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バガモヨ(タンザニア)の漁船で作業する男たち。バガモヨは600年にわたり、東アフリカからインド洋への主要な出発点だった。 |
文/アマンダ・リー・リヒテンシュタイン
写真/マリエラ・フューラー
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地元出身のジャカヤ・ムリショ・キクウェテ(Jakaya Mrisho Kikwete)大統領が進めている巨大港湾開発計画により、この町の貿易が再度活性化される可能性がある。
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ヤシの木が並ぶ曲がりくねった道をダルエスサラーム(Dar es Salaam)からバガモヨ(Bagamoyo)まで半分ほどの距離まで来ると、渋滞に出くわす。首都からの古い2車線の道路幅を倍にすべく、工事が続けられているのだ。バスと車が埃の舞い上がるつづら折りの道を進むと、やがて道幅が狭くなり、目に前に深い緑の谷が開け、両脇に迫り来る。バガモヨの街に入ると、小さな店やアートギャラリーが道の脇に並んでいる。カンズ(長い上着)とコフィア(イスラム教徒の男性がかぶる帽子)を身につけた老人が、くたびれた自転車に乗って通り過ぎる。日陰では派手な帽子をかぶった若者のグループがオートバイにまたがり、客を待っている。色鮮やかなスカーフを頭に巻きつけ、明るい色のドレスを着た女性や、スキニージーンズとTシャツの女性が連れ立って、あるいは1人で頭上に荷物を載せて道を歩く。バガモヨの不揃いな白砂の海岸には、波が押し寄せる。夜になれば、静けさがあたりを支配し、時折、犬の鳴き声が静寂を突き破る。
タンザニア連合共和国全土では総選挙のシーズンを迎えている。総選挙は1964年に始まった。今回は、ジャカヤ・ムリショ・キクウェテ大統領の2回目、そして最後の5年の任期が10月に終わろうとしている。郊外では野党チャデマ党の支持者が青、白、赤の旗を振りながら車のクラクションを鳴らす。首都ダルエスサラームの北70キロメートルの場所にあるこのキクウェテ大統領の出身地で自らの主張を繰り広げようとしているのだ。実際のところ、ほとんどのバガモヨの住人は地元出身のキクウェテ大統領を支持している。大統領も最後の任期中に愛する故郷に空前の可能性をもたらすべく、「巨大港湾」計画を立てた。これにより、ダルエスサラーム、タンガ、ムトワラにあるタンザニアの港だけでなく、ケニアのラムとモンバサの港と競合し、これをもしのぐような港ができあがる予定だ。
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バガモヨの数キロ南には東アフリカ最古のモスク、カオレの遺跡がある。西暦1250年にシーラーズ(現在のイラン)から到着した商人たちの手によって珊瑚石で建てられたものだ。彼らの貿易によってこの海岸が初めてアラビア半島、ペルシャ、インド、中国につながった。 |
現在は静かな町のように見えるが、バガモヨは大きな変化を経験したことがないわけではない。タンザニアのプワニ海岸地区内にある古びた街で、人口は推定3万人。完成したばかりのモダンな商業地区とともに、ドイツ、インド、アラブのデザイン要素を取り入れた歴史的建造物が並ぶ。かつてはソマリア中部のモガディシュからタンザニア南部のキルワまで1000キロメートル以上にわたって伸びる「スワヒリ海岸」商業ネットワークの一部で、沖合40キロメートルにあるザンジバル島を通してアフリカ内部と世界をつなぐ要でもあった。
4年前に開店したレストラン「ポアポア(Poa Poa)」を成功させた34歳の起業家フェリックス・ンヤカタレ(Felix Nyakatale)にとって、バガモヨは「大きく覚醒する直前のゴーストタウン」だ。タンザニア北西部、キリマンジャロのふもとで生まれ育ったンヤカタレは、パイオニア精神をもって海岸にやって来た。この地で増加する観光客のためにスムージーやピザのほか、地元の魚、味わい深いシチュー、ウガリ (トウモロコシの粉をこねた、熱い食べ物)を提供する機会を見出した。背が高く細身でハンサムなンヤカタレは、レストランを開店するという決意について静かに、しかし自信をもって語る。「ここのような場所は他にない。音楽や友達を求めて人がやって来る。」
