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上:メトロポリタン美術館 / 絵画資料;下:ホセ・ミゲル・プエルタ・ヴィルチェズ(José Miguel Puerta Vílchez) |
1860年代前半、ハドソンリバー派の画家サミュエル・コールマン(Samuel Colman)は、スペインを訪れた最初のアメリカ人画家であった。 1865年に描かれた「アルハンブラ宮殿の丘」(The Hill of the Alhambra)には、絵画的な美しさと壮大さによって、感覚を高い次元の意識へ刺激するという、一般的概念が反映されている。 |
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ヨーロッパ最南端にあるスペインのアンダルシア州の地域であるグラナダへ向かうあらゆる方向から、それを見ることができる。都市の大半を占める岬に塀を巡らせたアルハンブラの要塞、宮殿そして庭。 高くそびえるシエラネバダを背景に、千年以上もの歴史の遺産が所々に見られる現代的なビルの立ち並ぶ中心街の都会的情景にその都市は存在する。 北にはまるでキュビズムの絵画のようなアルバイシン地区、すなわちムーア人の地区が向かいの丘に沿って広がり、古代の声が共鳴しているかのような曲がりくねった迷路のような通りから中心街を見下ろしている。
アルハンブラはスペイン・イスラム芸術の最高峰として長い間支持されてきた。 グラナダだけでなく世界中の数えきれないほどの芸術家に多大なインスピレーションを与えてきた。彼らはアルハンブラを歴史的側面、数学的側面、精神的側面、神秘的側面、官能的側面、夢のような側面に満ちたほぼ例外のない美の縮図と考えていた。 それぞれの芸術家が独自にアルハンブラを解釈し、次々に独自のスタイルに従ってその影響を発揮させた。そのスタイルは歴史的、科学的、空想的、前衛的、現代的と多岐にわたる。
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上と右上(オーウェン・ジョーンズ):ブリッジマン画像(bridgeman images);左上(ゴメス・モレーノ):アルバム/絵画資料 |
19世紀の歴史主義の画家はアルハンブラを象徴およびイベントの舞台として使用し、ロマン派の哀愁を豊富に取り入れ叙事詩的な画法で表現した。 上: カルロス・ルイス・リベラ・イ・フィーベ作「1492年のグラナダ陥落」(1890年)と(左上)マニュエル・ゴメス・モレノ・イ・ゴンザレス(Manuel Gómez-Moreno González)作「アルハンブラを去るボアブディル一家」(Boabdil’s family leaving the Alhambra)(1883年)は、カトリック教徒による征服とその結果国外追放となったナスル朝君主とその家族を描いたものである。 右上: 多くのアルハンブラのデザインを科学的かつ空想的な視点で記録しているウェールズ人建築家オーウェン・ジョーンズは1856年にアルハンブラを「ムーア人の芸術の極致である」と断言している。 |
アルハンブラ宮殿は13世紀から15世紀にかけてナスル朝君主によって建設された。ナスル朝君主は8世紀にわたりアル=アンダルスを支配してきたイスラム支配者の最後の支配者である。アル=アンダルスという名前はイスラム=スペインに与えられ、現在のアンダルシアの由来となった。 1400年までアルハンブラ宮殿は過去の輝かしい栄光と未来への不安だけで成り立っていた。 ナスル朝の政治生命は北アフリカのマリーン朝からの軍事支援と貢物と交換条件で提供されるキリスト教のカスティーリャ王国からの防御次第であった。 これらの外交における圧力に加え、内部の勢力争いにより、ナスル朝の勢力は弱まり、1492年のナスル朝の陥落をもってイスラム=スペインは最終的な崩壊を迎えた。
このような不安定な状態の下で建設されたにも関わらず、このモニュメントが時間の経過に耐えていることは驚くべきことである。なぜなら当時ナスル朝が使用できた材料は石膏、漆喰、木材、そして何の変哲もない使いやすい石といった単純なもので、良質とは言えないものさえあった。
モニュメントにふさわしい材料は不足していたが、彼らは驚異的な知識で建造物を築き上げた。 名前が明かされていないこの建造物の建築家は、実用的な観点と神秘的な観点、そして数字を最も深遠な人間の概念と見なす精神的な観点の両方から古典ギリシャとイスラムの数学を非常に洗練された方法でとらえている。 これらの基準に従い、彼らは数字、宇宙、そして人間の関係を反映させることを目指しアルハンブラの調和をとり、装飾を施している。 例えば古典ギリシャの「黄金比率」または黄金分割の概念がこの宮殿全体にわたり使用されている。その概念は終わりのない幾何学模様、繁茂する作りこまれた庭、美しい漆喰の装飾、数えきれないほどの上品なクーフィー体のカリグラフィーのパネルに取り込まれている。
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左:ウィキメディア・コモンズ(wikimedia commons);右:ブリッジマン画像 |
