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大英図書館/ブリッジマン・イメージス(詳細) |
1400年代以降のインド・マンドゥを記録した図説料理年代記『歓喜の書(Book of Delights)』は、スルタン・ギヤースッディーン(Sultan Ghiyath al-Din)が宮廷料理人に作らせた料理を受け取っている場面を描いた作品を載せている。 その後、ムガール帝国はペルシャ料理、チュルク料理、インド料理からヒントを得て独自の料理を作り上げた。 |
バグダッドは「世界の交差点である」と豪語したのは、762年にイスラム帝国の新都を造営したアッバース朝初代カリフだ。 このとき、アッバース朝は、 東は中国の国境まで5000キロ、西は大西洋の入り口ジブラルタル海峡岸壁までさらに5000キロを支配下に置いていた。 その後続く数百年間、バグダッドでは1つの高級料理だけが作られた。それが、征服者、承認、巡礼者、修道会、料理人により、絡み合ったシルクロードの陸路、インド洋や地中海の海路を伝って、北半球全体に広まった。 料理が定着した場所では、どこでも、農業や調理法が発展し、繫栄した都市の上級階級が舌鼓を打った。 初期のイスラム高級料理の進化は留まることなく、同質なものに留まることなく、常に、他国の料理の伝統から吸収し、これらにも影響を与え続け、宗教的信仰と政治哲学、栄養理論が統合した料理哲学と一致している。 過去1000年に渡る料理のグローバル化の4つの変節は、世界の中心からどのように波及し、他の地域の住民、遊牧民、異なる宗教を信仰する人々の料理から吸収し、また影響を与えたかを示しており、今日、その余波は世界の至る所まで浸透している。
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写真:左: トッド・コールマン(TODD COLEMAN)、右: イグナシオ・ウルキーザ(IGNACIO URQUIZA) |
イスラム料理が世界中に広まるきっかけを作った1つの料理は、サリッド(tharid)と呼ばれる, パンをスープに浸した料理(左:写真はジャガイモを入れた現代版)である。 従来、預言者ムハンマドに愛された料理は、バグダッドとスペインのアンダルシア地方を中心とするイスラム勢力統治地域(アル=アンダルス)の高級料理となった伝統がある。キリスト教信者はスープをシロップに変え、カピロターダ(capirotada)という名前で新世界に紹介した。この料理は、現在でもメキシコで人気である( 右)。 |
1000 年頃: アッバース朝の高級料理
イスラム圏で初めての高級料理、すなわちカリフたちが食した高級料理は1000年頃まにで確立された。 ナツメヤシや牛乳、大麦から作られるシンプルな料理を洗練するため、バグダッドの宮廷料理人はペルシャや古代メソポタミアの宮廷料理から受け継いだ伝統も積極的に取り入れた。 医師は当時最も先進的な栄養理論、ローマ帝国のガレン理論、インドのカラカおよびススルタ理論を活用した。 健康的な食事は、おいしい食事と同義であった。 庭師がその与えられた区域を整備するように領土を管理する支配者にとって、高級料理は正しく適切なものであった。 他の世俗的快楽として知られる飲酒、衣服、セックス、芳香、音同様、食事も天国の片鱗と考えられていた。 しかし、食事は他の快楽に先んじて最大の喜びである。そう語ったのは、現在『バグダッド(Baghdad )』とう名前で知られるレシピ集大成を13世紀後半に編纂した著者である。その理由として、同氏は、「食事なしでは、他のいずれの快楽も楽しむことはできない」とした。
高級料理は、1000年まで、ダマスカス、アレッポ、カイロ、シチリア島のパレルモ、スペインのコルドバ、セビリア、グラナダと、すべてイスラム圏内で人々の舌を悦ばせてきた。 10世紀の終わりに、アラビア語で書かれ、現存する最古の料理本『 キタブ・アル=タビク(Kitab al-Tabikh)(料理の本:Book of Dishes) 』が、バグダッドのカリフとその廷臣の料理を記録するものとして、イブン・サイヤン・アル=ワラク(Ibn Sayyan al-Warraq)により編纂された。 その後も5冊の料理本が13世紀に編纂されたことを始めとし、当時、バグダッドでは世界のどこの国よりも多くの料理本が発表された。
都市部では、水車が小麦を挽いて小麦粉を作っていた。 精糖所はサトウキビから搾り出した汁を蒸発させ、インドから持ち込んだ工場が級の異なる砂糖を生産していた。 新しい蒸留法により、バラの花びらとオレンジの花のエッセンスの抽出が可能となった。 オリーブの実からオイルが搾出され、同様の方法でセサミオイルやポピーシードオイルも生産された。 鶏卵生産、ソーセージ、保存肉の加工法、バター (サムン:samn)、チーズ、パン、菓子。これらすべては熟練した職人の手により生産された。