修復された歴史的な2階建てのスワヒリ式家屋の1階にあるボアボアはビジネスの知識、リスク、社会的な変化を如実に示している(ンヤカタレは風通しのよい便利な上階に住んでいる)。「皆がここに来る。地元の住民や常連、外人、観光客もいる。ちょうどいい混ざり具合なんだ。いつも忙しいよ」と言う。彼にとって開発計画は希望をもたらすものだ。「バガモヨがこのまま成長を続けるなら、ポアポアは繁盛する。ご覧のように 新しい厨房も作った。」
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ザンジバルのオマーン人のスルタンによって建てられた古い税関はその後、ドイツによって使用された。ドイツは1884年、バガモヨを東アフリカの拠点に定めた。 |
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「明確な計画があるなら、どのような開発でも歓迎する」とバガモヨ観光協会のアブダラ・ウリムウェングは言う。 |
バガモヨはタンザニアで最も古い町のひとつだ。西暦1世紀にギリシャの無名の船乗りが書いた中国、インド、東アフリカ、アラビアでの海の旅に関するガイド『エリトリア海のペリプルス(Periplus of the Eritrean Sea)』よりも古い。はるか昔、西暦600~800年頃からバンツー語を話すザラム(Zaramu)、ジグア(Zigua)、ドウ(Doe)、クウェア(Kwere)族がここに住んでいたが、彼らは当時、探検者が「アザニア(Azania)」と呼んでいた内陸地の出身だった。釣り、猟、収集で生活していたが、1250年にペルシャのシーラーズ(現在のイラン)から数家族が到着したことによって、彼らの生活は一変した。豊かな土地と十分な釣りの機会に魅せられた「シーラーズ人」はバガモヨの数キロ南東に港を築いて移住した。ここは今でも「カオレ」として知られている。
現在、この遺跡ではハエが飛び交い、コオロギが暗いマングローブの中で鳴き声を立てている。カオレは歴史的に重要な時期を示しているとバガモヨ観光協会の幹事アブダラ・ウリムウェング(Abdallah Ulimwengu)は説明する。長らく放置されていたモスクの崩れかけた門の前をゆっくりと歩きながら、ウリムウェングはバガモヨの複雑で盛衰の激しい歴史に思いを馳せる。
東アフリカでイスラム教が最初に浸透したのは7世紀のエチオピアと公式には考えられているが、シーラーズ人はおそらく南部中域のこの海岸にやって来た最初のイスラム教徒だとウリムウェングは見ている。ここでごつごつした珊瑚石を使って地域最初のモスクを建て、雑なアラビア語の書体で碑文を刻んだ。中国の陶器、宝石、家庭用品を持ち込んだカオレの商人は、象牙、サイの角、動物の皮、亀の甲羅、ガラス製のビーズ、短剣、鉢、その他の品々を輸出した。主な輸出先は、300キロメートル南、モンスーン地域南端の地にあるスワヒリの都市国家キルワだった。モンスーンによって毎年のインド洋での海商が可能になった。キルワで見つかった鋳造銅銭にはシーラーズの統治者アリ・イブン・アルハッサン(Ali ibn Al-Hassan)の名前が刻まれており、この海岸線に沿った貿易の範囲を示唆している。カオレという名前自体、「アラブ人が何をしているのか見に行ってみよう(chite kalole mwaarabu vitandile)」というバンツー語の言い回しに由来しているとウリムウェングは笑う。
キルワは1500年代初頭まで貿易の中心地として栄えた。インドへの途上、ポルトガルの探検家バスコ・ダ・ガマは1498年初頭、スワヒリ海岸に到着した。その後、1505年にやって来たフランシスコ・デ・アルメイダはキルワの町を略奪した。やがてポルトガル人はいとも簡単にカオレを征服し、150年間の容赦ない支配が始まった。
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町の古い奴隷市場はバガモヨ・アート・マーケットとなり、タンザニアの絵画、彫像、演劇、ダンス、太鼓を教えているバガモヨ芸術文化大学を中心としたアーティストたちのコミュニティに支えられている。 |
