 |
|
Tawahin es-Sukkar、もしくは「砂糖の石臼」がある石臼部屋は、正面に位置しています。 下 : サトウキビを細かく砕いてその甘い汁を抽出することが砂糖精製の最初のステップです。ヨルダンやその近辺の国々では、過去 500 年間サトウキビが栽培されていなかったにもかかわらず、この地域の至るところで、この作業が、通りに面した店でいまだに行われています。
|
月の朝 9 時 30 分ですが、私達はすでに日陰を探しています。 ヨルダンの死海からちょうど南の青空の下では、微風の兆しすらありません。 聞こえるのは、遠くで作業をしているトラクターと、ブンブンと奇妙な音を立てているハエだけです。
ここは常にこのように静かなわけではありませんでした。 トラクターのタイヤの大きさの、風雨にさらされた研削盤の砥石車の上に座りながら、私は、何百人もの労働者がサトウキビを切断、運搬、粉砕し、火をたき、湯を沸かし、注いだりして賑わっていた 1,000 年前のこの場所に思いを馳せます。この地球上で人生を変えるような最高の食料品のひとつ、 砂糖を生産していた時代です。 キニーネ、ジャガイモ、綿やお茶と並び、サトウキビは人類の生活を変えた5種類の植物のひとつであると言われています。Tawahin es-Sukkar は最初にこの砂糖の大量生産およびグローバルな商業化を行った、重要な場所です。
この場所は、ヨルダン川の両岸にある他のいくつかの場所と同じように、砂糖に必要なものが揃っています。 砂糖に必要なものとは、肥沃な灌漑農地、サトウキビの収穫と伐採に必要な労働力、粉砕する車輪石を動かす水力、湯を沸かすための火をたく燃料、浄化するミネラル、結晶化する際に使うなべを作る陶器製造業、市場で売買する貿易ネットワークです。 しかしそれらすべての前に、サトウキビ栽培に適しない天候に、サトウキビを適応させる必要がありました。
おそらく野生の状態であっても、砂糖は人類を魅了したことでしょう。 「人類の甘味への熱望は、進化の過程で存在しました」と、ジョン・ホプキンズ大学の Sidney Mintz は言います。彼は 1985 年に独創的な本、『Sweetness and Power: The Place of Sugar in Modern History 』を著ています。 「我々は、樹木の果物を食した霊長類の子孫です」と、彼は言います。 「甘味は食することが可能であるという印であった可能性があります。甘味はやがてヒト科の味覚器官へ組み込まれました」。
 |
 |
|
上: サトウキビが育つ低地と水が供給される高地の間に位置する Tawahin es-Sukkar 遺跡では、壁と水路が出土しています。 下:石臼を動かす動力として十分な高さがある水の傾斜台です。水はその後、灌漑地に流れます。
|
一万年前、現在のニューギニアに当たる場所で、砂糖が最初に栽培されたと植物学者は考えています。湿気の多いメラネシアの環境が適していました。 そしてその砂糖の味はすぐに広まっていきます。 サトウキビ畑は急速にフィリピン、インドネシア、中国、インドまで伝播しました。
これらのすべての国々に既に蜂蜜がありましたが、人々はサトウキビは蜂蜜とは異なるだけではなく、より高い価値があることに気が付きました。 その伝播に伴い、人々は竹のような茎から甘い汁を抽出し、処理することを学んでいきました。 知られている 6 種のサトウキビのうち、 Saccharum officinarum または「薬局の砂糖」と呼ばれるものが、その後私達の食卓で使用されるようになります。 高さ 4.5 メートル、太さ 5 センチほどに成長します。 豊富な水と太陽の光があれば、その成長を目で見ることができるといっても良いほどで、1 日に 2 センチ 成長するというのも珍しいことではありません。
