巻 64, 号 22013年3月/4月

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青金石を主成分に、方解石、方ソーダ石、きらめく黄鉄鉱の混入によりマーブル模様が入った11センチのラピスラズリ球。職人アルシャド・カーンの作で、惑星のように見える。シーライトのコレクションより。

研磨士は前かがみになり、音を立てて回る研磨機にラピスラズリを当てる。そして、青い破片を飛び散らせながら小さなハート型に仕上げた。 ネックレスのリンクだろうか、それともペンダントやイヤリングに使うのだろうか。 研磨士のインスピレーションがものを言う。 ハリール・モグビルはまず芸術家であり、その次に宝石職人である。

「これが私の創作場です。」と言うと、彼は研磨盤を止め、手を広げて小さな作業場を見せてくれた。工房はドイツ西部ラインラント地域のイーダー・オーバーシュタインにある。ヨーロッパ有数の宝石の街だ。 「散らかってるでしょう。」彼は笑った。

本当だ。 原石が入った浅いプラスチックのバケツが床に散乱し、一部カットされた宝石が電動のこぎりの横のテーブルにばらまかれている。 棚の上では、未完成の彫刻がぐらついている。 部屋の一面が細かい石粉で覆われている。 大きな植木鉢のようなものを恐る恐るまたぐ。原石の表面を滑らかにする研磨機であった。55歳の職人は、石の山から研磨前の四角いラピスを探す。

クリスチャン・ラリュー / ブリッジマン・アート・ライブラリー
カイロ博物館 / BIBLEANDPICTURES.COM / ALAMY
上: ラピスは、上(実物の約3倍)のような魔除けの鳥の翼に埋め込まれるなど、エジプトで珍重された。 上: 紀元前2600年、シュメール人の職人が現在のアフガニスタンから交易ルートで持ち込まれたラピスラズリをカットし、「ウルのスタンダード(旗章)」の背景と飾り枠を仕上げた。人物などは貝殻をカットして埋め込んである。

「これが私のトレードマークです。原石です。まだ質感が味わえるでしょう」と彼は説明する。 「磨いた石は嫌いです。それにとても手間がかかりますから」と笑みを浮かべた。 彼が作ったネックレスは1000ユーロ(122,850円)以上もするから、彼が言う原石のままのスタイルを好む人は多いに違いない。

モグビルは、もともとソ連占領下のアフガニスタンから難民としてイーダー・オーバーシュタインにやってきた。研磨技術は、アフガニスタン人の妻の父親と兄弟から学んだ。 母国から遠く離れたこの地で、彼は人類で最も古い手工芸伝統の一つを受け継いでいる。 ラピスラズリの加工の歴史は7千年以上に上る。 紀元前5500年前に作られたラピスの装飾品が、パキスタン南部のバルチスタン州メヘルガルにある新石器時代の墓で見つかった。 エジプトのナカダでは、紀元前3300年ごろに彫られた楕円のペンダントが出土している。

紀元前2500年のメソポタミア財宝の中に、「ウルのスタンダード(旗章)」という実に見事な小箱がある。ラピスラズリを埋め込んで作ったその背景には、シュメールの王や祝宴客、音楽家の姿がある。 さらに文学の世界では、シュメールの『ギルガメシュ叙事詩』に、金とラピスラズリでできた戦車が登場する。

ツタンカーメンの墓で見つかった最も高尚な宝飾品には、ラピスでできたスカラベがあしらわられている。 クレオパトラは粉末ラピスのアイシャドーを付けていた。 1世紀のローマ史学者、長老プリニウスは、黄鉄鉱(愚者の金)の斑点がある宝石を「星が瞬く天空のかけら」と表現した。

ラピスをこのように捉えたのはプリニウスだけでない。 ラピスは、3世紀の仏教石窟から14世紀のロシア正教会の聖像、ローマカトリック協会、ビザンチン教会、イスラムの写本まで、宗教美術の美しさを引き立ててきた。 バグダッドやモスルで見つかった13世紀の写本では、カリフや作家、宮廷の女性がラピス色のローブを着ている。 ラピスの空は、イスタンブールからベニス、ブルガリア、マケドニア、カタロニアの教会まで、人々が描いた天国の姿にきらめきを与える。