1698年にはオマーンのスルタン、サイーフ・ビン・スルタン(Saif bin Sultan)がケニアのモンバサにあるジーザス砦で戦いを繰り広げて勝利し、この海岸を再度手中におさめた。その後すぐにオマーンが、ザンジバルの島々を含むスワヒリ海岸のほとんどを支配した。カオレの安全を確保するため、スルタンはスワヒリ海岸北部から来たペルシャ・ションビ(Persian Shomvi)の住人を使い、パキスタンからはバルチ(Baluchi)遊牧民の傭兵を雇い入れた。カオレは安定したが、これもそれほど長くは続かなかった。
ウリムウェングによると、「手に負えないマングローブの侵入」によってカオレは徐々に滅びていった。40代のウリムウェングは過去15年間、バガモヨの歴史を紐解いてきた。元はタンザニアのキゴマ出身で、南アフリカに長らく住んだ後、バガモヨに来た。この地ですぐに埋もれた歴史に惹きつけられたという。
「近くの町ドゥンデの成長が、カオレの中心的な港としての役割に影を落としたという人もいるが、私はマングローブだと思う」と近くの沼地を指す。「こういう岸には船をつけられない。」 その後、200年にわたり、オマーンのスルタンは王朝の趨勢に伴って権力を失い、カオレは使われなくなり、忘れ去られた。
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アートショップで売られている地元の絵画のテーマは旅だ。「荷をおろす」または心を「横たえる」という曖昧ながらも詩的な名前をもつバガモヨは、東はインド洋、西は内陸へと向かう出発点でもあり、旅は大きな意味を持っている。 |
1830年代初頭にサイード・ビン・スルタン(Said bin Sultan)は宮廷をオマーンのマスカットからザンジバルのストーンタウンに移した。スルタンが1856年に死去した後、息子のマジド・ビン・スルタン(Majid bin Sultan)が引き続きザンジバルを治めた。マジドはここで奴隷と象牙の取引を監視した。バガモヨはアフリカ内陸からの行き来の起点として活用された。19世紀中頃までに推定2万~5万人の奴隷(および捕虜が運んだ大量の象牙)が毎年、バガモヨを通過した。バガモヨの上流階級に仕える奴隷もいたが、大半はまずザンジバルに送られ、クローブや砂糖のプランテーションで働くか、召使にされた。また、中東やインド亜大陸など、さらに遠くに送られる者もいた。
この頃まで港はカオレから「ムジ・ムコングウェ(mji mkongwe)」(古い町を意味する)に移された。現在でも、海沿いに3つの地区を通る石畳の道にはさまざまな老朽化・修復状態にあるアラブ、ドイツ、インドの建物が並んでいる。ウリムウェングはこの通り沿いの崩れかけている建物をすべて把握している。道端では若い男たちがオートバイにまたがって喋りつつ、乗客を待っている。
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開店4年目のレストラン、ポアポアの前に座るフェリックス・ンヤカタレ。港湾関連の建設工事の見通しを歓迎している。「バガモヨは成長する町だという自信がある」と言う。 |
「バガモヨのほとんどの若者はこの歴史にまったく気づいていない」とウリムウェングは言う。道路を1本隔て、陽光の降り注ぐ埃っぽい道に立つ木造の建物を指し示す。かつては奴隷市場だったが、地元のアーティストが絵画や彫像、木像を集めた屋外ギャラリーに改装したものだ。あらゆる街角にまだ歴史が色濃く刻まれているが、このギャラリーは、より大きな世界の経済に加わろうとするバガモヨの若いアーティストの総合的な希望を表しているという。
1845年までには英国がインド洋を巡察するようになった。世界的な奴隷廃止運動により、インド洋の奴隷貿易は禁止され、ザンジバルでも正式に1873年に廃止された。数百人の元奴隷とその家族がここに移り住み、仕事を求め、可能な限り教育を受けようとした。フランスと英国のカトリック宣教師が1860年にはザンジバル、1868年にはバガモヨで学校を設立した。スルタンと地元のシャイフは布教活動を受け入れたが、戦略的な妥協と宗教的な寛容さが奏功した結果だったと見る歴史家もいる。