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左上:トプカピ宮殿博物館/ブリッジマン・イメージス;大英図書館/ブリッジマン・イメージス(3)(詳細) |
左上から時計回り、上から 15世紀の遊牧民のモンゴル野営地の様子を描いた詳細なイラストは、調理する男性の様子を描いている。モンゴルの支配者はイスラム料理を多く取り入れ、健康に良く、美味な料理を作り、支配する領土で「料理外交」なるものを展開した。 スルタン・ギヤースッディーンの『歓喜の書(Sultan Ghiyath al-Din's Book of Delights)』には、肉を刻む男性やさまざまな料理器具を使う女性、皿に料理を盛る女性等、3枚の詳細な料理風景が描かれている。 |
幾何学的にレイアウトされた灌漑方式により管理された庭園では、ミント、コリアンダー、パセリ、バジル、タラゴン等のハーブや、ナツメヤシ等の果物、ザクロ、ブドウや数種の柑橘類、ピスタチオやアーモンド等のナッツ類、ニンジン、ホウレン草、カブとナス等の野菜が栽培された。 郊外では、農家が小麦やサトウキビを生産した。 繁栄がもたらされていなかった土地では、気候条件が合えば、ナツメヤシやザクロ、米、砂糖が栽培され、同時に、灌漑システムや食品加工技術も導入された。
外国製品は陸路そして海路から流入してきた。 北部の森林諸国で採れる蜂蜜はバイキングによってもたらされ、代わりに彼らはスパイスを自国へ持ち帰った。 シナモン、コロハ種子、ウコン、アサフェティダ、胡椒を始めとするスパイスはインドや東南アジアからやってきた。 商人はアフリカ東海岸をマダガスカルまで航海してそれ以前では到達することのできなかった土地へと販路を延ばした。そのままペンバ島やザンジバル島に定住を決めた商人もいた。
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オーストリア国立図書館/アルナリ/ブリッジマン・イメージス |
上等なやや浮世離れした「東洋風」衣装に身を包む男性(左側)を描いた14世紀のイタリアのサトウキビ畑の様子を描いたこの作品は、1600年代まで、欧州全土で砂糖がイスラム圏の高級商品とみなされていたことを物語っている。 |
イスラム料理の主食は地面の上に置くか、地面に埋めたタヌールと呼ばれ、または「タンドーリ」として現在よく知られている陶器釜で焼いた小麦パンであった。 従来、 サリッド(tharid)(スープに浸すか、肉を挟んだパン)を預言者は好んで食した。 水と混ぜ合わせた乾燥または生パスタ、肉を詰めたパン生地、水と混ぜ合わせたまろやかな嗜好飲料等、小麦粉はさまざまな方法で使用された。また、北アフリカやアル=アンダルシアを中心とした地域では、小さな玉状に丸めて食べられた。これは現在、クスクスとして知られている料理だ。
仔羊肉、羊肉、ヤギ肉、狩猟で取った獲物肉、鶏肉、またはアル=アンダルスではウサギ肉をローストに濃厚なソースを添えたり、これらの肉で作ったシチューを作ったりした。 酸っぱいものや甘酸っぱい味付けが主流であった。 これらの料理はスパイスやハーブ、エッセンス等で香りを付け、ムリー(murri:醗酵させた大麦から作られた調味料)で味を付け、ウコンやサフラン、ザクロの種、ホウレン草で色を付けるか、大粒の砂糖を上から散らした。 あらゆる料理本に登場するシカバッジ(sikbaj)は、酢漬け肉(その後、魚も使われるようになった)である。ハリサ(harisa: モロッコの混合調味料ではない)は穀物と肉のピューレである。また、アル=アンダルシアでは、さまざまな肉を混ぜて作ったミートボールやシチューが好んで食べられていた。 最高級料理とされたのは、ローストチキンとプリン状にタレを固めて載せた一品だ。
高級料理、低級料理、中級料理
甘い料理には蜂蜜が使われ、料理に新たな風味を追加した。 香りや色が不要な場合には、保存用果物の味を残し、フルーツシャーベットはバラ色、緑、またはオレンジを付けて見栄えを良くし、スイートスターチやピーナッツドリンクはまばゆいばかりの白さにするため砂糖が使用された。 すべての料理はバラの花びらやオレンジの花で香り付け可能となった。 菓子職人は、加熱時間を変え、その後冷ますことで、砂糖は色が明るく柔らかな状態となったり、透明で硬くなったり、茶色で香り高いカラメルになることを発見し、料理の可能性を無限に開いた。 アル=ワラク(Al-Warraq)の料理本には、パイ生地に詰められたマジパン(ランジナジ:lanzinaj)や、シロップを浸したパイ状フリッタや、繊細な白麺、ナッツやクロテットクリームを詰めたパンケーキ等、50種類の菓子のレシピが紹介されている。 ジャム、ゼリー、果汁の煮詰め (ルブ:rubb)、シロップ(ジュラブ:julab) は、冷たくした加糖希釈果汁(シャーベット:sherbet)や、後にスペイン語でオルチャタ(horchata)と呼ばれる水に溶かしたグラウンドスターチやナッツ(サウィク:sawiq)が登場するに至り、料理と医療の境界が交錯した。 広大な厨房で調理されたエレガントな料理は、灌漑システムにより管理された木々や花々、果物や野菜が植えられた庭園の木陰で、カリフとその廷臣に食された。