ジョヴァンニ・ベリーニやティチアーノ、アルブレヒト・デューラーといったルネッサンスの巨匠は、聖マリアや聖人、天人、ローマ教皇の絵の背景にふさわしいとされた群青色にはラピスが必要だとして、依頼人に高価なラピス顔料を手配させた。 レオナルド・ダ・ヴィンチの「聖アンナと聖母子」が昨年ルーブルで修復された主な理由は、ラピスで青みがかったマリアのローブの光沢を再現するためであった。

ラピスは、フィレンツェの職人とインドのムガール皇帝もつなぐ。 16世紀、「ピエトラ・ドゥーラ」(硬い石という意味)の象嵌細工を行うためにメディチ家の公爵が設置したワークショップで訓練を受けた多くのイタリア人職人が シャー・ジャハーンの「孔雀の王座」や、皇妃ムムターズの墓、タージ・マハルのために、ラピスやその他宝石の飾り額を製作した。

支配者や資産家が来世の神への贈り物として、ラピスの遺品と共に埋葬される習慣は、時代や場所の違いを超えて一般的であった。 ラピスが持つ癒しの力も、高く評価されていた。 モグビル自身、ラピスの原石を首から下げている。血圧を下げる効果があると力説する。 その澄んだ完璧な紺碧色により、ラピスは、超越的なインスピレーションをもたらすために暗い地中から生まれた究極の天の石と、あまねく考えられてきた。

HEMIS / ALAMY
ディック・ドーティー / SAWDIA
上: ラピスは4世紀のものだが、その1700年前にツタンカーメンの黄金のマスクをはじめ数々の財宝に使われていた。 上: ヨーロッパの美の巨匠や、ムガールの細密画、写本の絵師にとって、ラピスは重要な画材だった。

驚くことに、世界のラピスラズリのほとんどが、ひとつの場所に由来する。 アフガニスタン最北東のバダクシャン州では、コクチャ川を取り囲むように青い縞模様の山脈が走る。 古代、そしてアジアを横断するシルクロード時代にラピスの鉱脈に到達できたのは、ラクダやロバ、ラバを連れたキャラバンだけだった。 今日でさえ、この貴重な石を渓谷から運び出すのはラバやポニーの仕事だ。その後トラックでカブールやペシャワール、カラチ、中国に陸送される。 (シベリア、チリ、ザンビアでも少量のラピスが採掘されているが、質は大きく劣る。)

ヒンドゥークシュ山脈をつくった地殻隆起でできたラピスラズリは、青金石を主成分に、方解石、方ソーダ石、黄鉄鉱が斑に入った複合鉱物である。 「ラピス」はラテン語で「石」を意味し、「ラズリ」はペルシャ語で空色または青色を表す「ラズワルド」または「ラジュヴァルド」が語源である。

半貴石に分類されるラピスは、ダイヤモンドやエメラルド、サファイヤ、ルビーといった宝石と比べると、価値ははるかに低い。 イーダー・オーバーシュタインの宝石商トーマス・モフルによると、低品質のラピスは、1キロあたり約5ドル(474円)と廉価だが、青みが均一で、濃すぎず薄すぎず、黄鉄鉱の斑点のない純粋なラピスは、1キロ1万ユーロ(120万円)以上にもなる。 3代に渡って宝石商を営むモフルは、 緻密なデザインを施した一点物の最高級ラピスを委託されることもあるが、そうしたものは何万ドルにもなるという。

スミソニアン研究所 /
国立博物館(リヤド)
サウジアラビア東部のタルット島で発見されたこのシンプルなマント姿の小像は、紀元前3000年記のラピスを堀ったもの。

澄んだ青の石が高く評価されることから、一部の香港商人は、低品質のラピスを染め、灰色や白の方解石が混入してできる縞を人工的に隠すような細工もしている。 もちろん、雲や海の泡を思わせる方解石の縞を好む人もいるし、きらびやかな黄鉄鉱の斑点が作る金と青のコントラストは見る者を魅了する。