それでも、昔の砂糖加工者たちは、サトウキビ栽培には細心の注意が必要だということを学びました。 1年をかけて成長した後、そのピークの間に伐採し、その日のうちに汁を粉砕しなければ、「ひっくり返ってしまう(発酵してしまう) 」のです。 汁は速やかに沸騰させ、なべに注ぎます。 含有される水分が蒸発した後、高濃度となったスクロース溶液を冷却します。 過飽和が起こると、糖液や糖蜜として知られている結晶化しない部分を残して、容器の形に結晶化し、凝固します。 その後、不純物を取り除くために精製する必要があります。 この技術は、Tawahin es-Sukkar のお家芸となりました。
グラスゴー大学の考古学者である Richard Jones と彼が率いるチームは、遺跡から採取したいくつかのサンプルの化学的分析を行い、捕えどころがない、砂糖の直接的な証拠を見つけます。 「最も難しいのは、建物、石臼、水路、何千もの砂糖を精製したなべがあるにもかかわらず、サトウキビの痕跡すら見つけるのが大変困難であるという点です。なぜなら、砂糖を含む塊は、通常、微生物作用で侵食されてしまうか、最終的には分解してしまうからです」と、彼は説明します。 しかしながら、the Hellenic Society for Near Eastern Studies の Web サイトによれば、 Konstantinos Politis の指揮のもとで行われた最近の調査における 2011 年の植物分析で、初めてサトウキビ片遺物が明らかにされたということです。 Jones により、さらに、砂糖を浄化するのに使用されたカルシウム系の物質も発見され、それは、死海のリサン半島のちかくで採取された堆積物と一致しました。
そこは、ヨルダン渓谷に沿って存在する、既知の数十にのぼる初期の砂糖産業地のうち、最大且つ最も保存状態の良い場所であるため、Tawahin es-Sukkar だけでなく、おそらく他の場所にも供給されていたと考えられます。 Ruba AbuDalo はヨルダンのヤルムーク大学の修士論文で、そのうちの 10 箇所を調査しました。 「ヨルダン渓谷は、ヨルダンの領土のうちで、最も肥沃な地域です」と、彼女は言います。 砂糖に関係する数多くの古代遺跡が地中海海岸への通り道で発見されており、彼女はヨルダン渓谷の 34 箇所を特定しました。
 |
|
写真提供 e. photos-jones, a. hall, r. jones, e. pantos / herring design |
「サトウキビ産業は石臼の動力となる水の供給に依存するため、圧搾所は川や水路のそばに作られました」と、彼女は説明します。 より小型の遺跡では、ベルを逆さにしたような形のなべが砂糖精製が行なわれた主な証拠となると、歴史学者である Nuwayri は述べています。1332年当時、それは 「 alabaleej 」 と呼ばれ、砂糖の溶液を糖液のレベルにまでするのに使用されました。
砂糖を精製する基本的な削減過程は、サトウキビそのもののように長いことで知られています。 紀元前 327 年頃、アレキサンダー大王に使えた将軍ネアルコスは、インダス川で、「インドのアシは、ミツバチの助けなしで蜂蜜をもたらし、そこから人々を酔わせる飲み物が作られる。その植物は実さえつけないというのに」と記しています。 歴史学者達は、インド北部がサトウキビ改革の最初の中心地であったと考えています。
「インドのように、 2000 年前か更に昔は、サトウキビの汁から採取した砂糖の結晶化は、しばしば医療と宗教的な意味合いの両方を持っていました」と、Mintz は言います。 「そのようにして、一般に人生の危機に関する儀式に組み込まれました」。
砂糖の生産に関する最も古い記録は、紀元 500 年頃の、ヒンドゥー教の宗教書 ブッダゴーサ にあります。そこには、今日まで知られている一連のステップと類似した過程が記されています。 確かにアラビア語の sukkar と英語の sugar は両方ともサンスクリット語で「小石」を意味する sakara に由来しており、それはサトウキビを生成してできる粒を連想させます。