1300年: ユーラシアの奥深くへ
1258年、モンゴル人はバグダッドを制圧しアッバース朝は陥落し、イベリア半島では、キリスト教徒がイスラム勢力をアンダルシア地方南端に追いやった。 にも関わらず、イスラム料理の影響力は留まることを知らずに拡大を続けた。 1300年までに、イスラム料理はサマルカンド、ブハラ、マーブといった中央アジアの都市や、インドのデリーサルタン国で根付いた。また、中国のモンゴル帝国やキリスト教勢力下にある欧州まで影響を与えた。
中央インドでは、15世紀後半に書かれた図説の『歓喜の書(Book of Delights)』には、マンドゥのスルタンであったギヤースッディーン(Ghiyath al-Din)が女性の料理人と庭園にいる姿が描かれている。 肉詰めパイ (サモサ:samosa)や串刺し肉、柔らかいミートボール、さっぱりとしたシャーベットのレシピには、香水やアロマ、媚薬、医薬の作り方と同列で記載されている。
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ストックフード / cps |
1600年代に入る頃までには、オスマントルコ帝国時代の料理は、肉詰め饅頭やパイの伝統料理を生かしながら、仔羊や羊のグリルやより近年作られた極めて薄い生地で作られたフィロ(phyllo), を食する文化をもたらしてきた。 ここからおいしいボレク(borek), が創作された。ボレクにはさまざまな種類があり、現在もトルコで人気の一品である。 |
中国では、美しいイラストを掲載した図説料理本および食事療法マニュアルである『皇帝の飲食における正しく、基本的な事項(Proper and Essential Things for the Emperor’s Food and Drink)』が、1330年、皇室供給局(Bureau of Imperial Household Provisioning)の皇帝専属医であったフー・ツー=フイ(Hu Szu-hui)により編纂された。 この本の中で、モンゴルが高級料理を料理外交の手段として使い、広大な領土をいかに治めていたかについて説明している。 料理人は、アロマライスやヒヨコ豆で濃厚なスープにしたり、シナモンやコロハ種子、サフラン、ウコン、アサフェティダ、バラ油、胡椒を使い味付けをし、酢を最後に一振りして料理を仕上げる等、伝統的なモンゴルスープの中にイスラム要素を加えた。 さらに、現在、トルコでまだ食べられているような方法で、麺をクリーミーなヨーグルトソースで和えたり、中東でまだ食べられているボレク(borek)のような肉詰め饅頭を調理した。 また、フルーツポンチやジャム、ゼリー、ジュラブ、ルブ等、イスラム風菓子や飲み物を作った。
この料理を作るために、モンゴル帝国は(他の誰でもなく)イスラム教徒を宮廷が必要とするものすべてを調達する係に就けた。 イスラム教徒は小麦と油を挽き、精糖所を運営して甘い飲み物やシャーベットを作り、また、(ハン国領ペルシャでは)調理に携わり、米の新品種で実験した。 青と白が特徴の陶磁器が輸出され、旧世界では大流行した。
外交官や料理人はハン国の領土であった中国、中央アジア、ペルシャ、ロシア間を行き来し、各国の料理が互いに影響しあった。 しかし、1368年、中国の北伐や南西部では疫病が流行するに至り、モンゴルはモンゴル高原まで撤退した。 中国では、新たに興った明朝は料理のキャンディコーティング法や加糖法を採用したのみで、モンゴルの高級料理をほとんど引き継がなかった。一方、イスラム教徒は、特に中国南西部で質素なイスラム料理を調理し続けた。 一方、モンゴル帝国の周辺では、西はロシアから大陸をずっと東に進んだイランや中央アジアまで、肉詰め蒸し饅頭がモンゴル帝国時代のイスラム料理と中国料理の融合の印とされた。