一方、鉱脈から遠く離れた遺跡発掘現場で見つかったラピスは、初期の交易ルートを探る新たな手がかりとなった。 例えば、マントに包まれた男の小像(高さ5センチ)は、1966年にサウジアラビア東部州沖にあるタルット島で出土している (現在はリヤドの国立博物館に収蔵されている)。 タルット島で彫られたかもしれないが、むしろ紀元前3000年記に海を越えてイランのジロフトで作成された可能性が高い。 史学者のステフェン・ゴーシュとピーター・スターンズが2007年に出版した『近代以前の世界史旅行』(Premodern Travel in World History)によると、ラピスは紀元前2400年にインド、グジャラート州のロータルから船で出荷され、アラビア海を越えオマーン、バーレーン、メソポタミアに渡った。

キャラバンがシルクロードを通ってエジプト、 メソポタミア、ヨーロッパに伝えたにしろ、船でコンスタンティノープル、ベニス、ジェノバに渡ったにしろ、現代のように飛行機でカブールからイーダー・オーバーシュタインに運ばれモグビルや、モフルをはじめとする宝石商の手に渡ったにしろ、ラピス交易にまつわる地理は、アジア、ヨーロッパ、北アフリカを通じた芸術・商業・政治的交流を知る手がかりだ。

ブリッジマン・アート・ライブラリー
「バドミントン・キャビネット」には、ラピスほか半貴石の破片を丹念に形成し(中には爪の白斑より小さいものも)、細かく組み合わせて、花の枝やリボンの間を舞う鳥が描かれている。 高さ4メートルもあるこのキャビネットは、18世紀、フィレンツェで約30人の職人が6年以上かけて作ったもの。

モフルの祖父は二人とも宝石職人で、1920年代にはどちらもアフガニスタンで原石を仕入れている。 少なくとも16世紀末からメノウの産地であったイーダー・オーバーシュタインは、 当時もすでに、現在と同じ「ヨーロッパ有数の宝石の街」の名を誇っていた。 大通りは風格のある家屋やブティック、現代的な事務所ビルが立ち並び、ジュエリーの取引に応じる。 人口3万人のこの町には、古いメノウ鉱山を探索し、昔ながらの水車を使った宝石の研磨作業を見学しようと大勢の観光客が訪れる。町には見ごたえのある博物館が2ヶ所あり、訪れる者は世界から集まった鉱物、宝石、宝飾品の数々に見とれ、感嘆する。

現地のメノウは19世紀末に掘り尽くされたため、宝石商や研磨士は手を広げる必要があった。最初は南米からメノウを取り寄せ、後にラピスなど他の石にもレパートリーを広げた。 1980年代になると、モグビルのようなアフガン難民の宝石職人がソ連の侵攻を逃れてイーダー・オーバーシュタインにやってくる。彼らは工房を設置し、祖国の親戚や友人、ディーラーの助けを借りながらラピスを自分で入手した。 やがて、ペシャワールやパキスタン各地からも職人やディーラーがやってくる。

列車や船、ラバで何週間も移動し、アフガニスタンやパキスタンのラピス商を訪ねた祖父世代だが、モフルのやり方は違う。ラピスの供給業者に足を運んでもらう。 在庫がなくなれば、150キロ南東のシュトゥットガルト近郊で原石の倉庫を営むアフガニスタンやパキスタンの仲介業者に電話し、価格や条件を交渉する。 「1キロ400~1000ユーロ(49000~122850円)の中級ラピス20キロ以下なら、2日以内に手に入ります」と彼は語る。 大量だったり高級なものになったりすると、さらに日数はかかるが、「注文したものが倉庫になければ、カブールやペシャワールの親戚や知り合いに連絡すると、航空便や手渡しで届けてくれるのが普通です」と補足した。

