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巻 64, 号 62013年11月/12月

In This Issue

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ピスタチオの木の並ぶウルフスキル果樹試験場。ここでは、 ケルマンをはじめとする将来有望なピスタチオの品種についての研究が、植物学者によって続けられている。

1957年、カリフォルニア州チコにある小さな果樹試験場が、あるピスタチオの木をナッツ農家に配った。この地域では目新しいイラン原産の「ケルマン」である。

カリフォルニア州セントラルバレーの肥沃な土地でケルマンがどの程度生育できのるか、アメリカ農務省の注目の的だった。

2013年にケルマンの栽培が10億ドル規模の農産業と発展し、かつて珍重されたピスタチオは、長い歳月をかけ次第に手軽なスナックとして親しまれるようになる。 カリフォルニア大学のピスタチオ専門家、ルイーズ・ファーガソン氏は、カリフォルニアのケルマン栽培を、「20世紀で植物導入が成功した、たったひとつの例」と銘打っている。

1929年に輸入用の種を採集したイランの都市にちなんで命名されたケルマンは、カリフォルニアでの栽培に最も適した品種であることを立証した。60%から75%の確率で殻がはじける大きなナッツ部分が好まれたこともあり、手軽なスナックとして親しまれるようになった。
1929年に輸入用の種を採集したイランの都市にちなんで命名されたケルマンは、カリフォルニアでの栽培に最も適した品種であることを立証した。60%から75%の確率で殻がはじける大きなナッツ部分が好まれたこともあり、手軽なスナックとして親しまれるようになった。

人類はおよそ9千年も前からピスタチオを嗜んできた。 聖書の創世記(43:11)ですでに言及がある。 イラク北東のジャルモで行われた発掘調査では、人々が紀元前6750年から野生のピスタチオを採集し、食していたことが明らかになっている。 それ以来、ピスタチオは貴重な食料源とされ、中東や地中海地域では珍味として重宝されることもあった。このことからピスタチオはその後100年にわたり広く栽培・収穫されるようになる。 ギリシャにピスタチオが伝わったのは、アレキサンダー大王の遠征後。紀元前4世紀のことである。 1世紀に入ると、皇帝ティベリウスの治世でイタリアにも伝えられている。 イスラム教の伝播、そして十字軍、ヴェネツィア共和国とシリアの海上交易により、地中海沿岸とヨーロッパでは、ピスタチオの栽培が拡大し、食用としても人気を博す。

栽培用の実がついたピスタチオは、ウルシ科の植物で、ウルシ、アメリカツタウルシ、ツタウルシ、マンゴーの仲間。 その樹木は雌雄異株で、花粉を出す雄木と種子を作る雌木とがあり、生育には、暑く乾燥した長い夏と、根域を冷やすための冬を要する。 原産は中央アジアで、イラン北東部、アフガニスタン北西、トルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、キルギスタンの一部の地域では、今もなお野生のピスタチオが存在する。

『オックスフォード・コンパニオン・トゥ・フード』(The Oxford Companion to Food)の著者アラン・デビッドソンによると、ピスタチオの栽培は1年置きに収穫量が増減するということだ。 その果実は、「鈴なりに実った殻の中に小さく乾燥した実を宿し、まるでミニサイズのマンゴーのよう」

さらにデビッドソン曰く「ピスタチオは独特な色と、マイルドではあるが特有の風味を呈し、他のナッツ類の3、4倍もする高級食品として扱われてきた。 炒って塩をふり、食後のデザートとして楽しむのが一般的だ。 料理では付け合せや飾りに用いられることが多く、甘口、辛口の両方にいける。 例えば高級ピラフ料理を華やかに彩ったり、ヨーロッパのパテやヘッドチーズに混ぜたピスタチオは、料理をスライスしてもてなす際にそのグリーンの断片が散りばめられ、見た目も美しい」