同時期に、中国の熱帯地域でサトウキビが栽培されていました。 唐の皇帝、太宗は、その精製方法を切望し、647 年にインドに派遣団を送りました。その後すぐ、砂糖は果物を船荷にする際の防腐剤や中国料理の調味料として使用されるようになりました。 インドの影響は実に広範囲に及んでいました。 627 年、ビザンティン帝国の皇帝ヘラクレイオスが、バクダット近郊にあるペルシア王ホスロー 2世の住居の一つを占領した際、彼が見つけた砂糖は「インドの」贅沢品と呼ばれました。
しかし、ちょうど 7 年後、イスラム軍団はヘラクレイオスを破り、イスラムはその地や中東全域、そして北アフリカを占領し、アラブの農業改革が行われました。 イスラム化された地域では新しい作物の栽培が中心となりましたが、そのなかのひとつがサトウキビでした。
600 年代の中頃、アラブ人が甘い植物を発見したのは、サーサーン朝が衰退したあとのペルシアの地においてでした。 栽培されていたのか輸入されたものかは明らかになっていませんが、7 世紀後半の中国の史料でペルシアの砂糖についての言及があることから、砂糖はその少し前にインドから海を渡ってサーサーン朝に伝わったものと思われます。 しかしながら、サトウキビはペルシアの熱くて乾燥した天候に適していないため、十分な量のサトウキビを栽培するにはどうしたらよいのかという非常に大変な取り組みを正当化するのは、アラブ人に任されました。 作付様式はその変換を、肥料は開発を要しましたが、最も重要なことには、灌漑技術はそのものの改革が必要でした。 サトウキビを生来の天候以外の下で栽培するのは、ひとつの挑戦です。
|
地下の水車から水平の動力を得て、円形の台座の上を転がる石臼が、地中海東岸とレヴァント地方の至るところで使用されるようになり、サトウキビ製粉が始まりました。 以下: Tawahin es-Sukkar、Kouklia、Kolossi、Cyprus。
|
 |
 |
 |
『The Sugar Cane Industry』の著者である、トロント大学の地理学教授 J. H. Galloway によれば、サトウキビが十分に成長するにあたって必要な最低気温は、摂氏 21 度ですとなっています。 それ以下では発育が遅れ、摂氏 13 度 になると成長が止まってしまいます。 サトウキビが最もよく育つ温度は、摂氏 27 度 から摂氏 38 度 です。 そして何よりもまず重要なこととして、サトウキビは年間を通じて潤沢な水を必要とします。
アラブの地では数千年にわたって灌漑が行われてきましたが、サトウキビは季節性のない最初の作物でした。 大抵の作物は、暑く乾燥した夏の間に耕地を休ませることが可能でした。 しかし、川の水が少ない時期でも水の供給を必要とするサトウキビは違いました。 エジプトの記録では、毎年、ナイル川の氾濫の間に 28 回もの灌漑が必要であったと記されています。 これにより、拍車が、noria、または水汲み水車のような水文装置にまで改良され、11 世紀までには、「ほとんどの川、水路、オアシス、泉、オアシスや予測可能な氾濫において使用されました」と、 『Agricultural Innovation in the Early Islamic World 』の著者である、トロント大学の Andrew Watson は述べています。
新しい肥料も必要となりました。 Watson は、その時期にアラブ世界で作られた 10 種類あまりの農業手引書を詳しく調べました。 「手引書では、鋤で耕したり、掘ったり、鍬を入れたり、馬鍬でならすのを促すのと同様に、広範囲にわたる様々な種類の動物性肥料および緑肥の使用が推奨されています」と、彼は述べます。 その上、敷石のスペースを開けて設置すること、また深く溝を掘ること、敷石を軽く土で覆うことなど、今日まで行われている技術が勧められていました。
しかしながら水以上に、肥料と耕作地が不可欠でした。 アラブの農業革命でもたらされた、モロコシや綿、ココヤシ等の同時期に存在した他の作物の普及とともに、砂糖生産における新しい技術と新しい収穫サイクルは、それが東から西へと広がるにつれ、政治的および社会的変化をもたらしました。 灌漑には資本が必要でした。