西側では、欧州が繁栄し、都市は栄え、空高く聳え立つ壮大な大聖堂が建設されていった。 10世紀後半、アフリカ人でイスラム教から改宗したコンスタンティン(Constantine )がガレン理論のアラビア語版を翻訳したことにより、進んだイスラム料理をベースにした栄養理論がナポリ近郊の小さな町サレルノにある著名な医療大学を通して再びヨーロッパに戻ってきた。 バグダッドのイブン・ブツル(Ibn Butl)が11世紀のアラビアの医療論文をコミカルな詩に翻訳した『Regimen Sanitatis Salernitanum(レジメン・サニタティス・サレルニタヌム:サレルノ流養生法)』は、広く読まれた。 11世紀の十字軍は欧州に素晴らしいイスラム料理を一部紹介した。 ジェノヴァ、バルセロナ、ヴェニスの商人はイスラム教徒との交易で富を築き、さらに、イスラム料理を普及させた。 商人は北アフリカから調理用鍋を買い、南欧で売りさばいた。
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オーストリア国立図書館 / アルナリ / ブリッジマン・イメージス;ステープルトン・コレクション / ブリッジマン・イメージス |
左: 1600年代移行、オスマントルコ帝国の料理と新世界の野菜がバルカン半島やハンガリーを通って欧州に流入し、一般庶民へと広がった。 右: イスタンブールでは、オスマントルコ帝国の高級料理の中心は1500人ものプロの調理人を雇用していたトプカプ宮殿の複雑な厨房だった。 |
貴族たちは香り高く色付けされたスパイシーな料理に魅了された。 スパイスがどこから来るのか良く分かっていなかった彼らは、スパイスこそ楽園の片鱗であると信じて疑わなかった。 キリスト教徒は豚肉料理と、長い断食期間のためのベジタリアン料理で調理法を確立していたが、イスラム教の高級料理を多く取り入れた。 スペインでは、肉とスープの料理であるサリッド(tharid)がカピロターダ(capirotada)となり、シチリア島では、ドライパスタが調理され、ジェノバからバルセロナをつなぐ販路で売買されていた。また、クスクスはシチリア島でもスペインでも定番料理として今日でもどこでも食べられている。 他種の肉、穀物、豆を混ぜた煮物は、スペインのolla podrida(オリャ・ポドリーダ) (「腐った鍋」の意味)となった。 シカバッジ(sikbaj)は、1つは揚げ魚で、通常、酢をかけて食べる料理と、もう1つは酢やオレンジで酸性マリネに漬けた茹で魚(鶏肉や兎肉、豚肉を使う場合もある) (エスカベシュ および セビチェ)と、2通りの進化を遂げた。 揚げた生地を蜂蜜に浸したり、砂糖をまぶしたりして食べる料理は、キリスト教徒が祭日、特に四旬節の断食の前に食べるbuñuelo(ブニュエロ)や ベニエ(beignet)やドーナッツの仲間である。 マジパンは広く浸透し、トレドやリューベックを始めとする複数の都市でよく食べられている。
1600年: 中心地と新世界の転換
1600年頃までに、料理を取り巻く環境は再び様変わりした。 中東やインドでは、遊牧民であったチュルク語族がアナトリア、ペルシャ、インドの料理をそれぞれベースにして、オスマントルコ帝国、サファビー朝、ムガール帝国の料理を作った。 サハラの南の国境にあるティンブクトゥ、ガオ、ジェンネといったアフリカ・サヘル地域の大都市がそうであるように、東南アジアの大部分は現在イスラム圏である。 スペイン人やポルトガル人は大西洋および太平洋を航海し、米州に帝国を、インド海に交易拠点をそれぞれ築き、イスラム料理の要素をふんだん取り入れて作った彼らの料理を地域にもたらした。
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大英図書館/ブリッジマン・イメージス(詳細) |
この『歓喜の書(Book of Delights)』で、スルタンに捧げられた甘く、冷えた飲用シャーベット(左)は、遠い山岳地方から取り寄せた氷で作られていた。 |
1453年、オスマントルコ帝国のスルタン・メフメト2世はビザンツ帝国からコンスタンティノーブルを攻略した。 次の世紀が始まるまでに、オスマントルコ帝国ではどの欧州の都市よりも多い、万の人口を抱え、その領土は、北アフリカ、エジプト、シリア、メソポタミア、ギリシャ、バルカン半島にまたがっていた。 トプカプ宮殿の厨房では、パン焼き職人、デザート担当職人、ハルヴァ担当職人、ピクルス担当職人、ヨーグルト担当職人を含む1500人もの調理人が忙しく働いていた。
