスタチオが豊かに生い茂る近くの高台にある高原に簡単に行くことができた。 現在、点在する常緑のオークと死海最南端の森林保護区域が、植物が青々と生い茂っていた新石器時代をぼんやりと想起させているに過ぎない。
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比較的近代となるまでの約1000年間、Wadi Faynanとその環境は、人々が住まい、交易を行うための魅力的な場所だった。 周りに新石器時代遺跡が点在しており、地中海や紅海で採れた貝殻や、死海から北に向かう際に籠を保護するために使われたビチューメンの発見によりその商用主要道としての重要性が証明されている。 |
ミッテン博士は2017年に予定されている発掘プロジェクトの中で、「プロジェクトが実際に始まったら、常に移動して暮らしていた狩猟採集民から完全定住農民への長期的な移行を確認できる」証拠を発掘することを期待している。
考古学者が分かっていることは、WF16は約10,500年前に放棄されたということだ。 この地を捨てて住民が定住したと考えられるのは、WF16からそう遠くない場所にある、1980年代に発掘されたWadi Ghuwayrの入り口にある傾斜のきつい丘に位置する1.2ヘクタールのエリアである。 室内に漆喰が塗られた壁や隣接する通路があるこの小さい長方形の建造物は、村が形成され始め、農業の黎明期とされる時期に建てられた。
Ghuwayrを訪れる観光客を驚かせるのは、遺跡でもはっきりと見て取れる共通目的の意識だ。それは、これらのような、より複雑な建造物の中にある壁や階段、窓に顕著に現れている。 人々は共に生活し、永続するコミュニティを形成し、大規模な共同作業を手掛けるという大きな飛躍をこの地で果たした。 そして、彼らはおそらく、自身が生活するコミュニティ内だけでなく、この地域やエリコなどレヴァント周辺を含めた一帯に点在する他のコミュニティの住民とも協力して何かを行ったのだろう。
Ghuwayrから、遠くにWadi Faynanr、さらには霞の向こうに凹凸のないWadi Arabaまで見渡すことができる。Wadi Arabaは、頑健な人々が商品、技術、アイディア、発見を交換するのを可能にした南北をつなぐ障害物のない主要道であった。 Wadi Faynanで発掘された遺跡の中には、地中海や紅海沿岸で採れた貝殻(ビーズ状にされているものもあった) や死海で採れたビチューメン等の原材料(おそらく籠を保護するために使用されたのだろう)等がある。 考古学は、これらを始めとするすべて発掘物はこの地域で最古の商業の営みがあった証拠とするのに十分であると考えている。
「日常でなかったとしても、他の地域の住民との交流があったことは明らかです」とフィンレイソン博士。 「この地域が広範囲でネットワーク化された世界であったことに私たちは気付いています。1つの地域が農業の「発祥の地」なんてことはないのです。 人々は、同じ考えを同時期に持ち始め、それを異なる方法で表現していったのです」
または、ロールフソン博士が言うように、「宗教、儀式、および社会交流は、自然なものとして元来備わっていたものではない。これらの活動は地域ごとに大きく異なり、問題を解決するためのさまざまな解決策が生み出され、変革する時代においてそれらが人間社会すべてに影響を与えた」ということなのかもしれない。
Wadi Arabaに加え、Faynanと、その南50キロの場所に位置する世界的に有名なペトラ遺跡をつなぐWadi Namlaもある。 この有名な交易拠点はナバテア人により、紀元前4世紀ごろ建てられた。一方、ペトラが建てられる1000年前には、そこを通り、Shkarat MsaiedやBa’ja、Beidha(1950年代に発掘)や、南ヨルダンで最も重要な新石器時代の都市であるFaynan等、複数の新石器時代の都市をつなぐ道が存在した。
今、私はシャラ山脈の花崗岩と砂岩が交差するWadi NamlaロードをBeidhaに向かって進んでいる。 Beidhaへと続くでこぼことした道は、春の雨の後でちょうど茂っている大麦が植えられた谷へと景色を変えていった。 干上がったFaynanとは異なり、ここなら、新石器時代の風景を想像するのはそう難しくない。