水の権利とマーケティングは、信頼性を確実にするための新しい法律を必要としました。 農作物にほんの 5% の税金を課した新しい税制は、伝統的な重力を用いた灌漑方法を使用していた農民たちとは対照的に、集約的な灌漑技術を使用した農民たちの助けとなりました。 伝統用法を使用した農民たちは、農作物に対する 50% の税を払わなくてはなりませんでした。 灌漑農地を作り、管理し、維持した新しい労働者たちも、その新しく強化された農地で働き、収穫を行いました。 これは小作制度のはじまりとなりました。 「これは、後のイスラム世界誕生をもたらした、アラブの並外れた貢献といえます」と、Galloway は記しています。
Watson はこのアラブの農業を、同時代のヨーロッパの農業と比較しています。 アラブの「経済が収益化され、彼らは大規模に生産及び他地域との貿易を行い」、それが、大規模な砂糖生産を可能としたのです。 しかし、彼らは何によってそのような規模の砂糖生産を促されたのでしょうか? 「金銭と利益だと思います」と、彼は述べます。 「人々が自給自足を行なっていた同時代のヨーロッパとはかなり異なりますが、同じような収益効果をもたらす貿易経済ではありませんでした」。
これら全ての変化は、新しい生活様式、もしくは今日、我々が「ライフスタイル」と呼ぶものをもたらしました。 Watson は、単位面積あたりの高い収入から、新しく入手可能な土地と労働力の高い需要まで、すべてが、早婚とより大家族化をもたらし、そのため人口に大きな変化が生じたと考えています。 確かに、歴史的史料は、村々に新しい農地が生まれ、それまでにないほど人口が増したことを示しています。 食料供給の増加により、都市も成長しました。
この農地改革の一部として、サトウキビはヨルダン渓谷だけに限定しなくなったことが挙げられます。 ナイル川とデルタ地帯、シリア、パレスチナから北アフリカ、スペイン、キプロス、マルタ、シチリア、クレタにまでわたって、サトウキビ栽培が見られるようになりました。 Mintz が言及したように、砂糖は「コーランに続きました」。しかしながら10 世紀までの史料は乏しいため、歴史学者や考古学者も、最初にこのような産業規模の粉砕所が出現した正確な時期を突き止めていません。
ヨーロッパでは紀元 1100 年頃には、砂糖は胡椒、ナツメグ、メース、生姜、カルダモンのような香辛料として分類され、金銭を保有していた人々さえも控えめに使用した、エキゾチック且つ高価な輸入品でした。 それよりかなり前、地中海東岸から北アフリカにかけての地域では、砂糖は医薬及び香辛料の両方として使用されました。 インドからスペインにかけての医者は砂糖を使用しており、ヨーロッパの医者は、アラブの薬学を通じて、砂糖の使用を初めて学んだのです。 ペルシアの学者、イブン・スィーナー (アウィケンナ) によって 11 世紀にアラビア語で書かれた医学書Qanun fi'l-Tibb (医学典範) は、ヨーロッパの権威者達の間では 15 世紀後半まで使用されていました。「砂糖は薬として、主に解毒剤として使用されました。むろん、黒死病にはすべての解毒剤が無益でしたが」と、Mintz は述べます。 その他の使用法は、現在では奇妙なものとして目に映ります。 「中世における有名な医療現場での砂糖の使用法のひとつは、細かい粉にした白糖を金粉と混ぜ、それを病んでいる目に向けて吹きこむというもので、目の病気を直すと考えられていました」と、彼は述べます。
当時、砂糖は薬品として使用されていただけではありません。 11 世紀のカリフ、ザーヒル (al-Zahir) は、宗教上の祝日に、テーブルと同じ大きさの城を砂糖で作って祝いました。また、1040 年、エジプトの支配者は 73,000 キロ 以上の砂糖をラマダン明けの祝いの席で使用したと伝えられていると、Mintz は記しています。