チュルク語族が残した遺産は、入り組んだパン、スープ、仔羊肉や羊肉の串焼きやグリル、肉のヨーグルト和え、肉詰め野菜、ヨーグルトドリンクを食する文化をもたらした。 伝統料理としては、肉詰め饅頭やパイ、挽肉のスパイス和え、砂糖菓子多種、シャーベットがある。 しょっぱさや酸っぱさは、ここで甘い味と分けられ、風味の高い料理では、果物や砂糖、酢の使用量が少なくなった。また、スパイスの量も減り、ムリー(murri)は使われなくなった。 モンゴル時代で既にそうなっていたと推定されるが、ピラフはアジアの蒸し米のような主食ではなく、それ自体が独立した一品となった。 米を洗い、水に漬け、多くの場合ソテーした後、水を入れて炊き、水分を飛ばすか蒸すことにより、穀物は混ぜられずにそのまま置かれた。 肉やナッツ、ドライフルーツ、野菜、着色料は、通常、蒸し始める前に投入され、蒸した水は油分を含んだ濃厚なスープとなった。 さらに、フィロ(phyllo)と呼ばれる紙のように薄い、幾重にも層が重なるパイや、それに似た香ばしく甘い菓子であるボレク(borek)、バクラバ(baklava)、クナファ(kunafa)、さらに、シロップに浸したセモリナ(粗挽き小麦)で作ったスポンジケーキも新しく登場した。 キリンや象等エキゾチックな動物や、城や噴水等の建造物に造形された豪華で大きく、カラフルなシュガーキャンディは、運搬人や、公共の場面では車輪付きカートに載せられ、スルタンの所有する莫大な富の目に見えるシンボルとして運ばれてきた。
16世紀、コーヒーハウスは知識層がチェスに興じ、政治について話し合う場となった。扇動の中心となることを恐れた政治当局がコーヒーハウスで政治について議論するのを禁止したが、このような抑圧は成功しなかった。 コーヒーは、東はエジプト、シリア、イラク、西はリビアやアルジェリアと、 オスマン帝国のアラビア語圏で親しまれる飲み物となった。
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上: アグアス・フレスカス(Aguas frescas)は、今日、ラテンアメリカの直系子孫の間で人気がある。 下: イスラムのナッツや穀物を入れた飲み物は甘いオルチャタ(horchata)として、スペインやナイジェリアで広く親しまれている。また、メキシコでは米を入れたものが飲まれている。 |
イスラム要素と新世界の植物は、バルカン半島やハンガリー経由で欧州に流入した。 米のピラフ、ピタパン(ランゴス:lángos))、フィロ(ストゥルデル:strudel)、蜂蜜入り飲み物、肉詰め野菜。これらはすべて中央アジアで広く食されてきた。 オスマントルコ領ハンガリーは、コーヒーショップをすぐに取り入れた。 ブルガリアの農夫は欧州の郊外の町でインゲン、タマネギ、チリ、キュウリ、キャベツ等の新しい野菜を育て、都市部で販売した。
東では、1523年、チュルク語族の末裔である幸運な兵士バーブル(Babur)が中央アジアから部下を引き連れ、北インドの平原を征服するため、目的地目指して歩を進めていた。 絶頂期には、ムガール王朝は世界の人口の約1/7を支配下に置いていた。 16世紀、アクバル皇帝の顧問で、宮廷の厨房で給仕も務めていたアブ・アル=ファズル(Abu al-Fazl)は、宮廷で出される高級料理がアイン・イ・アクバリ(Ain-i-Akbari:アクバル体制)で過ちがあってはならない絶対的管理事項の1つであったと記している。 平たくふわふわしたパンであるナンが主食であり、手の込んだピラフにはナッツやザクロの種子が飾られ、肉はミートボールまたは丹念にスパイスで味付けし煮込んだものを串焼きにして給仕された。これらの肉料理には仔羊肉のコーマ(korma)があったが、これは、現在総称して、英国発祥の呼び名である「カレー」として親しまれている。 加糖乳で煮込んだ細麺や、ローズウォーターを振りかけた揚げ生地等、典型的なイスラム菓子も作られた。後者は、現在、グラブジャムン(gulab jamun)として知られている。 遠くの山から採取し、自家製冷凍庫で保存した氷で冷たいシャーベットや、時にはスラッシュを作ったりした。 その他のインドの宮廷もムガール料理を採用し、その一部は、後に英国料理に浸透していった。
西側では、スペインで、ルペルト・デ・ノラ(Ruperto de Nola)が15世紀後半に書いた『リブレ・デル・コチ(Libre del coch)』等の料理本の中で、細麺(今日のフィデオ(fideos))、ビターオレンジ、揚げ魚、エスカベシュ、アーモンドソースとアーモンド菓子等、イスラム料理に起源を持つレシピや食材が紹介されている。 フィリペ3世を始めとする数名のスペイン国王に仕えたマスターシェフであるフランシスコ・マルティネス・モンチーニョ(Francisco Martínez Montiño)が1611年に書いた『アルテ・デ・コシーナ、パステレリーア、ビズコシェリーア・イ・コンセルベリーア(Arte de Cocina, Pastelería, Bizcochería y Conservería:調理の芸術、ケーキ作り、ビスケット作り、保存食)』では、 複数のミートボール(アルボンディガス(albóndigas))やカピロターダ(capirotada)のレシピや、クスクスの作り方まで紹介している。