欧米料理に利用される例として最もよく知られるのが、おなじみのイタリアンソーセージ、モルタデッラだろう。 一方、中東から北アフリカにかけては、ピスタチオナッツは製菓材料として親しまれている。例えばアイスクリームや、フランスのマカロン、バクラヴァ、ハルヴァ、ロクム(トルコのお菓子)、ビスコッティなどに、ナッツのカリッとした食感や風味を添えている。

アメリカでは、1805年に当時の新政府の新作物導入課がピスタチオの木を公式に取り入れたものの、商用作物としての発展を見込んで開発に力を注ぐようになったのは、それから100年も後のことだった。

ウルフスキンでは、ケルマンの「母樹」から接ぎ木で増やしたものに、この金属タグがつけられた。
ウルフスキンでは、ケルマンの「母樹」から接ぎ木で増やしたものに、この金属タグがつけられた。

1909年、多大な可能性を秘めたカリフォルニア州セントラル・バレーの農業開発を主導する目的のもと、USDAがチコに新作物導入研究所を設置。 20年後の1929年には、USDAは当局で導入するピスタチオの種を採集するため、植物学の専門家ウィリアム・E・ホワイトハウス氏をペルシャ(現在のイラン)に派遣した。 これによりホワイトハウス氏は、さまざまな品種の種を9キロほど持ち帰った。 1930年、チコの研究ディレクター、ロイド・ジョリー氏が、各品種がセントラル・バレーの生育環境に適しているかどうかを判断するために栽培試験を始める。 ピスタチオの木は結実するまで7年から10年もかかるため、ジョリー氏とスタッフに結果がもたらされるまで実に20年もの年月がかかった。 ペルシャから持ち帰った種を植えて育てた3千本のうち、種子からの生育に大成功した木はわずか1本だけだった。 1952年、彼らはこの品種をケルマンと名づけた。かつてホワイトハウス氏が種を採集した土地に近隣する、現在のイラン中部高原の都市ケルマンにちなんだ名前だ。 研究所は1957年に商用の試験作物として、この木から採取した種子を果樹園にリリースする。現在カリフォルニア産ピスタチオとして流通するものはすべて、このたった1本の「母樹」から生まれたものだ。

私はその母なる樹を、この目で確かめたいと思った。

数カ月後、チコを訪れた私は、呆然の余り立ち尽くしていた。そこで目にしたのは、1967年に閉鎖され、廃墟と化した研究所の果樹園部門で無秩序に生い茂るピスタチオだった。 これではピスタチオの試験農園というよりは、むしろ野生環境保全区域ではないか。 46年間も放置されたままの鬱蒼とした茂みをかき分けながら、残されたピスタチオにつけられた金属のIDタグを探す。 ようやく見つかったわずかなタグも、破損しているか文字が読めない状態だった。 さらに複雑なことに、タグが2種類あり、それぞれに異なるシリアル番号が使われている。私の手元にあるタグ番号は古い上にほんの一部だけだ。 木は列ごとに番号順に植えられているものの、それぞれのタグ番号の木がどこにあるのかを特定するのはほぼ不可能だった。

カルフォルニアのピスタチオ・マップ
イランのピスタチオ・マップ

チコ遺伝資源保存センターの局長ロビン・シビロ氏がコピーしてくれた、古い手描きの地図を頼りに、私は自分のいる位置を確かめた。本センターは1992年に旧果樹試験場を引き継いで以来、現在約130種の増殖と改良に取り組んでいる。 地図とスタッフのアドバイスをもとに、木を1本1本見て回る。アメリカで最も有名なピスタチオの木を探し当てるためだ。 この木がまだ生きているとすれば、樹齢83年にはなるはずだ。 私はやや興奮気味であったが、その気持ちには慎重だった。あまり期待しすぎないように、と。 ピスタチオは100年、いや150年以上生きる。 地図によると、ケルマンの雄木と雌木は10番の列に並んで立っているはずだ。 だが地図は正確に縮小されたものではないし、どちらが北方向かの指針もない。 やがて地図にあった蜂屋柿が見つかった。その横には古いコルクガシが並ぶ。これを頼りに花盛りの野生リンゴを右手に南東へ進んだ。カリフォルニア産ピスタチオを生んだ母なる樹に出会うために。