このような甘いデカダンスはヨーロッパの宮廷社会で流行し、特に地中海沿岸の地域で、新しく、より効率的な砂糖生産が促進されました。 11 世紀の十字軍戦士は、砂糖が精製された Tawahin es-Sukkar 等が位置するレヴァント地域における商業的な砂糖ブームは、まもなく彼ら自身を商業界における激しい競争に追いやったと記しています。
今日、キプロスではより明らかにこの事実を確認することができます。キプロスは砂糖産業に使用された遺跡が最もよく保存されており、考古学者により最も集中的に発掘が行われています。 私は、リマソルとパフォスの間にあるハイウェイ A6 の傍らに立っています。キプロス島の南西にある岩がちな海岸で、オレンジ畑の中を通る、ほとんど壊れかけた石製の水路が見えます。 7 世紀前に、石臼の動力とするため、Oridhes の森の泉から Kouklia の砂糖生産場所にある農地まで水が引かれました。
この Kouklia のプロセスは Tawahin es-Sukkar と類似しています。 水は、狭い水路を下降しながら地下にあるアーチ形の部屋まで流れ、石でできた噴き出し口から木製の水汲み水車に注がれました。 立ち上がることができるほど大きなこの部屋では、壁の肩の高さくらいの位置に擦痕が見られます。これは水車が 直径 5 メートル 近くあったことを示しています。 離れた部屋の角には、歩くのに十分な幅の排水路があります。水は、巨大な製粉石臼の動力となった水車を通った後、その排水路からサトウキビの灌漑地へ流れ出ていました。
これは、当時では大規模といえる産業でした。 十分な量の甘い汁は、圧縮された後、8 つの巨大な銅釜で火にかけられました。並んだレンガの炉端には、火の後がいまだ黒く残っています。 大釜からは、熱い甘い汁が 3 つの大きさの円錐形の鋳型に流し込まれました。その壊れた破片は現在でも付近に散らばっています。 ペトラを通り越した海岸沿いの観光道路を東に進むと、アクロチリにある空軍基地の巨大なアンテナネットワーク、オレンジとグレープフルーツ畑の近くに、もう 2 箇所、同様の砂糖生産が行われた遺跡があります。Episkopi と Kolossi です。
スリムで粋なデザイナージーンズに身をつつみ、灰色を帯びた髪をオールバックにした Marina Solomidou-Ieronymidou は、17 年間以上掘り続けた砂糖の生産場所の遺跡の話になると、その熱意でピアスをした彼女の茶色の目が輝きます。 このキプロス ミュージアムの古代遺物の学芸員は、古い塀で囲まれたニコシア市のパフォス門のちょうど外側に立ち、いつでも遺跡に戻って調査をしたいと言います。 「やることはたくさんあり、もっと多くの謎を解きたい」と、彼女は述べます。
1,400 年代後半、効率的で商業的な施設が誕生し、砂糖生産はピークに達したと彼女は説明します。 「Episkopi では、イタリア人旅行者である Pietro di Casola が 1494 年に、400 人の労働者を見たと記しています」と彼女は述べます。 「Kolossi と同じような数だったに違いありません」。 双方とも並外れた数です。 「1532 年、キプロス島における砂糖の全生産量は 3,000 キンタル、30,000 キロ、もしくは 33 トンでした」と、彼女は言います。
これに暗示される生産の規模は別にしても、キプロスにある遺跡は同様の技術を使用していたことを示し、Tawahin es-Sukkar と著しく類似しています。 水路が噴き出し口を通り地下へ引きこまれていること、その上部にある石臼の動力となる水平に置かれた水汲み水車、糖液の収集方法、煮沸施設、同様の形をした砂糖なべの破片などがそれに当たります。 しかし、歴史学者たちはいまだ最初にこのシステムが作られた場所を突き止めていません。 レヴァント地方における遺跡が生まれた年代については、キプロスの遺跡のように最終的な決定はなされていません。しかし Solomidou-Ieronymidou は、この技術はレヴァント地方で生まれ、その後西へと伝わったと考えています。 「砂糖の生産方法がレヴァント地方で生まれたため、水平な水汲み水車のシステムもまた、そこで生まれたと思うのです」と、彼女は言います。 「十字軍戦士たちが 12 世紀後半にキプロスに定住した際、彼らを通じてそれがキプロスで発展したのです」。