記録には「Pseudo-Messue」として知られる医師により12世紀に欧州に入ってきたイスラムの砂糖料理法は、16世紀半頃、ピエモンテのアレクシスが書いた『{1}デ・セクレチ(De Secreti){2}』や、フランスの医師であり占星術師であったノストラダムスが書いた『{3}トライテ・ドゥ・ファーデモン・エ・コンフィテュー(化粧品とジャム論){4}』等の貢献によりさらに発展した。 「シャーベット」、「キャンディ」、「シロップ」(最後の文字は、「シャーベット」とも翻訳される)。これらすべてはアラビア語に語源がある。 糖菓(糖衣スパイス)と舐剤(スパイスや薬のペースト)は、現代のキャンディの遠い前身である。 修道女はイスラム風菓子を作り、熱心な客に販売していた。 イスラムの果物ペーストがポルトガルのマルメロペーストとなり、後に、マーマレード等の柑橘類ジャムに進化した。
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トーマス・アロム(Thomas Allom) / ステープルトン・コレクション / ブリッジマン・イメージス:画像画像 / アラミー |
英国の画家トーマス・アロム(Thomas Allom)は1838年にこのイスタンブールのコーヒーハウスの風景( 左)を描いたが、この頃までにウィーンを始めとする欧州全土でコーヒーは人気を博していた。今日、ウィーンはコーヒー中心地として(右)ある種のエレガンスを想起させる。 |
米州では、スペイン総督の宮廷で、マルチネス・モンチーニョ(Martínez Montiño)の料理本が大人気であった。 彼のクスクスレシピと、タマレのような蒸し挽きトウモロコシをぽろぽろの状態にしてクスクスの代わりとするレシピは、いずれも、遅くとも19世紀までにメキシコで作成されていた。 細麺製造機は当時はメキシコの未開拓の地であり、現在はメキシコ中央部にあるユリリアのアウグスティン要塞修道院に持ち込まれた。 ピラフや麺を調理したピラフスタイルは、ドライスープ(すべての水分を蒸発させたスープ)として知られている。 スパイシーなシチューやアルボンディガス(albóndigas )は依然人気の高い料理である。一方、カピロターダ(capirotada )からは肉がなくなり、甘い菓子となった。 グアバやチェリモヤ、マミーサポーテといった地元で取れる果物が果物ペーストやシャーベットに代わった。 主婦は、米や、その他現地で採れる素材を使って、現在オルチャタとして知られる穀物やナッツを使ったスージングドリンクを再現した。
メキシコからインドのポルトガル領ゴアに至る修道女は製菓技術をフィリピンや南アジア、東南アジアに導入した。 イエズス会の宣教師が日本に上陸した際には、南欧州(つまり、イスラム圏)のおいしい菓子をふんだんに使いを改宗を促し、また、改宗した際の証とした。 17世紀初頭の日本について記したポルトガル人の料理本には、最終的に天ぷらとして進化する揚げ魚や、ポルトガル語のcomfeito(コンフェント)に語源を持つ金平糖 のレシピが登場する。
欧州では、ポルトガルの「主席参事官」や英国のエリザベス女王1世の宮廷で「繊細な料理」を作ることに熱心であった女官等、南部の料理人が手の込んだ菓子調理法を北部に紹介した。 マジパンハム、シュガーペーストベーコン、卵黄・卵白のゼリー等、見た目を良くするために使用されることもある高価な砂糖を使った料理は、貴族の邸宅で開催される特別な「イベント会場」を飾るファッショナブルなものとなった。
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チェスター・ビーティ・ライブラリ(chester beatty library) / ブリッジマン・イメージス;ジェレイント・ルイス( geraint lewis) / アラミー |
もう1つのオスマントルコ帝国のコーヒーハウスでの喧騒を描いた作品(左)。今日のグローバルに展開するコーヒーフランチャイズでの風景(右)。ここでは、飲み物を提供しているだけではなく、元来あった、都市部の教養層との文化的イメージも提供している。 |
それ以外にも、独自の発展を遂げたイスラム要素がある。 酢漬けして日持ちするようにした揚げ魚が登場するのは、英国と米国で人気のハンナ・グラッセ(Hannah Glasse)著の1796年版『調理の芸術(Art of Cookery)』である。 酢漬けした冷たい魚の周りにゼラチンで固めたタレを散らす料理は、欧州に「アスピック」という名前でもたらされ、現在でも、高級フランス料理で冷菜に味を付けるゼラチンの意味で使用されている。 また、英国では中世より薬効があるシロップとして使用してきたジュレが、南米で「ミントジュレ」として食されている。