ダン・パーフィット氏はカリフォルニア大学デービス校農業相談事業学部の果樹園芸学者で、 ピスタチオの研究と試験栽培を専門とする。彼によると、1983年ごろを境に、ケルマンの母樹を見た者がいないという。 1983年というのは、チコにあるピスタチオの木のほぼすべてから接ぎ穂が取られた年である。そのころ、チコから160キロ離れたカリフォルニア州ウィンターズ近郊では、ウルフスキル果樹試験場の果樹・ナッツ類・ぶどう類クローン遺伝資源国立保管施設のアメリカ産ピスタチオ・コレクションとして、クローン栽培および復元に備えた接ぎ木作業が行われていた。 当時、ケルマンの母樹は樹齢50年ほど。 そうなると移植するには大きすぎるので、生きていればまだチコに残されているはず、と私は推測していた。

以前ウルフスキルを訪れたとき、研究責任者で園芸家のジョン・プリース氏が、保管されているすべてのアメリカ産ピスタチオを見せてくれた。その数は実に約750本。 750本は10品種に分けられ、中東、ギリシャ、中国、イタリア、カザフスタン、トルクメニスタン、パキスタン、チュニジアはじめ各国の交配種も多く含まれていた。 こうした品種の中には、ナッツとは全く異なる目的で栽培されているものもいくつかあった。テレピン油やマスチックを採るためのものもあれば、都市の美化に活用された木もあった。例えばカイノキは、羽根のような赤や、黄色、オレンジの見事な紅葉が美しく、造園樹木としても人気が高い。

89万株ある台木用ピスタチオ苗の一つを手にするパイオニア・ナーサリーのアンディ・シュヴァイカルト氏。苗木はすべて農園を拡大したいという生産者の注文を受けて用意したもの。 アメリカではピスタチオはアーモンドに次ぐ高価なナッツである。
89万株ある台木用ピスタチオ苗の一つを手にするパイオニア・ナーサリーのアンディ・シュヴァイカルト氏。苗木はすべて農園を拡大したいという生産者の注文を受けて用意したもの。 アメリカではピスタチオはアーモンドに次ぐ高価なナッツである。

私は、プリース氏に、ケルマンのことを尋ねた。 取り扱っている木のサイズから、これは接ぎ木で増やしたもので、樹齢もせいぜい25年から30年であることは明らかだった。 彼も、母樹が現存するのなら、チコの旧研究所にあるはずだとの意見だった。

ピスタチオの受粉は、虫媒ではなく風媒である。 ピーターズ種の雄花(左)はケルマンの雌花(右)と受粉のタイミングが一致することがわかっている。
ピスタチオの受粉は、虫媒ではなく風媒である。 ピーターズ種の雄花(左)はケルマンの雌花(右)と受粉のタイミングが一致することがわかっている。

1950年代に導入されたケルマンは、60年代から70年代初頭にかけて生産者の注目を集める。1976年には68万キロものピスタチオが生産された。 1979年には、米国大使館人質事件を受け、当時のジミー・カーター大統領が世界最大のピスタチオ生産輸出国であるイランに制裁を加えたこともあり、アメリカ国内のピスタチオ生産者は予想外の売上に恵まれる。 数ある規定により、制裁ではピスタチオの輸出も禁じられた。

