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巻 63, 号 62012年11月/12月

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ニューヨーク公立図書館
リトル・シリアは市内最大の卸売市場であるワシントン・マーケットから3区画南に位置する。1916年に『ハーパーズ』誌に掲載されたイラストでその様子がわかる。

アメリカ先住民の言葉で「たくさんの丘」を意味するニューヨークのマンハッタン島。初代アメリカ大統領の名前にちなんだワシントン通り南端部にはかつて、サカキニ、コウリ、ハワウィニといったアラブ名を持つ人々が住んでいた。 その大半が、現在レバノンやシリアとして知られる土地からやってきたキリスト教徒の移民であった。 彼らは1870年代に当時オスマン時代のシリア州から移住を始め、山々に囲まれた故郷を離れてマンハッタンのそれほど小高くない地域に移り住んだ。


移民は食料や衣服、そして行商などの伝統を持ち込んだ。 自由の女神の姿を拝むことのできるこの界隈は第二次世界大戦後までの75年間、アメリカに渡ったアラブ系移民の到達地点であり、リトル・シリアとして知られるようになった。

アメリカと同じく、ワシントン・ストリートも時代とともに変化した。 1940年代、ブルックリン・バッテリー・トンネルが南へ抜ける道を開き、減りつつあったアラブ人の居残り組を拡散させた。そして、リトル・シリアに残っていたアラブ系レストランの最後の2軒、ザ・ナイルとザ・シャイフも店を畳んだ。 マンハッタン南端部は、大型融資を行うオフィスが集うエレベーター付きのビル街となり、小規模な店や倉庫は閉鎖された。 安アパートも取り壊された。 かつて行商で生計を立てた地域にとって一番侮辱であったのは、駐車場が建設されたことであった。

テキサス大学、ランソム・センター(
アラブ・アメリカン国立博物館提供)
そして2001年9月11日、リトル・シリアの数ブロック北で、世界貿易センタービルが破壊された。

今日、アラブ系アメリカ人の歴史においてこの地域が果たした役割に、新たな注目が集まっている。 リトル・シニアの由来となった移民の子孫が、残された独自の建築が消えていくことに警鐘を鳴らした。 2002年、リトル・シリアについてニューヨーク市博物館で会議が開催され、その結果、『多くの世界が集まるコミュニティ: ニューヨーク市のアラブ系アメリカ人』(原題:A Community of Many Worlds: Arab Americans in New York City)が出版される。 ミシガン州ディアボーンにあるアラブ・アメリカン国立博物館も、独自にリトル・シリア展を計画している。 そして、まぎれもなく重要な歴史的再発見があった。1890年代にリトル・シリアで活動を始めた聖ヨゼフ・マロン教会の「隅の親石」が世界貿易センターの瓦礫の中で発見されたのだ。

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アメリカ議会図書館
上: リバティー・ストリートから南下してバッテリー・プレイスまで、ワシントン・ストリートにはアラブ系移民のために簡易宿泊施設が並んだ。移民は写真のレストランで母国の味を堪能した。

アラブ系移民がニューヨークを次々と目指した最初のきっかけは、1876年、アメリカ独立100周年を記念して、フィラデルフィア万博が開かれたことであった。 万博を訪れたアラブ代表らは、アメリカでの新たな機会を賞賛しながら帰国した。 1890年、移民管理局はナジブ・アービリを雇い、入国管理局が置かれたニューヨークのキャッスル・ガーデンとその後はエリス島からレバノン人の誘導を補助させた。 アブラハム・リバニは、1891年に上陸したときの回顧録『遠き旅』(原題:A Far Journey)で、こう記している。「私たちはバッテリー・プレイス(マンハッタン南端)に上陸し、桟橋でトランクを探した。そしてワシントン・ストリートの宿へ向かった。」

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アメリカ議会図書館
1900年代はじめのニューヨークでは、屋台で工場労働者の倍稼ぐことができた。

この間リトル・シリアの人口の出入りは激しかった。 あらゆる社会階級の移民の住居や事業が集まる場所であったリトル・シリアは、それほど裕福でない同胞の行商人に商品を卸す店が集まる町へと徐々に変化していった。行商人は遠く西部の鉱山集落に長距離移動する途中、窮屈な安宿で部屋を借りていった。 著名なレバノン系アメリカ人歴史家、フィリップ・ヒッティは最初の著作、『アメリカのシリア人』(原題:The Syrians in America、1924年)で「貿易は人を遠くへ向かわせる」と記している。