Beidhaで発掘されているのは、Faynan以降、土器が登場する前、後期新石器時代のものがほとんどである。 私はフィンレイソン博士とその同僚であるモハメッド・ナジャール博士、独キール大学の考古学者シェリル・マカレウィッツ(Cheryl Makarewicz)と落ち合った。 フィンレイソン博士がBeidhaに来たのは2000年だ。それ以降断続的に発掘調査を続けている。博士は円形や長方形の家々からなる集落を案内してくれた。 その近くで、2つの建物が再建されていた。その理由は、1つには、考古学者が建築技術に関する仮説をテストするため、もう1つには、ほんの2、3キロ南にあるペトラから来た興味津々の観光客に何か見るべきものを与えるため、つまり、WF16を再建したのと同じような理由だ。
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Beidhaの発掘地でポーズを取るのは、左から、古代遺跡省(Department of Antiquities)の前発掘調査ディレクターである考古学者モハメッド・ナジャール博士、独キール大学のシェリル・マカレウィッツ博士、ロンドンに本部がある英国研究カウンシルのレヴァント支部(Council for British Research in the Levant)のビル・フィンレイソン博士だ。 |
前期新石器時代以前へと連続的に記録を残すWadi Faynanとは異なり、考古学的記録では、この地は紀元前約6500年から、その6000年後であるナバテア王国初期まで放置されていたことを示唆している。
「人々が大規模に集団生活し始めた前期新石器時代の最後に何かが起きたのでしょう」こう語るのはフィンレイソン博士だ。 「Beidhaはそのプロセスの一部として集団を形成するには小さすぎたのかもしれません。そして、より大きなコミュニティに吸収された可能性があります。 または、土が痩せるまで農業を行い、作物が育たなくなったのかもしれません」
Beidhaおよびその近隣にあるナバテア人の有力都市ペトラは、現在よりもずっと豊かな水量の恩恵を受けて繫栄した。 実際、ペトラの大規模かつ高度な水管理システムに関して既に知られていることの多くは、おそらくBeidhaでも採用されていたのだろう。 一方、フィンレイソン博士はやたらにペトラと結びつけることに警鐘を鳴らす。
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トレイルの整備はまだ続けられており、Wadi FaynanからBeidhaまで全長50キロに及ぶ新石器時代遺跡トレイルで最後から2番目に位置するBa’jaはSiq’ al-Ba’jaと呼ばれる壮大な岩だらけの難所を通り抜けた先にある。 車なら1日でトレイルを横断することが可能だが、徒歩であれば地元のガイド付きで踏破するのに4、5日はかかる。 |
「Beidhaは「ペトラの前身」なんかではありません」と同氏。 「問題は、ペトラ周辺のすべての遺跡がナバテア王国とつながりがあるという先入観をもって見られることです」
フィンレイソン博士は灼熱の太陽が照りつける中で発掘作業を再開した。私はFaynanに思いを馳せ、人々が南ヨルダンにある他の遺跡を新石器時代の遺跡として見始めるには一体どれくらいかかることだろうかと考えた。
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歴史家、旅行作家ゲイル・シモンズ(Gail Simmons) (www.travelscribe.co.uk)は英国やその他の国の出版社に寄稿するフルタイムの旅行作家となる前、イタリアや中東で歴史的建造物の調査を行ったり、長距離の旅程を徒歩で巡ったりしていた。 ヨーク大学にて中世史学修士を取得。現在は、博士号課程で研究中。英国オックスフォード在住。 |
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報道写真家、映画監督 ジョージ・アザール (George Azar )(george_azar@me.com)これまで出版した本には、『パレスチナ:ガイド(Palestine: A Guide (Interlink、2005年)』(共著)『 パレスチナ:フォトグラフィック・ジャーニー Palestine:A Photographic Journey (カリフォルニア大学、1991年)』(著書)があり、映画『 ガザ・フィクサー(Gaza Fixer) (2007年)』の監督も務めている。 ヨルダン在住。 |