1884年にはドイツがタンザニア(当時はタンガニーカと呼ばれていた)本土を管理統治するにいたり、植民地の首都をバガモヨに定め、ここからザンジバルにおけるオマーンの権力を脅かした。ドイツの統治によって課税が始まったことから、抵抗勢力も出てきた。1889年にはバガモヨの海岸でブシリ・ビン・サレイム・アル・ハース(Bushiri bin Saleim al Harth)が反乱を起こしたが失敗に終わった(「ブシリの戦い」と呼ばれている)。
バガモヨはドイツ領東アフリカで最も重要な港および首都となったが、ドイツは1891年、行政機能はバガモヨに残しつつ、港を南のダルエスサラームに移すことに決めた。ダルエスサラームがより大きな船を受け入れることができたからだという見方もあるが、ウリムウェングはドイツはブシリに圧倒されたのだと考えている。ブシリはバガモヨの北にあるパンジニ地区の出身で、さらに南にあるダルエスサラームは政治的に安全な距離を保つに適していた。
ドイツの統治下、バガモヨの住人は海沿いに点在する村で引き続き農業、漁業、ダウ(帆船)の建造で生計を立てた。この地域は現在、バガモヨ圏域となっている。海を隔てたザンジバルではオマーンのスルタンが統治しており、2つの勢力はスルタンの支配地域をバガモヨ沿岸から16キロメートル内陸に入った地点まで拡張することに同意した。
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上:訪問者をフェンスで隔てる修復中のドイツ植民地支配時代の本部(1897年築)。 中央:町に残っている最古の建物「オールド・フォート(Old Fort)」。1860年に個人の住居として建てられた後、1870年にザンジバルのスルタン・バルガシュ・イブン・サイード(Sultan Barghash ibn Said)が奪って強化した。20年後、ドイツが軍営としてこれを使用し、その後は英国が警察署を置いた。現在では町の考古学部門が利用している。上:六角形の尖塔がそびえる19世紀中頃のゴンゴニ・モスクはこの地域最古のモスクで現在も使用されている。 |
第一次世界大戦でドイツが敗れた後、バガモヨは再度、英国の統治下に置かれることになった。街路の名前が変わり、新しい道路と鉄道が建設された。43年後の1961年、タンガニーカは英国からの独立を交渉し、1964年にザンジバルとともに双方の領土を認識できる 「タンザニア」として独立した。初代大統領ジュリウス・ニエレレ(Julius Nyerere)は「ムワリム(mwalimu)」(先生)と呼ばれて親しまれた。就任早々にバガモヨを訪れ、タンザニアの将来を形成する民族自決および社会主義運動「ウジャマー(Ujamaa)」を推し進めた。まもなく、バガモヨの町と古いカオレの間に訓練施設が建てられた。タンザニアの南に国境を接し、ポルトガルの支配を受けていたモザンビークの独立を求めるモザンビーク自由戦線(Frelimo)の兵士を訓練するための施設だ。
タンザニアの独立から51年が経過した現在、バガモヨの住民は再度、文字通り、また比喩的にも大きな変化になりうる事態に直面している。昨年、キクウェテ大統領は中国の習近平国家主席と協力し、総額8億ドルにのぼる16の開発イニシアチブを承認した。2013年3月に締結された30年間の枠組み合意に基づき、東アフリカ最大の港、国際空港、工業地帯が建設されれば、バガモヨの経済、海岸線、生態系までもが大きく変化することになる。
まだ起工されていないため、バガモヨの住民は「ザ・シチズン(The Citizen)」のニュースや噂以外には、これらの計画にそれほど気づいていない。しかし、地元の有力者は説明を受けており、コミュニティの組織担当者はミーティングを開いている。買収予定地の中には補償金の査定が行われたところもある。大統領府によると、建設工事は7月1日に開始される予定だ。
巨大港湾計画は懸念と興奮を巻き起こしている。ケニアに拠点を置く開発コンソーシアム「トレードマーク・イースト・アフリカ」は、「地域貿易がシフトして、タンザニアに有利になる」と予測している。それでもバガモヨの住民は、港が地元住民のニーズに影を落とすと憂慮している。中年のコミュニティ組織担当者アンソニー・ジョージ・ンヤンガ(Anthony George Nyanga)は仕事が終わった後、プラスチックの椅子でくつろぎ、冷たいオレンジのファンタを飲みながら言う。「若者だよ。彼らのためにもっと多くの仕事をもたらし、さらに機会を与える必要がある。教育制度にはひどい問題がある。成功するには、自分だけでなくコミュニティも背負っていかなくてはならない。」 しかし、ポアポア・レストランのフェリックス・ンヤカタレは肩をすくめる。「バガモヨは成長する町だという自信がある。僕が心配しているのは、どうやってお客さんにこのレストランに来てもらうかだ。」