一方ハーリル・モグビルは当初、カブールやペシャワールの市場で個人的にラピスを仕入れようとしたが、ディーラーは20キロ以下をわざわざ送るのを嫌がったため、あきらめたという。 モグビルは個人経営だし、家族10人で事業を営むモフルのように大量のラピスは必要ないため、ドイツやフランスの宝石・鉱物見本市で原石を仕入れることが多い。

EMOTIONQUEST / ALAMY
サンクト・ペテルブルグの修道院で見物客の前にそびえ立つ高さ178センチの「バダクシャンの花瓶」は、一塊のラピスを彫って作られたような威厳だ。

モグビルとモフル、そしてイーダー・オーバーシュタインを知ったのは、ある本がきっかけだった。 その本とは、ロンドンの作家・ジャーナリスト、サラ・シーライトが2010年に著した『ラピスラズリ:天空の石を求めて』(Lapis Lazuli: In Pursuit of a Celestial Stone)だ。ラピスに心を奪われた著者は、ラピスをめぐる芸術、商業、歴史を自分の足で40年かけて探索し、その物語を一冊の本にした。 彼女はその過程で、ヨーロッパ、アフリカ、中東、ロシア、中央アジア、インド、中国の市場や教会、僧院、作業所、遺跡発掘現場、博物館、図書館、公文書館を訪れたという。

2月の北風に身を引き締め、私はロンドン南部の緑の多い郊外の町、クラファムにあるシーライトの自宅を訪れた。 彼女のリビングルームには、中東や湾岸諸国その他を長期に渡って訪れて手に入れた絵や布が飾られている。シーライトはもともとインターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙やエコノミスト紙などの記者だったが、後に講師、文化旅行ガイドとなる。 オックスフォード大学で歴史を学び、1990年代はじめには、中東文化の知識を深めるためにロンドン大学東洋アフリカ研究学院でイスラム美術の修士号を取得した。

「忘れないうちに何とかしなければいけませんよね」とシーライト。紅茶とクッキーをいただきながら話を聞く。 彼女は知識を生かし、イギリス各地でイスラム美術の講義を行い、エジプト、シリア、トルコ、中央アジアの視察も引率した。 視察ツアーでは必ず昔ながらの市場に寄るため、彼女は常にラピスに目を光らせ、「楽しみを見つけていた」という。 出版などは一切考えていなかった彼女だが、2006年にパリでアフガニスタン宝物展の巡回展示会が開催されたことを機に、

「決心したのです」 「私にはやるべきことがあるはず。ラピスの本をまとめなければ」――彼女は苦笑いした。

長年のラピスへの関心は、中学生時代に好きだったある詩がきっかけである。シーライトは、魅惑的なラピスの塊に埋もれることを最期に願いながら死にゆく司教を劇的に表現したロバート・ブラウニングの詩に触れた。

INTERFOTO / ALAMY
ラピスと金、ダイヤモンドでできたこの指輪は、バイエルン王ルードヴィヒ2世が公爵への贈り物として作らせたもの。

その後、インドとパキスタンで外交官をしていた叔父にラピスのサンプルをお願いしたところ、叔父は彼女の願いをかなえてくれた。 本の中でシーライトは、小包を開けるときの鮮明な記憶をこう記してる。「汚い新聞紙から、驚くほど青い小さな石がぽろりと出てきました。今思うと、ヒンドゥークシュの星空やじりじりと太陽が照りつける昼間の空のような青さでした。」 彼女の言葉を借りると、「感性に染み入る青さ」だったという。

1973年、シーライトは夫と幼い子供2人を連れてアフガニスタンに渡る。 ある寒さ厳しい金曜の夕方、カブールの賑やかなメインバザールに繰り出したシーライトは、アブドゥル・マジッドという商人の店で、方解石が雲のように滲む三角形のラピスの塊を見つけた。そして交渉が始まる。 これがその後数十年も続いた商談の記念すべき第一回目となった。マリの砂漠の店から、オックスフォードの露店まで広い範囲で地元民とラピスの価格を交渉してきたシーライト。 彼女は今でも最初の戦利品をシルバーのチェーンにつけて身に付けている。