現地のピスタチオの看板今日セントラル・バレーでは、チコにあるケルマンの母樹を筆頭に、面積にして10万ヘクタールを上回るピスタチオが栽培されている。 1ヘクタールあたり270本から360本だから、約3100万本。すなわちアメリカのピスタチオ生産の98%を占めると推定できる (残り2%はアリゾナ州とニューメキシコ州)。 2010年、カリフォルニア州は2億4千万キロのピスタチオを収穫し、それまで世界一の生産国であったイランを追い越した。 今年、収穫されたピスタチオの価値が初めて10億ドルを超え、クルミの価値を上回った。アメリカではピスタチオがアーモンドに次いで国内2番目に高価なナッツとなった。 つまり、ピスタチオ農園は平均で1ヘクタールあたり7万5千ドル(約740万円)の価値がある。生産者は今後も市場が拡大すると見込んで、作付面積を毎年4800~6000ヘクタールずつ拡大している。

中国のピスタチオ消費量は世界最高である。 カリフォルニアの生産者は中国における需要増は続くものとして、投資を拡大させている。

全米ピスタチオ生産者協会のリチャード・マトイアン氏は、2017年までに収穫量が3億6千万キロを超えると推定。世界市場の大きさに自信を見せた。 カリフォルニア州ピスタチオ委員会によると、生産高の65%は中国とヨーロッパ向けに輸出されている。 中国は一国あたりのピスタチオ消費量が年間約7700万キロと、世界最高だ。カリフォルニアの生産者はこうした需要の急激な増加は続くものとして、投資を拡大させている。

だがケルマンは誰もが認める完璧な品種というわけではない。 大粒でしっかりとした、風味豊かな実ができる一方、多くの愛好家の間では、シチリア産のナポレターナが世界最高の風味と美しさを誇ると言われている。 だが別の国の専門家はもちろんこの意見に賛成しない。トルコのウズンやキルミジ種が最高だとする人もいれば、シリアのレッド・アレッポ、イランのモムタズやカレコウチが最高だとする人もいる。

ウルシ属でウルシやツタウルシ、マンゴーの仲間であるピスタチオは房状に育つ。
ウルシ属でウルシやツタウルシ、マンゴーの仲間であるピスタチオは房状に育つ。

だが、生産者は皆、味が成功の決め手だと言う。 ケルマンは「大量生産型」――つまり1本の木に多くの実をつける。さらにケルマンのナッツは殻が自然に弾ける確率が高いため、簡単に割って食べやすいのが特徴だ。 ケルマンは、地中海や中央アジアの気候に似たセントラル・バレーの、ホウ素を多く含んだ石灰質の土壌でよく育つ。

だからといって、ケルマン栽培は何の障害もなく進んだわけではない。 1960年終わりごろ、初期の生産者はピスタチオがパーティシリウム萎凋病に侵されやすいことを発見する。パーティシリウム萎凋病はよくある病気で、進行は遅いが、やがて根を腐らせる。 このころ、ピスタチオ栽培に関心があった歯科医のケン・パーヤー氏と友人の農家コーキー・アンダーソン氏がサン・ホアキン・バレー南部からチコを訪れ、当時ケルマンの母樹を選別していたジョリー氏に出会う。 ジョリー氏から助言を受けた二人は、1969年に最初の一本を植える。 言い伝えによると、大規模なピスタチオ生産者が苗木を見にやってきて、一区画まるごと買いたいと申し出たという。さらに翌年も同じ人物がほぼ同数の木を注文した。 二人は果樹園ではなく、新しいピスタチオ業界向けに台木を栽培するパイオニア・ナーサリーを設立した。

パーティシリウム萎凋病対策として、パイオニア・ナーサリーはピスタシア・アトランティカと各種ピスタシア・インテゲリマを交配させ、耐病性の交配種を見つける。二人はこれを「パイオニア・ゴールド 1」と名づけた。 そして交配したものにケルマンの芽接ぎをし、1981年には生産者に新種を提供するに至っている。

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FLORILEGIUS / ALAMY (詳細)
1837年の植物スケッチでは、果実の全体像、縦断面、横断面、殻、食べられる部分の実が描かれている。 