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カール・アントウン提供(3)
上から: 仕立屋、乾物売り、エンターテイナーまでもがリトル・シリアと周辺地域に居場所を見つけた。

1883年にブルックリン橋が完成し、1910年にイースト・リバーの地下トンネルが完成すると、より環境の良い郊外へのアクセスが高まった。家族を連れてマンハッタンを出ることができた人々はこの地を去り、後には行商人が残された。 1935年には、ブルックリンのアトランティック・アベニューが「新たなワシントン・ストリート」と呼ばれるようになる。

ワシントン・ストリートに住むアラブ人の正確な数はわからない。上陸当初「シリア人」として登録されたが、後の調査で「トルコ人」とされたケースがあったことが理由の一部である。 1890年には300世帯あったと推定される。1904年の新聞は、計1300人が住んでいたとしている。 1899年から1907年までの間にアメリカに入国を許可されたアラブ系移民の総数は41404人で、その後3年間ではさらに15000人が入国した。 だが後から上陸したアラブ人がリトル・シリアに住むことはほとんどなかった。

その一人がサローム・リズクだ。 1925年にアイン・アラブという静かなシリアの村からやってきたリズクは、街を見渡してすぐにアイオワ州スーシティー行きの最初の電車の切符を買った。 彼は「ニューヨークには圧倒された。信じられないほどの敏速さと大きさ、無数の人に無数の車、ビル、窓、ライト、騒音。大きなぼんやりとした何かが、目の中で泳ぎ、ぐるぐると回っている」と記す。

だが居残った者たちはリトル・シリアを有名にした。 1899年にリトル・シリアを訪れた『ニューヨーク・タイムズ』 の記者は、行商市場の売り物の数々や、1895年に建てられたイブラヒム・サハディの食料品店に驚嘆した。アラジンの洞窟にたとえて、天井から吊り下げられた剣やランプ、カラフルなガラスのブレスレット、水ギセルとその器具を賞嘆したが、「気だるい目つきも赤いトルコ帽もない」ことにがっかりしたという。

サハディ&Co.は60年前に甥が独立し、アラブ人の客を追って新しい店を立ち上げてから、今日もブルックリンのアトランティック・アベニューで順調に商売を営んでいる。 現オーナーのチャーリー・サハディは、大叔父イブラヒムが営んだ当時の食品店を覚えている。当時の店は1967年までワシントン・ストリートに残っていた。「レジのカウンターでは、古い常連客にナッツやドライフルーツを売っていた。自分でハルヴァやセサミバー、アプリコットペーストも作っていた。」

商売は親族で切り盛りするようになった。 1919年にレバノンからやってきたチャーリーの父親ワデは、イブラヒムのもとで遠方へのセールスを担当し、卸売注文を取り付けに電車に乗ってアメリカ中西部を訪れた。 レバノンの叔父たちは他では手に入らないスパイスや穀類を供給した。他にも真ちゅうのトレーやコーヒーポット、すり鉢、すりこぎなど、アラブの料理人が味を極めるのに必要だという数々の品物が揃っていた。

カール・アントウン提供
マスコミはリトル・シリアをニューヨークの「エキゾチック」な移民の世界として取り上げることが多かった。

アービリ一家はニューヨークで初めてとなるアラビア語の新聞『カウカブ・アムリカ』(Kawkab Amrika、アメリカの星)を創刊。続いて『アル・ホダ』(Al-Hoda、導き)を立ち上げ、どちらもワシントン・ストリートで印刷した。 マリアン・サハディ・チャッチャ(同姓だが食品店を営む家族とは無関係)は父親がジェイタ村、母親が西インド諸島経由でレバノンからやってきた。彼女は10代のときに購読者に『アル・ホダ』を配達したことを思い出して語る。 「放課後は毎日忙しかったです。ひとつ配達すると5セントもらえました。 新聞は読めませんでしたが、アラビア語は父親と話していました。 母親はうまく話せませんでしたので、二人だけの秘密の言葉のようでした。」

アラビア語を読めない人も、英語の『シリアン・ワールド』(Syrian World)で町のニュースを知ることができた。 1926年の初版は、レバノン生まれの偉大な詩人カリール・ジブランが文化的融合を勧める作品を掲載した。 だが、「若きシリア系アメリカ人へのメッセージ」でラルフ・ワルド・エマーソンやヘンリー・ジェームズのような一流作家を援用したことは、読者に理解されなかったようである。