パキスタン国境の町ペシャワールのカイバル峠を越えると、ラピス商人は倉庫に積まれたトン単位の原石や、店頭に飾られた完成品の数々を見せてくれた。 「あそこにある大きな石はペシャワールで手に入れたものです。」彼女はハンマードブラスのテーブルの上の台座にどっしり置かれた玉虫色の球を見てうなずく。 その「大きな石」は手ほどもある大きさで、海のように青い表面一面に、ミルクのような方解石の筋と、きらびやかな黄鉄 鉱の斑が入っている。 まるで惑星のようだ。 持ち上げていいという。本能的に手に力がこもった。 4、5キロあったのではないか。

シーライトほどの情熱はなかった私だが、彼女の熱狂ぶりは、周りにも伝染するようだ。 私も宝石を求めて歩きまわった、結局ウィーンのリヒテンシュタイン博物館やロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館に足を運んだぐらいで、自分の情熱など彼女と比べるとかわいいものだとわかった。

フィリップ・ポーピン / LIGHTMEDIATION
エーサンという鉱夫が100キロのラピス原石を背負い、1時間ほど離れた村まで下ろす。
フィリップ・ポーピン / LIGHTMEDIATION
鉱夫たちは約7000年も前から、アフガニスタンで最も偏狭の地で、切り立つバダクシャンの岩に穴を彫り、鉱山からラピスを切り砕いてきた。

リヒテンシュタイン家の庭園付き宮殿にある博物館では、ルーベンスやレンブラント、ヴァン・ダイクの傑作に囲まれるように世界で最も高価な家具、「バドミントン・キャビネット」が置かれている。 「バドミントン・キャビネット」は2004年、ロンドンでのオークションで、1900万ポンド(27億3695万円)の値をつけた。フィレンツェのグラン・デュカル・ワークショップ(1558年設立)の「ピエトラ・ドューラ」職人が18世紀に作ったもので、ラピス、アメジスト・クォーツ、レッドジャスパー、グリーンジャスパー、その他の半貴石を使い、最も精巧な細工が施されている。 この信じられないほど綿密な製作過程では、わずか2、3ミリのベニヤ薄片をつなぎ合わせて柄や絵にする作業も行われる。非常に正確になされるため石と石の繋ぎ目が見えないほどだ。

キャビネットは高さ4メートル幅2.4メートルの大きさだ。 私は複雑な技量だけでなく、この作品がとにかく度を超えていることに恐れ入る。 いったいどんな人が、こんな代物を作らせたというのか。 キャビネットは1726年に注文された。依頼主は19歳のイギリス人貴族、ヘンリー・サマセット(ボーフォート公)。グロスタシャーのバドミントン・ハウスに住み、ヨーロッパ大陸巡遊旅行では7日間フィレンツェを出なかったという。

18世紀から19世紀初頭のヨーロッパでは、ラピスや他の宝石を使った砂糖菓子のような装飾品が大流行であった。 私は、イギリス人で不動産開発業者のサー・アーサー・ギルバートが1996年に寄贈したきらびやかな装身具と家具の宝庫であるギルバート・コレクションを見に、ヴィクトリア&アルバート博物館へ向かう。そこで、変わった嗅ぎタバコ入れとネックレスに出会った。ラピスの背景に貝とサンゴの柄が埋め込まれ、海を表現していた。 そばには、フィレンツェのグラン・デュカル・ワークショップの黒檀キャビネットが置かれていた。1700年から1705年のものである。 バドミントン・キャビネットの半分の大きさだが、ラピスがカルセドニー・パールの環の後ろに紐のようにあしらわれ、ピンクのメノウと青いラピスの花を散りばめるなど、バドミントン・キャビネットと同じくらい精密なデザインと細工が随所に施されている。