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花飾りと唐草模様が彫り込まれた木製の扉はアラビア半島からインドまで広がる地域の他の扉によく似ており、インド洋貿易の洒落た証となっている。 |
これは難しいことではないかもしれない。最も壮大な計画によると、長さ5キロメートル、内陸に向かって1.5キロメートル伸びると予測されているバガモヨ港では、毎年2000万個のコンテナを取り扱うことになる。(参考までに、ダルエスサラームでは現在、年間50万~80万個を扱っており、タンガとムトワラの能力はさらに低い。) 「ザ・ガーディアン(The Guardian)」によると、この巨大な港ではタンザニアから「中国向けの貨物」だけでなく、ザンビアやジンバブエ、コンゴ民主共和国(drc)で採掘された需要の高い鉱物のほか、マラウィとブルンジからの輸出貿易も取り扱う予定だ。
予測される物品、サービス、人的資源の流れに伴い、バガモヨの住民はこの計画の範囲と規模を測りかねている。バガモヨの町はプワニ州にあるバガモヨ地域の16区の一部で、人口は35万人をわずかに上回る程度だ。バガモヨに20年住み、学校兼孤児院「バオバブ・ホーム」を営むアメリカ人、テリ・プレースは、それが大きな問題だと静かな声で憂う。最近のバイオ燃料プロジェクトで地元の農民と外国の投資家が土地を巡って争ったように地元での競争が懸念されているのだ。「このプライベートなパートナーシップで中国に多大な自治権が与えられるのではないか。中国人は おそらくパキスタンでやっているように海岸の一部を軍事基地として使用するかもしれない」と言う。(中国の役人はこの噂を断固として否定しているが、住民の間では疑いが晴れていない。) それに、皆、新しい巨大港湾施設が正確にどこにできるのか不思議に思っているとプレースは言う。
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バガモヨ考古学部門の保護主義者、ベネディクト・ジャガディ(Benedicto Jagadi)は、将来を知るには歴史を知っておかなくてはならないと強調する。 |
不確実な点はあるものの、最近発表されたバガモヨ特別経済圏マスタープランでは、巨大な港はムリンゴティニ(Mlingotini)からムベガニ(Mbegani)にいたるまで約5キロメートルの海岸線に広がり、その間にある少なくとも6つの漁村と農村が影響を受けることを示している。これらの村とパンデ(Pande)、コンデ(Konde)、ジンガ(Zinga)ではすでに調査が行われ、評価済みだ。人口2000人に満たないムリンゴティニに長らく住んでいる40歳の漁師、ラジャブ・ラジャブ(Rajab Rajab)は、擦り切れた木製のベンチに座り、つま先で砂をかき回しながら説明する。「自分たちの村がどのように変わっていくのか村人があれこれ考えない日はない。新しい港は、少なくともムリンゴティニの半分を占めるらしく、ムリンゴティニとムベガニの間にあるワソ湾との関係が変わってしまう」と言う。ここでは数百年にわたり、海岸の住民がドウ造船と漁業の技を磨いてきたのだ。
機会がもたらされることになるかもしれないともラジャブは言う。ラジャブは、バガモヨ地区議会の「貧困緩和・生物多様性保護のための持続可能エコツーリズム」に協力している。このプロジェクトでは、研究とダイビングにより「観光部門と協力して海洋生物を理解」し、雇用を増やそうとしている。砂の道で出会う人すべてと挨拶を交わしながら、ラジャブは自分が受け継いできた海、そして海に関連のある習慣や伝統との関係を誇りにしていると語る。大型船が寄港できるように港では浚渫が必要になるが、これによって海底の沈泥が混ぜ返され、珊瑚が窒息する可能性があることを彼は承知している。爆発物を使用した漁法などの悪しき習慣および一般的な汚染とともに、巨大港がもたらす変化により、人々と土地、海との関係が崩れ、取り返しがつかないことになるのではないかとラジャブは切実に考えている。「長老たちが何回か会い、コミュニティとしてこの件を話し合ってきたが、まだよくわからない」と言う。