より近代的な要素も見て取れる。 18世紀、多くの場合、トルコ風衣装でめかしこんだコーヒー商人が商品を販売した。コーヒーハウスは商業および政治の重要な中心地となった。 中東への旅行者は「ターキッシュ・デライト」と呼ばれる新しいでんぷん菓子を買い込んで帰国した。
2000年: グローバル化する世界におけるイスラム料理
19世紀および20世紀には、イギリス、フランス、ロシア帝国が勢力を伸ばした一方で、オスマン帝国やムガール帝国は衰退した。その後、欧州の帝国は崩壊し、イスラム圏の政治的境界は幾度となく書き直された。 世界各国の上級階級が愛した高級フランス料理や、都市部の中流階級が食する中流アングロ料理(新しい家庭経済学の原則に大いに影響を受けている)のグローバル化は明らかだった。
新しい国々が生まれ、多くの世帯がガスや電気ストーブ、その後電化製品を使用するようになり、複雑な料理を調理するための時間と手間が省かれた。 世界でまだ多くの人々がパンにその摂取カロリーのほとんどを依存するような質素な料理を食べていた(また、現在でも食べている)一方で、中級料理が広く浸透した。 イスラム教徒は足並み揃えてラマダンやハッジと呼ばれるメッカへの巡礼を行った。 新聞、雑誌、ラジオ番組はラマダンやその他の重要な祭りのための料理を提案し始めた。 安価な航空輸送がメッカ巡礼を比較的簡単なものにした。 家庭経済学運動の波に乗り、かつては広い地域で親しまれていた料理をより狭義に「国民料理」と定義し、西洋料理を紹介し、科学的な精度で調理法を書いた新しい料理本が何冊も出版された。例えば、アイシャ・ファリエ(Ayşe Fahriye)が1882年に書いた『 イブ・カディーニ(Ev Kadini)(トルコの主婦)』や、ナジラ・ニコラ(Nazira Nikola)とバヒヤ・オットマン(Bahiya Othman)がエジプトで1940年代初頭に出版した『ウスル・アル・タヒ(Usul al-Tahi)(料理の原則)』等である。後者は、1988年に第18版が出版されている。
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写真:カルロス・モラ(CARLOS MORA) / アラミー;フォトメーション/アラミー;ヘイサム・ピクチャース/アラミー |
アッバース朝の酢漬け魚料理である シカバッジ(sikbaj) は中世スペインから近代にかけて発展し続け、ペルーの代表料理でラテンアメリカで人気のあるセビチェ(cebiche)(左上)や、英国の労働階級の代表料理であるフィッシュ・アンド・チップス(右上)等、幅広い進化を遂げた。 これらはいずれも、地域の好みや手に入る素材に合わせてアレンジされ、一般に親しまれて簡単に手に入る中級料理となった高級料理の例である。 下: 一方、アスピックはその高級料理という位置に君臨し続けている。 その名前は、おそらく、酢漬け魚の上に散らすゼリーを表すアラビア語から発展しており、今日、フランス料理の肉や魚を包む味付きゼラチンを意味している。 |
1980年代までに、関心の重点は、伝統料理の保全に移行した。 1980年、プロの料理人と主婦が集まって、『 カムス・アル・タブカ、アル・サヒーフ(Qamus al-Tabkh al-Sahih)』 という本を共著し、地域の伝統料理のレシピを紹介した。 その後、1990年代になると、ナジーハ・アジブ(Naziha Adib)やフィルダウス・アル=ムカタール(Firdaws al-Mukhtar)が『ダリル・アル=タブカ・ワル=アガディヤ(Dalil al-Tabkh wa’l-Aghdhiya )(イラク料理とバグダッド料理へのガイド)』を共著し、ズバイダ・マウシリ(Zubayda Mawsili)、サフィーヤ・アル=スレイマン(Safiyya al-Sulayman)、サミーヤ・アル=ハラカン(Samiyya al-Harakan)も外国料理が地域に流入していることを受け、サウジアラビアの伝統料理を保全する目的で、『ミン・ファン・アル=タブカ・アル=サーディ(Min Fann al-Tabkh al-Sa’di)』を出版した。 同様に、ハンバーガーショップが巷を席巻したかのように見えていたところにエレガントな菓子店を併設した伝統料理のレストランがオープンし始めた。