栽培上、最後にもう一つ調整しなければならないことがあった。ケルマン雌木が受粉できる期間は1週間と非常に短く、その期間に花粉を出せる雄木を見つけなければならなかった。 ピスタチオは虫ではなく風で受粉する。商用の果樹園では、1本の雄木につき8本から24本の雌木を配置するのが一般的である。 雄木のピーターズ(起源は不明だがアルメニアの可能性)は、フレズノ付近ですでに栽培されており、約2週間で大量の花粉を放出する。その2週間がケルマンの開花期間にぴったりと重なっているのだ。 台木と受粉の悩みが解決し、1980年代にはピスタチオ業界に、質的に信頼がおける、耐病性で、大量生産が可能な優れた品種が登場していた。

パイオニア・ナーサリーを訪れた際には、管理人のアンディ・シュヴァイカルト氏が、高さ125センチの苗木で埋め尽くされた広大な農場を案内してくれた。 スプリンクラーの霧が、上から苗木をやさしく潤す。

一体何本あるのだろう。 シュヴァイカルト氏によると、89万本はあるという。 さらにその1本1本がすでに「注文を受け、支払いが済み、まもなく引き渡す準備ができたもので、 来年のこの時期は、さらに多くの苗木を売る用意がある」という。

次の目的地は、ヨロ郡のデューイ農園だ。私は収穫の様子を見に、サクラメントから北に50キロ旅した。 ピスタチオの木は4月に花を咲かせ、収穫は9月初めから10月半ばにかけて行われる。 殻の中にあるナッツは大きく育ち、自ら硬い殻を破る。この現象のおかげで私たちはナッツを簡単に食べることができるのだ。 (イランでは自然にできた割れ目と、そこから見える仁の部分は、「カンダン」すなわち「笑っている」と表現される)。 こうした割れ目が自然にできる割合は60%から75%。 はじけなかったものは選別し、後から機械で割る。

晩秋の収穫期が来ると、セントラル・バレーのデューイ農園では振動収穫機を使い、24時間体制でピスタチオを収穫する。500キロの箱がいっぱいになると、まとめてトラックで加工工場に運ばれる。
晩秋の収穫期が来ると、セントラル・バレーのデューイ農園では振動収穫機を使い、24時間体制でピスタチオを収穫する。500キロの箱がいっぱいになると、まとめて加工工場にトラックで運ばれる。

ピスタチオの収穫はパワフルな振動収穫機を用いて行う。 振動収穫機が木の幹をつかみ、数秒間降ると、 ナッツがシャワーのように振り落とされ、布で覆われた長いフレームの中に集められる。 農園でこの作業を監督するハリー・デューイ氏によると、収穫は段階的に行われることがある。まずは軽く振って早熟のナッツを集め、それから、振動を強めて、後から熟したナッツを集めるやり方だ。 木を取り囲む長いフレームは傾斜がついているので、ナッツはその上を転がり落ちてコンベアベルトに乗る。ナッツはベルトに運ばれ、やがて容量約500キロの木製の収穫箱に集められる。 箱はトラックに積まれ、加工工場へと移動される。収穫期、この工程が24時間体制で行われる。

ナッツは乾燥させ、選別する。炒って塩をふるものもある。
ナッツは乾燥させ、選別する。炒って塩をふるものもある。

私は、サン・ホアキン・バレーのワスコ郊外あるプライメクス・ピスタチオ加工工場を訪れた。 プライメクスのような最先端の工場に入り撮影許可を得ることは非常に難しい。特許技術だから企業秘密なのだ。 3250平米もの清潔な最先端の工場に入ると、マーク・シェレル工場長が中を案内してくれた。

彼の説明によると、収穫したピスタチオは農園から集められた後24時間以内に外皮を取り除き乾燥させる。そうしないと殻に染みがつき、美しい外観が損なわれてしまう。 プライメクスに到着したピスタチオは、まだ新鮮なうちに外皮を取り除き、実の水分量が元の30%から10%になるまで乾燥させる。シェレル氏によると、こうすることで殻に染みが残らないそうだ。 さらに5%から7%まで乾燥させるには数日かかるが、このころにはピスタチオが「安定」するという。つまり、出荷まで保存できる状態になっている。 ピスタチオは殻が割れ目が入った独特の形状により、殻のまま炒って塩味をつけることができる。シェレル氏は、ピスタチオの8割はその状態で食用として販売されると言う。 残りは機械で殻を取り除き、キャンディーや焼き菓子、アイスクリーム用に生で売るか、殻なしのものを炒って塩味をつけ販売する。