キプロスからの砂糖の多くはヴェネチアに輸出され、裕福なコルナロ家はキプロスからの生産物の主要な所有者であったと、彼女は述べます。 生産は順調に進められ、1200 年初頭にはより多くの砂糖がヨーロッパ大陸に輸出されました。 1300 年初頭までに、最初に砂糖に夢中になった国のひとつが、英国です。 1 ポンドの砂糖を入手するのに、 2 シリング (現在の貨幣価値でおよそ 78 ドル相当) かかりました。砂糖がどれほど貴重であったかを想像することができます。 そのため砂糖の使用は概して王家と貴族に限られ、これ見よがしの誇示とともに砂糖は消費されました。 アラブの間では、手の込んだ彫刻品が社会的行事のために作成されました。18 世紀のフランス人シェフ、マリー=アントワーヌ・カレームは一度、主に建築様式からの派生である砂糖彫像を発表しました。 ディナーに招かれた客は、彼らが食した砂糖でできた城全体、そして人、花、動物などの見事な菓子製造の表現力を大いに楽しみました。 しかし労働者階級の人々の間では、英国における最初の料理本で勧められていたように、砂糖は古くからの方法、すなわち甘味料としてではなく香辛料として、ほんの少量が肉や魚、野菜料理を作る際に、しょうがやサフラン、シナモンとともに使用されました。
砂糖が高価であったのは、レヴァント地方と異なり、キプロスやその他の地中海の土地が、実際のところ、サトウキビ栽培が可能なぎりぎりの環境であったためです。 灌漑とアラブの手法を順守しても、より低温の冬と時折の霜で、収穫時のサトウキビは未熟でした。またそのため、サトウキビに含まれる糖分は多くはありませんでした。 加えて、アラブの方法が伝播するまでに、地中海の多くの森林は、造船業や治金業、窯業、ガラス業といった燃料必要とする産業のため搾取されつくしており、その結果、砂糖の大桶を煮沸する燃料が不足しました。 バガスと呼ばれる製粉後のサトウキビの残りは、のちにアメリカの熱帯地方で砂糖が作られるようになるまで、燃料としては使用されませんでした。
14 世紀から 15 世紀にかけて、戦争と伝染病で農業労働者が激減したため、地中海の島々にある施設では、主にギリシャ、ブルガリア、トルコ、タタール沿岸、そして黒海からの戦争捕虜奴隷を労働力として使用しました。 Galloway はこう記しています。「 19 世紀まで続いた砂糖生産と奴隷との結びつきは、クレタ島、キプロス、そしてモロッコにおいて強固に作り上げられました」。
 |
 |
|
上:Kouklia でのキプロス人の砂糖用石臼。下:同様の砂糖精製過程の技術比較のため並べられた、 石臼、煮沸、鋳型、分解方法。 この他の場所は、貯蔵部屋、作業場、燃料供給場として使われました。 同時代に存在した大規模な砂糖生産地では、400 人以上の労働者が働いていたと推定されています。
|
これらの問題により、砂糖の生産はマデイラ諸島、カナリア諸島、アゾレス諸島付近をはじめとした、西方へと移動しました。 1400年代の中頃には、マデイラはヨーロッパに対する主要な砂糖供給地となりました。 コロンブスは、1493 年の二度目の新世界の旅で、カナリア諸島から複数のサトウキビを持ち帰り、それをヒスパニオラと呼ばれる島に植え付けました。
その地にはサトウキビの原産地であるニューギニアのような熱気、湿度、降雨があったため、栽培は瞬時に成功を収めました。 1516 年までには、最初の商業用の砂糖がヨーロッパへと出荷されました。 水や燃料が豊富で灌漑の必要がないため、カリブにおける砂糖の生産費用は、レヴァント地方および地中海での生産費用に比べると低く抑えることができました。 そしてそれは、従来の砂糖の生産地への死の予告となったのです。