さらに遠く、ラテンアメリカ料理は、ライス料理、飲み物や菓子、メキシコ代表料理の1つとして認識されているmole poblano(モレポブラーノ)等味が複雑に絡み合ったスパイシーなシチューの中に、中世アル・アンダンスの料理の片鱗を見て取ることができる。 メキシカンライス、アルボンディガス、モレポブラーノ、インディアン・ピラフ、ミートボール、カレーは、どれも同じルーツにつながる明らかな共通点を持っている。
何世紀にも渡る影響は、世界の他の地域で継続されているが、多くの場合は、これらは認識されないものである。 19世紀後半、シカバッジ(sikbaj )の遠い子孫となる揚げ物がフィッシュ・アンド・チップスとして、英国の労働者階級の定番食となり、英国以外の地域では、英国の国民食として認識されるようになった。 20世紀には、セビチェの酢和えがペルーの代表料理となっている。 デンプンやナッツを入れてどろりとさせた飲み物は、スペインのオルチャテリア でスペイン人に未だに人気を博しており、ナイジェリアの家庭で作られたり、ラテンアメリカ全土で親しまれている。 現在では世界的なブランド・フランチャイズが経営することが多くなったコーヒーショップは、日本からブラジルに至るまで経済や政治について議論する格好の場であり続けており、世界各国で、知識階級が知識醸成の場としてコーヒーショップを想起する。
20世紀の変わり目やより直近では、移民が中世から続くイスラム伝統料理に近代的なイスラム料理を追加してきた。 回転する串に突き刺した肉にパンやヨーグルトを添えてを販売する屋台は、ヨーロッパではdöner kebab(ドネルケバブ) として人気があり、通常、中東にルーツがあると考えられている。一方、メキシコでは、ヨーグルトソースの付いていないものがtacos al pastor(シェパードタコス)として一般的に食されている。 串刺しケバブや肉詰め野菜は、いずれも、ターキッシュ・デライト、バクラバ、ナツメヤシ産業の発展と同じメッセージを発信している。 クスクスはフランスの主食となり、加糖ヨーグルトは欧州や米州で定番の朝食やおやつとなっている。
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写真:ケビン・バブリスキー(KEVIN BUBRISKI) / ソージア;ストックフード(SAWDIA; STOCKFOOD) / LIP |
風味豊かなイスラムの世界的影響は、モーレソースで有名な、メキシコ・プエブラの食卓(左) や、インド各地、そして世界中のレストランまで広がった。チキンカレーはペルシャとバグダッドにルーツを持つムガール帝国の料理にアイデアを得た、インドで最も人気のある料理の1つである。 |
欧州や米州では、レバノン料理、ペルー料理、地中海料理、または「インド」料理(インドは、より正確には、国ではなく、亜大陸として理解するべきである)を提供するレストランが、イスラムの伝統料理を出している。 中国では、イスラム教は全土に広がったが、特に、北西部を中心に発展し、他の都市へ流れた移住者たちが路上屋台で麺料理を出した。 多くの場合、移住者によってさまざまな言語で書かれた料理本は、中東、トルコ、ペルシャ、アラビア、北アフリカやムガールの各国料理の調理法、少なくとも著者がそうであると信じている方法を読者に伝えている。
1930年代、マキシム・ロディンソン(Maxime Rodinson)、ドウブ・チェレビ(Daub Chelebi)、A. J. アーベリー(A. J. Arberry)が、学術的な研究対象として中世イスラムの料理を初めて取り上げた。 その後、研究者たちはイスラム料理の起源と進化を辿り、アラビア語の料理本を再版し、英語やスペイン語に翻訳し、中世に端を発する料理を現代風にアレンジしたレシピを紹介した。 これらの研究者の献身と、長いイスラム料理の歴史を呼び覚ました市民の興味により、こうして、イスラム料理やそれが世界の料理に果たした役割に関する短いサマリーを書くことが可能になった。 世界に果たした役割の一例を挙げると、南米料理のミントジュレ、インド料理のグラブ・ジャムーン、インドムガール帝国料理のカレー、メキシコ料理のモーレ、フランス高級料理を美しく飾るアスピック、ペルー料理のセビチェタルト、英国で庶民に人気のフィッシュ・アンド・チップス。これらすべてが、1000年前の同じ料理から生まれている。
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レイチェル・ローダン (Rachel Laudan)(rachel@rachellaudan.com)は、テキサス大学オースティン校のラテンアメリカ研究ロザーノ・ロング研究所の客員教授で、『料理と帝国: 料理世界史(Cuisine and Empire:Cooking in World History カリフォルニア大学プレス、2013年)』の著者である。 |