フィリップ・ポーピン / LIGHTMEDIATION
上から下へ: アフガニスタン政府と職人の国際組織は先ごろ、規制のない鉱山業界で働く労働者の条件を改善する取り組みに乗り出した。 マダンの村でラピスを選別・等級分けをするハミダラー。石を袋詰めし、トラックに載せ、さらに大きな卸売業者に届ける。卸売業者はペシャワールに多いが、中国にもある。

「ピエトラ・ドューラ」の作品はローマやベニス、ミラノをはじめイタリア各地でも作られたが、中でもフィレンツェは誰もが認める石細工の中心地であった。メディチ家が華麗な装飾を好んだおかげであり、ラピスラズリも人気の的だった。 シーライトが指摘するように、ラピスは華やかなステータスシンボルで、間違いなく富の証であった。

中でも最も有名で何よりも大げさなものが、メディチ家のピッティ宮殿に安置されている。 16世紀の壷で、大きなラピスの塊を削ったものだ。高さは40センチ。またデリケートな貝殻型のカップは、後にプラハとマドリードの両方でハプスブルグ家に仕えたミゼローニ家の渡り絵師の作品だ。 メディチ家は、フラ・フィリッポ・リッピやフラ・アンジェリコなど、ひいきの画家が作品に高価な顔料を使えるよう、十分なラピスを提供した。

だがそれだけの量のラピスが15世紀から18世紀にどうやってフィレンツェまで渡ったのか。 シーライトは、ほとんどがコンスタンティノープルやアレクサンドロスから船でベニスとリヴォルノの港に到着した後、 陸路で運ばれたと推測する。 彼女は、トルコの囚人がリヴォルノの波止場でラピスのブロックを砕いていたとの記録を引用した。80キロ東のフィレンツェまで運びやすくするためだ。 「ベニスなどでは、薬剤師が顔料としてラピスを提供したはずである」と彼女は説明する。 だが「イタリアそしてヨーロッパ全土へのラピス交易は全体的に研究の余地がある」と補足した。

ラピス顔料に最初につけられた名前は、最高の群青を表す ウルトラマリンで、その名は今日も使われている。「外国から」という意味のイタリア語「オルトラマリノ」が語源だ。 1508年、画家アルブレヒト・デューラーは、ウルトラマリンの法外な値段について、ニュルンベルグの自宅で怒りの手紙を綴った。ウルトラマリンは当時100フローリンでは半キロも買えなかった。 イギリスの芸術史学者ヴィクトリア・フィンレイが2004年に出版した『色: パレットの自然史』(Color: A Natural History of the Palette)によると、現在のアフガン産ラピスを原料とした顔料が、ルネッサンス期のテクニックで使用されれば、1キロあたり8000ドル(75万円)と、やはりとんでもない値段となるようだ。 ドイツの絵師はヨーロッパの芸術家と同様に、ラピス顔料を亜麻仁油や卵白と混ぜて撹拌した。フィンレイはこれを「エキゾチックな青いマヨネーズ」と呼んでいる。 だが1828年にフランス人化学者ジャン・バプティスト・ギメと同僚のドイツ人クリスチャン・グメリンが合成ウルトラマリンを発見すると、ラピスからできた顔料の需要がまったくと言っていいほどなくなる。

現在わざわざラピスを砕いて顔料にしようなどと思うのは、頑固な肖像画家か、フィンレイやシーライトなど、好奇心あるアマチュアだけだろう。 フィンレイもシーライトも、この作業を時間ばかりかかり、煩わしい作業だとしている。わずかな顔料を作るために大量の石が必要であるし、ひどく単調でつらい。

ラピス画が最も集中している世界最古の場所は、中国新疆省シルクロード交易の町クチャから80キロほどのところにあるキジル石窟だ。 3世紀以降、ムザト川を見下ろす崖の千仏洞に住む5000人以上の仏教僧が、ブッダの生涯をたどったジャータカ物語という寓話を鮮やかな壁画にした。 師であり修行僧でもある菩薩、踊り子、羽の生えた音楽家などが、見事なラピス色で描かれている。 約200の画は保存状態が良いが、他の多くは損傷が激しい。 (壁画25点以上が20世紀はじめ、ドイツ人の考古学者アルベルト・フォン・ルコックによって持ち去られた。これらは現在ベルリンのアジア美術館に所蔵されている。)