欠乏していた資源は、労働力のみでした。 カリブ諸島に先住していたタイノ族は、ヨーロッパからもたらされた病気と迫害により、急速に衰退していました。 そして、鉱山労働のために既に集められていたアフリカからの奴隷が、砂糖プランテーションでの重労働を強いられました。 1530 年代までに、Santo Domingo が 34 の粉砕所と 200 人の奴隷を記録しています。
マデイラとアゾレスからのポルトガル人の遠征のおかげで、砂糖ブームは、同様にジャマイカ、プエルトリコ、キューバやブラジルといった他の場所にも飛び火していきました。 1710 年には、ブラジルに 528 ものプランテーションが存在しました。 Mintz は、砂糖生産のために新世界におけるプランテーションシステムを作り上げたのは、ほかでもなく英国であったと記しています。そのために英国は最もよく戦い、遠征し、最も多くの奴隷を使用し、最も遠くまで、そして素早く動きました。
実際、17 世紀と 18 世紀には、砂糖は英国の特徴、「英国のエッセンス」の一部となりました。 1600 年、英国は 1000 ホッグズヘッドの量の砂糖と消費し、2000 ホッグズヘッドを輸出しました。40年後、輸入量は 100,000 ホッグズヘッド、輸出量は 18,000 ホッグズヘッドに達しましたが、1753 年には輸出が 6000 ホッグズヘッドにまで落ちました (1 ホッグズヘッドは、およそ 240 リットル、63 ガロンです)。 この成長を支えるために、1701 年から 1810 年の間に、25 万人もの奴隷がバルバドスへと送られました。ジャマイカでは、その数は 662,400 人に達しました。 砂糖は、英国、アフリカ、新世界を結ぶ、奴隷の「三角貿易」における最も大きな原動力となっていきました。 ヨーロッパの布、銃器、火薬とアルコール飲料は西アフリカに運ばれ、奴隷の購入にあてられました。彼らは鎖で縛られて西インド諸島へと送られ、砂糖、ラム、糖液が、それらの船が着いたのと同じ波止場で売られました。 結果として砂糖の低価格化が生じ、砂糖の人気は様々な層の人々の間で高まり、新しい味覚が開発されました。 砂糖は、紅茶とコーヒー、チョコレートの味を向上させました。 これらの飲み物は長い間、ヨーロッパ人の間では苦いものと考えられていましたが、17 世紀後半までには、安価な砂糖によりチョコレート飲料やコーヒーハウス、アフタヌーンティの習慣などが中流階級にじわじわと浸透していきました。
 |
Mintz にとっては、まださらに、それ以上の関連性があります。 「何を甘くするかと決定することは、いまだ我々にとっては大きな謎です」と、彼は考えにふけります。 「この 3 つの飲み物はすべて苦いものですが、それにもかかわらず、飲み物の発祥地では甘くして飲まれてはいません」。 紅茶とコーヒーにはカフェインが含まれ、そしてチョコレートも軽い興奮剤です。 これらはすべて、工業化が発展した時代に一般的になりました。そしてそれは、工場での長時間労働、都会での暮らし、牛の不足など、プロレタリア階級家族が直面した新しい生活習慣が始まったのとすべて同時期であると、彼は指摘します。 「それは、コカ・コーラが登場する何世紀もの前の、最初のリフレッシュ飲料でした」と、Mintz は言います。 砂糖はポリッジやパン、デザートで一般的に使われるようになりました。そして特に結婚式や誕生日のパーティ、葬儀といった英国人の生活の節目に関連付けられるようになりました。
しかし、徐々に砂糖は罪悪感とともに消費されるようになります。 砂糖産業における奴隷の比率は、タバコや綿といった他のプランテーションで栽培される作物の 10 倍に達しました。アフリカ大陸からの奴隷の 4 分の 3 が砂糖のプランテーションへと送られました。そしてそれは砂糖をそれほど甘く感じることができなくなるような事実であったのです。 伝えられるところによれば、ある国会議員はジャマイカを「とても裕福で、専制君主の巣窟であり、奴隷の地下牢がある場所」だと表現したということです。