ベレニス・アボット / 連邦美術計画 / ニューヨーク公立図書館
ワシントン・ストリート37番地にひとつだけ立つ、洗濯物が干されたこの6階建てのアパート。1930年代半ばには商業ビルが立ち並び、リトル・シリアは変貌を遂げた。このアパートビルも今や小さく見える。

アメリカで成功を収めることのできたアラブ系移民にも、文化的な障壁はあった。 社会改革者、ジェイコブ・リースは、ニューヨークでのアパート暮らしについて書いた1890年の著書『残り半数の暮らし方』(原題:How the Other Half Lives)で、恵まれない人々を紋切り型に描写している。 ホームレスの子供たちを書いた章のタイトルでは「ストリート・アラブ」という表現が用いられ、現在はアラブ人に対する中傷として捉えられている。

スミソニアン学術教会でアラブ系アメリカ史資料館を設立させたシリア系アメリカ人のアリクサ・ナフは、著書『アメリカ人になること: 初期アラブ移民の経験、1880年–1950年』(原題:Becoming American: The Early Arab Immigrant Experience, 1880-1950)で、1900年には行商人の稼ぎは年間1000ドルを超えていたと推定する一方、工場労働者はその半分も稼いでいなかったとした。 でもそれは楽な仕事ではなかった。 1888年に12歳でリトル・シリアにやってきたアミーン・リハニは、自伝小説『ハリードの本』(The Book of Khalid)で行商の利点をこう記している。「旅して稼いで、同国人の商人は地下室に貯めて、失くした。」

カーリル・サカキニは1908年にニューヨークに来た。最高速で動かなければついていけないことを回顧録で記している。 「アメリカ人は歩くのが速い。話すのも、食べるのも速い(中略) 食べ物を飲み込まないまま、レストランを出ていく人もいそうだ。」

ワシントン・ストリートの生活ペースは駆け足とは程遠い。 「トルコ帽をかぶっているが、それ以外はアメリカ人の出で立ち」と『タイムズ』(Times)が表するアルタという英語を話さない男のレストランは、夕方はコーヒーハウスに姿を変えた。店はテーブルでドミノを倒す硬い音が響き、煙草の煙が漂い、キッビ、ラバン、ナスの料理の香りが充満していた。「味は良く、繊細だ。フランスでもドイツでもない」この料理は10セントで売られていた。

これが「アンナの昇天」の舞台だ。1919年にブロードウェイで上演され、その後ビクター・フレミングがサイレント映画化した。フレミングは「風と共に去りぬ」や「オズの魔法使い」の監督と言ったほうがわかりやすいだろう。ストーリーはシリア人の少女、アンナを中心に展開する。アンナはコーヒーハウスで働くが、彼女はそこが泥棒たちのたまり場であることを知らない。 アンナは最後にアメリカ人と結婚し、アメリカ文化に幸せそうに同化していく。 第1幕はアンナがニンニクのリースとオリーブ油の缶を並べているシーンから始まる。中東系移民であることが間違いない。

架空の人物アンナがコーヒーを出したと思われる場所のそばには、聖ヨゼフ・マロン教会がある。1891年に建てられたこの教会は、地域に住むシリア人のキリスト教徒のコミュニティーであった。 1897年、『タイムズ』は結婚報告の欄で、パレスチナ、ジャファ出身のミリアム・アザールとトウマ・エリアの結婚を紹介している。 東洋文化に魅了されたのか、記事には花嫁が「不思議なレースのベール」に隠れ、教会では赤子が「おそらく純粋なアラビア語」で泣き叫んでいる」とあった。

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ソマク・フォト・サービス / MTAブリッジ&トンネル・スペシャル・アーカイブ
ジョン・D・モレル / ブルックリン歴史協会
1940年代、リトル・シリア南部を通るブルックリン・バッテリー・トンネルの建設(写真1枚目)で、ブルックリンのアトランティック・アベニュー(2枚目)への移住が加速した。アトランティック・アベニューは、今日までニューヨークのアラブ系アメリカ人のコミュニティーの中心として残っている。