ジャーナリストであり学者でありラピス収集家のサラ・シーライトは、40年間ラピスの歴史、芸術、取引を調査してきた。調査の中で多くの国と宝石市場を訪れ、現代的な作品や新しい伝統工芸スタイルの作品を数々収集した。

シーライトは、偏狭の洞窟が集めた注目が、大きな変化をもたらしたことを回想する。 1990年に初めて訪れたとき、洞窟やクチャそばの市場にはラピスの宝飾品も原石も売られていなかった。 だが2、3年前に再び訪れたときは、ラピスの石と宝飾品であふれていた。 「ラピス貿易が新たに中国に及んだのでしょう。とくに香港に」と彼女は語る。

シーライトは、多くの中国人バイヤーが厳しく危険な道のり経てバダクシャンに向かっているという報告を知って驚いた。 そこから原石をトラックで中国かカラチ南部に陸路で運ぶのだという。ほかには船でインダス河を下ってカラチに運び、コンテナ船で世界の宝石の中心地、香港に運ばれるようだ。 ほとんどの石は深センや北の梧州にある安い工場でカットされる。モフルの説明では、これらの作業は、労働力と材料がさらに安い内陸に流れているという。 モフルは、モグビルなどイーダー・オーバーシュタインのディーラーと同様、高級品を扱っており、今のところは廉価なラピス製品が主流の中国との競争は心配していないという。

「実際のところ、良い展開だと思います。」モフルは語る。 「中国が価格を下げてくれたから、ラピスの需要が増えました。 ドイツだけで生産されていたなら、価格も上がりますし、需要は落ち込むでしょう」と指摘する。 「全体として、極東で生産されると、石の人気は高まります」

イーダー・オーバーシュタインも繁盛を続けるだろうとモフルが楽観するにもかかわらず、実際にはイーダー・オーバーシュタインも製造過程の一部をアジアに外注しなければならないようだ。 モフルは毎週、ラピスを含む数千もの宝石を、工賃がドイツと比べてはるかに安いスリランカに航空便で送り、研磨と面取りを外注している。 彼によると、イーダー・オーバーシュタインの大企業の大半が、主にスリランカ、タイ、中国にカットや面取りを外注しているらしい。 「食べていくためには仕方がないのです。」彼も認めた。

上: ピーター・サンダース
上: サラ・シーライト提供
上: アルシャド・カーン作の球体を持つサラ・シーライト。本記事の最初と印刷版の表紙に登場する。 ラピスに心を奪われたのは、10代はじめに出会ったロバート・ブラウニングの詩がきっかけだという。生涯「感性に染み入る青」に魅了された。 上: ハーリル・モグビルは、1980年代にソ連占領下のアフガニスタンを逃れ、ドイツのイーダー・オーバーシュタインに定住したアフガニスタン人宝石職人の一人。

供給サイドでは、私が話した誰もが、バダクシャン鉱山でラピスが枯渇するとは思っていないようだ。また、ラピス貿易が不当に政治的な干渉を受けると思っている人もいなかった。 「誰が政権に就こうとも、鉱山は収入源として維持するはずだ」とモフルは主張する。

だがフィンレイによると、バダクシャンの労働条件は昔から変わっていないという。フィンレイは、2001年にヒッチハイクで国連機に乗せてもらい、ボロボロのソ連軍のジープやロバに乗り、徒歩で鉱山にたどり着いた経験を持つ。 低賃金で雇われる鉱夫が土壁の家に住むサレサン村から険しい山道を登っていくと、23の鉱山が見えてくるという。フィンレイはそこで山腹に250メートルほど掘られた坑道を調査した。 鉱夫はダイナマイトで青い岩の鉱脈を爆破するのに、ヘルメットやマスクを着けている人はほとんどいなかったという。 事故や気管支炎のリスクと常に隣合わせだ。 最寄りの診療所はエスカゼルにあり、でこぼこ道を2時間半かけて運転して行かなければならない。フィンレイはそこで「笑顔の、まるで聖人のような男性」に出会った。フィンレイは著書でその男性を「ハーリド医師」と呼んでいる。ハーリド医師によると、毎年2、3人が亡くなり、爆破や落石、険しい山道での滑落で負傷した鉱夫が毎月5人ほど訪れるという。 また気管支炎は一ヶ月に50件にも上るという。 著書では、医師が「マスクを着けませんから」とフィンレイに語る。 「当然肺をやられますよ」