ムリンゴティニの北、数キロメートルのところでは、政府の測量技師がすでにムベガニとパンデの村を査定している。38歳の漁師、ハッサン・アラウィ(Hassan Alawi)は日中の暑さをいとわず裸足で歩く。彼の質素な家と数本の果樹は2回査定されたと言う。1回目は2011年に経済処理地域局、2回目は去年の3月、巨大港湾プロジェクトを統括するタンザニア港湾局(tpa)が行った。アラウィと約700人が住む村は転居せざるをえず、十分な補償金が提供されるとtpaに告げられた。1ヘクタールにつき1000万シリング(約6000米ドル)のほか、家屋と果樹についてはさらに補償金が出るという。この変化により、貧困にあえいでいたコミュニティに仕事がもたらされるとアラウィは考えている。「村や家族全体で引っ越せばいい」と期待している。
タンザニアの漁業推進大学も移転を余儀なくされる予定だ。現在は、巨大港湾のほとんどが構想されている土地に建っている。1966年に創立された同大学は現在、あらゆる漁業関係の教育とトレーニングを行うタンザニア政府の公的機関である。大学は移転準備が整っており、正式な設計計画が待ち望まれると事業支援ディレクターのアブディラヒ・カモタ(Abdillahi Kamota)は言う。カモタは、この港が大学の学生400人に仕事を提供すると期待しており、最先端の集魚機器を備えた「メガフロート」の建設を楽しみにしている。地域市場と国際市場における地元の競争力が上がると見ており、「変化を恐れてはいない」と言う。移転しなくてはならないのであれば、「さらによい施設」になると自信を見せる。
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バガモヨの南、巨大港湾建設予定地の5キロの海岸線の端にあたるムリンゴティニ村で遊ぶ子供たち。地域の成長はすでに新しいアパートの建設というかたちで現れている(右下)。 |
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上:ムリンゴティニにある家。バガモヨ都市計画部の告示板によると、4つの村で最高321人の住民に移転費用(金額は未発表)がすでに支払われている。 |
実際に、バガモヨ都市計画部の告示板によると、4つの村で最高321人の住民に移転費用(金額は未発表)がすでに支払われている。歴史家のウリムウェングはバガモヨの新しい地区にある人気の高いレストラン「ディーズ」で山盛りになったご飯とミートシチューを前に、「明確な計画があるなら、どのような開発でも歓迎する」と言う。しかし、遺跡や歴史的建造物、多様な生態系の保護については懸念している。「仕事が必要なので、工場や港の計画は拒否できない」が、1979年遺跡法などの法律を徹底的に施行するべきだと言う。
ウリムウェングの同僚で天然資源観光省にあるバガモヨ考古学部門の保護主義者、ベネディクト・ジャガディ(Benedicto Jagadi)は、将来を知るには歴史を知っておかなくてはならないと強調する。オールド・フォート内の小さな事務所に座り、旧市街の主要道路を見下ろしながら、参考文献を引き出し、タンザニアの法律を説明する。具体的な規定を指し、1860年よりも前に建てられた建造物はすべて「歴史的」であり、1860年以降に建てられたものでも歴史的な価値があると法律では定義されているとジャガディは言う。ジャガディは、カオレ遺跡や旧市街のような保護地区は影響を受けないと自信を持っている。だが、その他の人々はそれほど確信してはいない。