アラブ人がリトル・シリアを去ると、聖ヨゼフ・マロン教会にも人がいなくなった。教会は1984年に売却され、解体された。石細工の大半は、世界貿易センター近くの新たな建築現場の盛土となった。 ステファン・ヘクター・デューイ司祭は、ブルックリン・ハイツにある聖母レバノン・マロン大聖堂で司教を統轄していた2002年10月、ある電話を受けたことを回想する。 世界貿易センター跡地でブルドーザーが作業中、マロン派のものであることを示す3つの言葉が刻まれた、壊れた「隅の親石」が掘り出されたというのだ。 司祭はそれを展示しようと思ったのだろうか。

「大きな驚きであり、名誉でした」。司祭は当時を思い出す。 「かつて世界貿易センターのそばに簡素な教会がありましたが、随分前に解体されました。 そして突然ラテン語の隅の親石、それも聖ヨゼフ教会と共に長年の間に数回移転してきた親石が見つかったとのこと…。 転々と移動してきたこの石は、まるでわれわれ教区民の教父のようです。」

聖ヨゼフの最後の住所、シーダー・ストリート137番地からそう遠くない場所で、この嬉しい出来事が起こった。1889年に設立した聖ジョージ・シリア・カトリック教区は、寄宿舎やアラブ系レストラン、新たな移民を対象とした融資事務所、そしてシリアのホムスの苗字であるH&J Homsy(繊維工場)があった建物を増築し、1925年にワシントン・ストリート103番地にネオゴシックの教会を建築した。 ベイルートで教育を受けた建築家、ハーヴェイ・ファリス・カサブが、新たにテラコッタの壁面をデザインした。 6年間のレビューを経て、ニューヨーク・ランドマーク保存委員会は2009年、この教会の建物(今は別の用途で使用)の完全保存すべき建物に指定した。

カール・アントウン(20歳)の先祖、タニオス・サダラーは、1891年にバスキンタ村からアメリカに渡ったが、すぐに家族を連れに国に戻り、やがてリトル・シリアに定住し、絹の輸入事業を始める。 「クイーンズ区で育ちましたが、家族が昔いたレバノンのことは何も知りません」。アントウンは、ワシントン・ストリートを徒歩で案内しながらこう言った。 「祖母の家でアラビア語で書かれた昔の事業記録を見つけたとき、もっと知りたいと思い、ここに来ました。」

リトル・シリアには、アントウンが指摘するほどの独自の建築物は少ない。 1925年に慈善団体が立てたコミュニティーハウスである聖ジョージ教会の片側には新しいホテルがそびえ立ち、反対側の古アパートは取り壊しが迫っている。 アントウンの組織、セーブ・ワシントン・ストリートは、成人教育の場であり、新たな移民に医療施設を提供したこのコミュニティーハウスの保存を働きかけている。 コロニアル・リバイバル様式と呼ばれるアメリカ様式が混合した外装は、屋内で英語と市民階級への文化的同化が進んでいたことを象徴する。

ジャーナリストのコンラッド・ベルコビッチは、ニューヨークの移民社会全体を調査してまとめた1920年の著書『ニューヨークで世界一周』(原題:Around the World in New York)の中で、リトル・シリアの暮らしをこう説明している。 「シリア人居住区に一歩入ると、夢の旅をしているかのようだ。」 ルーマニアからの移民であったベルコビッチにとって、コーヒーハウス、宝石店、カーペット屋、「どこで育って、どう使うのかもわからないあらゆる種類の」乾物、ドライフルーツの数々など、リトル・シリアのすべてがエキゾチックだった。

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デイビッド・W・ダンラップ / ニューヨーク・タイムズ / Redux
今日、ワシントン・ストリートの103番地、105~107番地、109番地が、リトル・シリアに残されたすべてである。 高祖父が1891年にここに定住したカール・アントウンは、セーブ・ワシントン・ストリートを設立してリトル・シリアの保護に取り組む。
デイビッド・W・ダンラップ / ニューヨーク・タイムズ / Redux

リトル・シリアの窮屈なアパートについては、「100年前は善良なオランダ人中産階級」が住む裕福な場所であったと彼は記している。 シリア人にとっては、ほんの「一時的なテント」にすぎなかったとしている。 外部からの評価でよくあることだが、彼も宗教について誤解がある。 床に座ること、服装の規定、聖ヨゼフ・マロン教会のキリスト教の祈りに至るまで、彼は目の前のすべてを「ムスリム流」だと思った。