だがこの2年間、アフガニスタンの鉱山省は、鉱夫の安全を確保し、アフガニスタンの宝石産業を推進しようとイニシアチブを取ってきた。 こうした取り組みは、カブールに住むイギリス人開発コンサルタント、ソフィア・スワイアの援助を受けることとなる。スワイアは先ごろアフガニスタンの首都に宝石研磨学校を創設した。 ロンドンのデザイナー、ピッパ・スモールも、ターコイズ・マウンテン財団のジャヴィッド・ヌーリ(36歳)をはじめとするカブールの宝石職人と共に、ラピスのネックレスやペンダント、カフスボタンなどのアイテムの開発と売り込みを行なっている。 昨年3月、アフガニスタン人と結婚した亡命中のイラン人シーマ・ヴァザーリがスワイアのグループに加わり、「プレシャス・アフガニスタン」でアフガニスタンの宝石とラピスの生産をプロモートした。「プレシャス・アフガニスタン」は、アフガンエイドという非政府開発組織のためにロンドンで開かれたファッション、ダンス、展示による慈善イベントである。

アフガニスタンが誇るラピス(エメラルド、ルビー、トルマリン、アクアマリンなどの宝石も)を、より公正で収益性の高いビジネスにしようという取り組みがあるにもかかわらず、宝石業界には未だ密輸や汚職がはびこっている。 アフガニスタンは年間約5000万ドルの各種原石を輸出しているが、鉱山省の報告によるとこのうちかなり多くが密輸によるもので、税収はほとんどないという。 また不均衡にも、アフガニスタンの損失はパキスタンに利益をもたらす。 パキスタンで急成長する宝石業界には、少なくとも4万人が従事し、3億5千万ドルの輸出収益を上げている。一方アフガニスタンは、5000人がパートタイムの出稼ぎ労働をしているにすぎず、ジュエリー製造で生計を立てている人は500人に満たない。

アフガニスタンのワヒドゥラー・シャフラニ鉱山相が2011年にフィナンシャルタイムズ紙に語ったところによると、政府は密輸を促す税金や関税を取り払い、鉱夫に安全な火薬を提供したり、公的なリース契約を設けるなどの改革を計画している。 「労働者は、政府に所有権を認識してもらいたいと切望している」と説明する。 鉄、銅、リチウムなど未開発の鉱物資源の鉱床を開発しようと国が狙う中(3兆ドルという膨大な額が見込まれる)、ラピス業界は、問題の多い輸出ビジネスを一掃し、小さいながらも業界のモデルになることができる。

ターコイズ・マウンテンとピッパ・スモールのようにアフガン産ラピスを現代版シルクロード、つまりインターネットで販売することは、世界最高の産地で産業を盛り上げる勇敢な試みとなるかもしれない。 またシーライトが言うように、「感性に染み入る」色の石を追求してきた7000年の歴史に新たな1ページが加わることだろう。 天空の石の歴史に。


グラハム・チャンドラー

パリに拠点を置くリチャード・コヴィントンrichardpeacecovington@gmail.com)は、本誌に定期的に寄稿するほか、『スミソニアン』、『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』、『USニューズ&ワールドレポート』、『サンデー・タイムズ』にも文化、歴史、科学をテーマに執筆している。

グラハム・チャンドラー

ピーター・サンダースphotos@petersanders.com)は、中東、イスラム圏を30年以上に渡りカメラに収めてきた。 ロンドン近郊在住。


 

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