1801 年には変化が訪れました。英国とフランスは戦争中で、海軍のガントレットをヨーロッパに持ち帰ることに疲れていたフランスは、より近い砂糖の生産地を必要としました。 その年、最初の甜菜糖の効果的な生産がフランスで開始されたのです。 サトウキビと化学的に同一である甜菜糖は、15 年以内には熱帯の砂糖貿易を脅かすまでになり、1830 年までには、ヨーロッパ大陸における砂糖市場の半分以上を占めるようになりました。 1800 年までには、甜菜糖は、世界貿易においてサトウキビに取ってかわったのです。
英国は 1834 年に、キューバとアメリカは 1865 年に奴隷制度を廃止しました。新世界における砂糖の生産地は、学校、主要道路、水の供給、下水システムや他の重要なインフラ基盤なしに取り残されました。 自由の身となった奴隷達には他に行くあてもなく、また、生計を立てられるような新しい資源もありませんでした。 Mintz が記しているように、「砂糖、いやむしろその需要が作り上げた巨大な商品市場は、世界の歴史上、人口を動かす強大な力のひとつでありました」。
サトウキビは、レヴァント地方の Tawahin es-Sukkar や地中海で生み出された成果なしには、このように存在することはなかったでしょう。 この役割の重要性から、アンマンで建設中の新しいヨルダン ミュージアムは、主要な常設展示のひとつとして、Tawahin es-Sukkar のジオラマ展示を選択しました。
「アイユーブ朝からマルムーク朝時代は概して、戦争と十字軍に関連します」と、ミュージアムの館長である Faris Nimry は言います。 「他の側面を展示することは重要です」。 Tawahin es-Sukkar が選ばれたのは、「砂糖産業は当時のヨルダン経済の重要な部分を占め、様々な局面を表している」という理由からです。 「これまでに知られている中で、最初の大規模に組織化された砂糖プランテーションです」。 社会的影響と同様に、そのような大規模産業を統率した行政の政治・経済的能力も表しています、と彼は付け加えます。
「ジャンクフード」という格別に現代的な食物グループが、砂糖をグローバルに耽溺されることを可能にしたと、今日、砂糖は再び非難を浴びています。 しかし皆が同じ意見をもっているわけではありません。 アンマンの堂々としたアラブ銀行のちょうど東側、Al-Malek Faisal 通りの金製品を扱う店を過ぎたところに、とても小さい売店のような店があります。その中では、店員が切ったばかりのサトウキビの茎を電動の粉砕機に入れており、行商用のグラスにはサトウキビジュースがなみなみと注がれています。 店の張り紙には、はっきりとこう書かれています。「増強、視力回復、消化機能の改善、そして身体と心の強化のために」。 たった半ディナールのものですから、それはまるで「甘い」バーゲンのようです。
 |
フリーランスライターである Graham Chandler (www.grahamchandler.ca) は考古学、航空学、エネルギー関連のトピックに重点的に取り組んでいます。 ロンドン大学で考古学博士号を取得し、カナダ、アルバータ州のカルガリーに居住しています。
|
 |
写真家および映画制作者である George Azar (george_azar@me.com) は1981年以来中東を扱ってきました。彼はPalestine:A Photographic Journey (University of California Press, 1991) 及び Palestine, A Guide (Interlink, 2006) の著者です。映画 "Gaza Fixer" (2007) の制作も行なっています。 |
翻訳記事に関するご意見ご要望
翻訳記事についてお気づきの点がありましたら、saworld@aramcoservices.comまでご連絡ください。今後の改善に役立てさせていただきます。ご送信の際は、件名を英語で “Translations feedback” としてください。多数のコメントをいただく場合、すべてのメールに返信できない可能性もありますので予めご了承ください。
--編集部 |