プリンストン大学の宗教学者で、レヴァントで3年間教えたこともあるルシウス・ホプキンス・ミラーは、リトル・シリアについて唯一客観的な調査を行なっている。 1904年の454世帯のうち、ムスリム世帯であったのは2人家族の1世帯のみであった。 彼の調査では、工場労働と同様に男女が平等に行商に従事したことがわかっている。店頭では女性よりも男性のほうがはるかに多いが、在宅の縫製作業では女性が男性を大きく上回った。

アラビア語に長け、移民の母国コミュニティーをよく知っていたミラーは、コミュニティー内部からの独自の視点を知ることができた。 社会改革者のジェイコブ・リースは居住環境を非難したが、ミラーは自治体のアパート検査官に同意し、アラブ人は他の民族よりも衛生水準が高いとした。 だがミラーも偏見がないわけではなかった。 行商について彼は、「人を出しぬいて、騙すことを助長する」として、町のトルコ煙草工場や、鏡、サスペンダー、婦人部屋着を作る工場の仕事のほうが好ましいと述べている。

ベルコビッチはリトル・シリアの「カヴァ(コーヒーハウス)やバザール、ベリーダンスのホール、ザラフ(融資事務所)、独自のアラビア語新聞」などを説明しようとして、大げさな書き方をしたかもしれない。そしてリトル・シリアの住人に、「新しいものを受け入れたがらない古い文明の異人であり、色素を抜き取って味気ない灰色の現代生活にしている」とのレッテルを貼っている。

新しく建った世界貿易センターの影に佇むリトル・シリアは、今も聞く時間がある人にだけ、はっきりと語りかける。 初期住民の玄孫であるカール・アントウンはこう語る。「この場所は歴史の授業のようです。まだまだ学ぶことがあります。」

カール・アントウン提供

アメリカで最も有名なアラブ人の作家はカリール・ジブランだろう。1923年の著作『預言者』は、40ヶ国語に翻訳され、約1億部が出版された。だが、アメリカで最初に出版されたアラブ人の小説は、ジブランの同胞アミーン・リハニ(1876~1940年)で、彼の著作『ハリードの本』は2011年に100周年を迎えた。

前者は「読みやすい」が、ロマンチックで多少ありふれた印象をもたれるが、リハニの作品はまるで違う。難解過ぎて小説はすぐに絶版となり、再版されたのは最近になってからであった。 アメリカと中東を舞台とした逆東洋風の冒険物語といった緻密な構想と、チャールズ・ダウティの『アラビア沙漠の旅行』 やウィリアム・キングレークの『イートン』を思わせるビクトリア風の言葉遣い、『ドン・キホーテ』やヴォルテールの『カンディード』のような悪漢風の登場人物を目配せして言及するなど、現代の読者にとって『ハリードの本』 はハードルが高い。 だがその見返りは大きい。なぜなら、リハニの親愛なる友、ジブランが挿絵を描いている部分があるからである。

詩人であり文学史学者であるグレゴリー・オルファリアはこの本を、安物の言葉を類義語辞典からいい加減に引っ張りだしたような「大げさ」な作品であるとした。 だが、オルファリアも結局は、ウォルト・ホイットマンが『草の葉』で試みたように、世界を1冊に収めようというリハニの試みを、「移民の非現実的な望みを効果的祝福し、戒める風刺的な英知」と称えている。

リハニは幼少期の1888年にアメリカに渡り、父がワシントン・ストリートで営む行商資材屋で4年間働いた。 ニューヨークの雰囲気に魅了され、本屋や舞台俳優に触れ、正式な学校教育に飢えていた彼は、ロースクールに入るが、病気になりレバノンへ療養に戻る。 ニューヨークに戻ったとき、リハニはニューヨークの新聞『アル・ホダ』に自分の記事と10世紀の哲学者アブ・アルアラ・アルマリの詩の翻訳を発表する準備を整えた。『アル・ホダ』は世界のアラビア語ジャーナリズムにライノタイプを紹介した新聞でもある。

先祖伝来の山村であるフレイクに2度めとなる長期の里帰り中、リハニは英語で『ハリードの本』の執筆を始めた。 感化されやすい若者としてニューヨークを訪れた経験だけでなく、単独で行動する人間に得られる自立心と合理的思考、高次の成功の原則を土台とした作品である。 実際これは成人してからのリハニの描写にふさわしい。その後新生サウジアラビアの外交官、英語とアラビア語の旅行作家、パリとニューヨークでは誰もが認める多言語文学者としてキャリアを積む彼の人生がその証拠だ。