コミュニティのリーダーで長老でもあるハティブ・バカリ(Hatibu Bakari)は1925年にバガモヨで生まれた。1939年生まれの友人、モハメド・イッサ・ミトソ(Mohammed Issa Mitoso)とともに古き良き時代を懐かしむ。ミトソは「ラミヤB(Rammiyya B)」と呼ばれる近所のラミヤ・イスラム教学校の近くに住んでいる。2人は正午、バカリの1階建ての典型的なスワヒリ式の家で薄暗い小さなリビングルームの色あせた赤いベルベットの椅子に座っている。屋外では妻がやかましく鳴く鶏を追い払いながら、プラスチックの容器に入った水を暑い陽光の中に撒き散らす。部屋の中ではバカリとミトソが、平和で敬意と信頼に満ちていた時代を懐かしんでいる。バカリは、誰もが「ドアを開けっ放しにして、子供たちがまだ親を恐れていた」と語る。ミトソも同意する。「『お願いします』なんて言う人はいなくなり、『今すぐよこせ』になった。」ミトソはバガモヨがまだスワヒリの文化的価値観と伝統に基づいていた頃がよかったと言う。「ウスタラブ(ustarabu)」(礼儀正しさ)、「ウカリム(ukarimu)」(もてなし)、「ウポレ(upole)」(親切)、「サムヘ(samehe)」(許し)、「スビラ(subira)」(忍耐)といった価値観だ。「変化には多大な忍耐が必要だ」とミトソは言う。「バガモヨで起きている変化は急すぎる。」
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アブ・ジュマ(Abu Juma)は自らも音楽家だが、バガモヨの音楽家と観光客の双方に太鼓を売っている。バオバブ・ホームで世話をしている子供たち10人とともに、テリ・プレースとカイト・ムワンデュは家族・子供向けの健康グループも運営している。 |
バガモヨの若い世代は異なる意見を持っている。変化を強く望む多くの若者は、自分たちの世代が直面している最も大きな課題は雇用だと主張する。18歳のシェイフィー(Shafee)は、値段の安い屋根付き三輪オートバイ「バジャジ」を運転して生計を立てている。最も暗い時間帯にも親しみやすい笑顔で乗客を迎え、なんとか生活していくため、常に働いている。1年以上、不規則に広がる街中を走り回ってきたシェイフィーは、バガモヨの穴だらけのでこぼこ道をすみずみまで知っている。「とても貧しい家だった」ため、学校に払えるお金はほとんどなく、仕事を見つける機会やコネはもっと少なかったと言う。「英語を教えて。練習して乗客ともっとうまく話せるようになりたい。」 まじめに勉強しているようで、後ポケットに英単語を書き留めたメモを入れている。巨大港湾計画についてはほとんど知らず、「人生を見つける」ことと、きちんとした収入を得て家族に誇りに思ってもらうことだけを考えているという。
タンザニアの他の若者たちは近年、港と鉄道の建設工事のほか、ビジネスと観光の急増で期待されるレストランやホテルで仕事を得ようとバガモヨに移り住んでいる。公式文書がデスクに積まれ、雑然としたオフィスでバガモヨ都市計画室のエマ・ミハヨ(Emma Mihayo)は、数百人の新しい住民が、ダルエスサラームやザンジバル、タンガから所持金をほとんど持たずにやって来て、バガモヨの広大な森や農地に無断で住み着いていると説明する。2人の同僚とともに、毎日、差し迫った移転に関する質問を受けているという。彼女曰く、最も熱心なのは貧困にあえぐ人たちだ。村人たちの正確な移転先は不明で、村全体として移転できるのか、または散り散りになるのか定かではないらしい。土地を入手できるかどうかによって左右されるためだ。
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バオバブ・ホームで世話をしている子供たち10人とともに、テリ・プレースとカイト・ムワンデュは家族・子供向けの健康グループも運営している。 |
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伝統的な漁業と、ココナツやキャッサバ、バナナを栽培する農業は、町の若者たちにとって、ますます魅力を失っている。ラジュブ・ブワイ(Rajubu Vwai)(上)は、ムリンゴティニで漁師兼農民として育ったが、最近、ツアーガイドの訓練を受けるべく登録した。バジャジの運転手、18歳のシェイフィー(上)はバガモヨのあらゆる道と路面の穴を把握している。「家はとても貧しい」と言い、きちんとした収入を得て家族に誇りに思ってもらうことが大事だと主張する。 |
若者は漁業と農業(ココナツ、キャッサバ、バナナの栽培)という村の伝統的な仕事に背を向け、ダルエスサラームやザンジバルで運転手や観光ホテル、リゾート、レストランでの仕事など、より将来の明るそうなオプションを選んでいる。