中東や地中海沿岸では、ピスタチオはお菓子の材料として長い間愛されてきた。 左上から時計回りに: 炒りゴマを固めた生地でピスタチオを包んだお菓子、ピスタチオの粒を水あめで固めたもの、砕いたピスタチオのヌガー、砕いたピスタチオ入りのキャラメル。
中東や地中海沿岸では、ピスタチオはお菓子の材料として長い間愛されてきた。 左上から時計回りに: 炒りゴマを固めた生地でピスタチオを包んだお菓子、ピスタチオの粒を水あめで固めたもの、砕いたピスタチオのヌガー、砕いたピスタチオ入りのキャラメル。

これまで見てきたものを振り返ると、10億ドル規模の産業の成功を、ケルマンというたった1本の母樹の生命力と安泰成育にかけるという知恵は、果たしていかなるものだったのかと疑問がよぎる。 農業に従事していれば誰でも「モノカルチャー」にはリスクが伴うことは知っている。病害虫が広がれば大規模な損害が生じる。 まさにそうした理由から、カリフォルニア州ピスタチオ委員会とカルフォルニア大学は1990年、共同でピスタチオの品種改良に乗り出している。 最も有望な品種の一つは、イラン由来のカレコウチであることがわかりつつある。

チコの荒れた果樹試験場に戻り、私がついに一本のケルマンの木と対面した時には、すでに日が沈みかけていた。 ケルマンは生きていた。しかし花を見ると、雄木のようであり、タグでもそれが明記されていた。 10番の列にあったが、果樹園はここで突然終わっている。 その先に広がるのは、ただ何もない埃っぽい土地だけだ。最近になって草木を取り除き、耕したような印象だった。 印刷したグーグルマップの衛星写真によると、その東側にもう1本ケルマンの木があるはずだ。それが雌木に違いない。 見下ろすと、 足元の切り株には、チェーンソーで切ったばかりの木くずがまだ新鮮な状態で残っている。

夕暮れ時の薄暗い中で私は四つん這いになって年輪を数えてみた。 82本ある。 2013-83=1931。ロイド・ジョリー氏が最初のケルマンを植えた年にかなり近い。 その後私は、「ケルマンの母樹」が昨年枯れてしまい、切り倒された事実を知った。それも私の訪ねるわずか3週間前のことだ。 切り落とされた枝と幹は近くの焼却場に投げ込まれていた。 母なる樹は灰と化してしまった。だがその子孫は確実に繁栄を遂げている。

欧米のデザートでは、ピスタチオはアイスクリームに用いられることが多い。シンプルなコーン入りのアイスクリーム(右)はもちろん、サクラメントのジンジャー・エリザベス・チョコレートではアーモンドミールと砂糖、卵白で作ったマカロンに挟んで作ったピスタチオのアイスクリームサンドも楽しめる。
欧米のデザートでは、ピスタチオはアイスクリームに用いられることが多い。シンプルなコーン入りのアイスクリーム(右)はもちろん、サクラメントのジンジャー・エリザベス・チョコレートではアーモンドミールと砂糖、卵白で作ったマカロンに挟んで作ったピスタチオのアイスクリームサンドも楽しめる。
エリック・ハンセン ベストセラー作家でありフォトジャーナリストのエリック・ハンセン[email protected])は、サウジアラムコ・ワールドで数々の記事を手がけてきた。 世界有数のピスタチオの産地、カリフォルニア州セントラル・バレー在住。


 

This article appeared on page 2 of the print edition of Saudi Aramco World.

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