アラブ・アメリカ文学の学者である故エヴェリン・シャキールは、ニューヨークの知識人界に受け入れられるためには、リハニと同国人がまず「アメリカ大衆と会うときは服装に気を使い、預言者や伝道者、文学者のような身なりでいるべき」と記している。 目的は、 『ハリードの本』 の登場人物が言うように、東洋神秘主義者や異国風の聖人、砂漠の民といった東洋趣味の決まり文句を呼び起こす「東洋の看板」になることである。

カール・アントウン提供

本の構想は、ハリードが大人になるにつれ、ニューヨークからレバノン、ダマスカスから最後にはエジプトの砂漠へと移動し、地球上から謎めいた消失を遂げるという、一種の「ビジョンの探求」である。 『ハリードの本』は、セルバンテスがアラブ人作家シデ・ハメテ・ベネンヘリの原作を複製、翻訳、編集したとふざけて主張する『ドン・キホーテ』のように、「発見された原稿」という構成で展開する。 リハニはその上手を行き、この本には2つの出処があると言う。ハリードのアラビア語による自伝とハリードの親友、シャキーブがフランス語で書いた伝記である。

イリノイ大学で比較文学を教えるワイル・ハッサン教授は、故エドワード・サイードが多くの東洋風文学の名作について皮肉ったように、『ハリードの本』にも多くの曖昧さや隠れたメッセージがあると言うが、これはアラブ人の作である。 ハッサンは、リハニがアラブ文学の先駆者の名を、まるで自分の知人であるかのようにコミカルに引用した点や、アラビア語から英語への言葉遊び、対訳のないアラビア語の語句を使った点に言及し、 アラブ・アメリカ文学というよりは、「アラブ化した英語小説」と評した。

魂に飢えたニューヨークの移民として、ハリードは、預言者エレミヤのようなジェリーという先見の明を持った古本屋に魅せられる。だが、空腹をモヤッデラー(レンズ豆と穀類を使ったレバノン料理)で満たさなけれならないことを思い出す。ちなみにこの料理の名は「天然痘」と同じ語源である。 リハニは、英語の "sham"(偽物)を、アラビア語で「シャーム」と呼ばれていたシリアにかけた。 ハッサンは、リハニは両言語と両文化を自分と同じレベルで渡り歩くことができる読者に向けて書いていると指摘する。つまり彼自身のような読者だ。

リハニの作品を称える国際イニシアチブであるハリード・プロジェクト幹部、トッド・ファインは、彼の作品にもう一度世間の関心を向けさせるために懸命に取り組んだ。 100周年を記念して、彼は議会図書館、ニューヨーク公立図書館、アラブ・アメリカン国立博物館でセミナーを催した。 また、ランダムハウスから新しく増版して再配布する手配をし、さらに2人のアラブ系アメリカ人議員がリハニを称える決議案を導入するのを助けた。

ファインは今こうしてリハニの文学に情熱を燃やしていることを、自身の過去と比較して皮肉に思っている。 『文明の衝突』を著し、文化決定論者であった故サミュエル・ハンティントンの前助手である彼は、今これらすべてに敵対するアラブ人著者の重要性を支持している。 「自分にとってリハニは、文化と文化が出会うときに、良い方向に向かうためのあらゆる要素を象徴している」と彼は語る。

リハニが架空に設定したこの東西対話は、文化統合の試みにほかならない。 『ハリードの本』の語りにあるように、「アラブ人がアンダルシアについていつも言っていたことを、ハリードとシャキーブはアメリカについて言うのだ。 ひとつの意見を持った、もっとも美しい国。それは外国人に母国を忘れさせる。」

リハニは文化の融合に成功したのか。 それは、100年後の今も問われ続けている。

謝辞
編集部より、エリザベス・バレット・サリバン氏、トッド・ファイン氏、カール・アントウン氏の寛大なご支援に感謝申し上げます。

グラハム・チャンドラー

ルイス・ワーナーwernerworks@msn.com)はニューヨーク在住のライター、映画制作者。

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--編集部



 

This article appeared on page 2 of the print edition of Saudi Aramco World.

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