ムリンゴティニのラジャブはこれを心配している。「自分たちの文化となってきた昔からの土地と海とのつながりを若者が忘れている」からだ。過去と決別しながらも、将来が不確かなバガモヤの多くの若者たちは、差し迫った変化を待ちわびているが、選択できるオプションは限られているように見受けられる。
30代前半の活動家、音楽家、教育者でもあるビタリ・マエムベ(Vitali Maembe)は、若者が自分を表現し、アートを通して伝統とつながりを得られるようにジュア(「太陽」)アートビレッジを始めた。畑を見晴らす借家に若者たちが集まり、モダンな音楽と伝統的な音楽の双方を学び、演奏している。週2、3回の練習後には、チャイを飲み、ビスケットを食べながら、若者が現在直面している問題について語り合う。壁にテープで貼られた手書きのポスターには「民主主義」、「統一」といった言葉が並んでいる。会話の途中で彼らは不意にギターのリフやドラムの練習をする。
マエムベは汚職に対する率直な音楽キャンペーンでよく知られているフォークギタリストだが、今回の選挙戦では与党と野党の双方から協力を打診された。しかし、「独立したアーティストとして、自分の信じていることを心から歌いたい」として双方のアプローチを拒絶した。
彼が熱情を傾けているテーマのひとつが、女の子は学校に行けるように、男の子は犯罪に手を染めないようにすることだ。フェスティバルやワークショップ、1対1の会話を通して活動しており、バガモヨを商業・輸送の中心地としてだけでなく、アートと文化の中枢として蘇らせるために若者のエネルギーを活用できるかもしれないという可能性を示唆している。タンザニアで唯一の芸能大学、バガモヨ芸術文化大学があるため、バガモヨは伝統的な文化の基盤の上にも立つことができるとマエムベは期待している。
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生徒とともにギターを弾き歌うジュア(「太陽」)アートカレッジの創立者、ビタリ・マエムベ。同校ではアート、ダンス、音楽を子供や若者に教えている。尊敬される音楽家として、ユニバーサルながらもタンザニア独特の音で、バガモヨにおける遠方と地元、伝統と変化の歴史的な緊張を表現している。 |
日が沈む頃、マエムベの家のポーチでは若者が心をこめて歌う。くたびれた漁船が海に浮かび、錆び付いた錨を引き上げて、さまよい出すこともない。夜明けには、日に焼けて色あせ、オイルが染み付いたシャツを着て、ゆるいズボンの裾を巻き上げた漁師が海岸沿いをのんびり歩いている。擦り切れたプラスチックの米袋に入れた菓子を売る若者も通り過ぎる。
水平線の向こうに目をやると、この今は静かな町がやがてシーラーズ人やドイツ人、英国人の統治者でさえ想像もしていなかったような海洋貿易の基地に変貌するとは考え難い。バガモヨが再び訪れる歴史的な変化を前に身構える中、インド洋の規則正しい波が打ち寄せ、皆の心配をなだめてくれる。キクウェテ大統領の遺産となるプロジェクトが進行している現在、住民が新しい地政学的な基盤に慣れるかどうかは時間の問題だ。しかし、この歴史豊かな海岸で、あとどれくらいの人が荷をおろし、心を残していくのかはまだ誰も知らない。
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アマンダ・リー・リヒテンシュタイン (Amanda Leigh Lichtenstein) (@travelfarnow; www.travelfarnow.com)は詩人、著者、教育者である。アートと文化に関する彼女のエッセーは主に『Selamta, Contrary, Mambo(セラムタ、コントラリー、マンボ)』と『Addis Rumble(アジス・ランブル)』に掲載されている。現在はザンジバルに関する個人的なエッセーのコレクションを作成するかたわら、エチオピア南部で女の子向けの創造的作文プロジェクトを実施している。 |
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マリエラ・フューラー (Mariella Furrer) (mariellafurrer.com)は、ケニアと南アフリカの間を拠点とするフォトジャーナリスト。スイスとレバノンの血を引き、南アフリカで育った。新聞、雑誌、書籍、非営利団体、企業向けにアフリカ、ヨーロッパ、中東を取材している。今年はワールドプレスフォトの年次コンテストで審査員も務めた。 |