ワシントン・アーヴィングの『アルハンブラ物語』が発表された1832年、イギリス人画家デイヴィッド・ロバーツはスペインを訪れたが、彼が(左)「コマレスの塔」(Tower of Comares)を描いたのは後に彼の最も有名な旅となるエジプトとレバント地方への旅に出かける直前の1838年であった。 (右): ロバーツ同様、フランス人画家フランソワ・アントワーヌ・ボシュエも1870年代に当時十分に発達された技法であったロマン主義オリエンタリズムの技法を用いてアルハンブラの「正義の門」(Porte de Justice)を描いている。ロマン主義オリエンタリズムの技法とは、見事なまでに温かみのある光、正確なディテール(写真撮影術の発明の影響)、そして誇張された空間と遠近法を強調するため人物を小さく描く技法である。この技法は以下の絵画にも見られる。 |
1492年、カスティーリャ王国の貴族や商人が市内にある最もきらびやかなムーア建築やユダヤ教会堂を占領する一方、カスティーリャ王国のキリスト教徒の国王はアルハンブラ宮殿への鍵を手に入れた。 16世紀初期、アルハンブラ宮殿の一部が部分的に解体された。どの程度解体されたのかは記録がないため不明である。この解体は、神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン国王カルロス1世)がグラナダを自らの帝国の中心地とするために使用するルネサンス様式の宮殿を建築する更地を作ることを目的に行われた。
ルネサンス様式の宮殿は建設され、現在も残っているが、グラナダがカール5世の支配の中心地となることはなかった。 アルハンブラ宮殿が使われることなく2世紀近くが経ち、過去の壮麗さがほこりに覆われた長い忘却の夢は時間の流れに屈した。 豪華な部屋や庭は無断移住者や放浪者の住処と化した。 その結果として、この場所は新たに出現したロマン主義の画家にとって魅力的かつ理想的な題材となった。
19世紀初め、グラナダは100年以上かかった大幅な都市の近代化計画の対象となり、結果的にイスラム建築の歴史的遺産の多くが解体されることとなった。 1828年、ニューヨーク出身の作家ワシントン・アーヴィングがスペインの短期ツアーの間にグラナダを訪れている。 (数十年後、ワシントンは自国の大使としてスペインを再訪した。)
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(2):ブリッジマン画像 |
1832年、当時20代後半のフランス人画家フィリベール・ジョセフ・ジロ・デ・プランゲイ(Joseph-Philibert Girault de Prangey)もアルハンブラを訪れている。 「ライオンの中庭」(Court of the Lions)(左)は、その時の訪問の際に制作された版画で、劇的な効果を生み出すため高さと中庭の部分の両方が誇張されている。気怠そうなギターリストは、一般的なオリエンタリストの概念である「眠気を誘う東洋」の隠喩としてとらえることができる。 同年、イギリス人水彩画家ジョン・フレデリック・ルイス(John Frederick Lewis)はスペインでの2年間の生活を開始した。その頃彼は、女性がアルハンブラの塔を見つめている無題の絵画(右)を制作している。 両画家の作品は広く公開され、一般に称賛されていた。 |
グラナダの歴史、そして特にアルハンブラの歴史は、荒れ果てた宮殿内に住居を構えてしまうほどにアーヴィングを魅了した。そして彼は政治家と社会に対し、宮殿、そしてグラナダのその他の歴史的建造物を保存することの重要性を説得した。 同様に、アーヴィングは1832年ロンドンで発売され、後に彼のベストセラーとなる『アルハンブラ物語』のインスピレーションをアルハンブラで得た。 多くの増刷版で、ギュスターヴ・ドレ(Gustave Doré)、フィリベール・ジョセフ・ジロ・デ・プランゲイ、その他ロマン主義の文学作品や旅行関連書籍の挿絵を手掛ける著名な画家の挿絵が使用された。
アーヴィングはアルハンブラを社会に広めた功績で評価できるが、彼自身は1世紀前に始まったヨーロッパの絵画のコンパスの針が大陸最南端の地域、すなわちアンダルシアと北アフリカを指し始めた流行の追随者であった。 ロマン主義に支えられ、また『千夜一夜物語』の18世紀初頭版や18世紀末近くに発表された『エジプト誌』などの書籍に端を発する東洋の美の人気に促進され、ロマン主義の画家がこぞって南下した。 ロマン主義の画家達はアル=アンダルス全般の歴史と文明における主題に関する鍵と図像的鍵を、グラナダではより具体的に、アルハンブラではどこよりも細部にわたって理解した。 グラナダ、そしてアルハンブラは非常に有名になり、芸術的要求の対象、非宗教的な巡礼の目的地へと成長を遂げることとなった。 グラナダ、そしてアルハンブラは主にイギリス人およびスコットランド人(および数名のフランス人とドイツ人)作家、画家、詩人で構成されたロマン主義旅行者によりさらに社会に広められた。彼らはアルハンブラを「東洋発祥の地」と名付け、東洋の入り口として称賛していた。 彼らは新しいジャンルの旅行関連書籍、特にリチャード・フォード(Richard Ford)が1845年に発表した『アンダルシアの旅行者と自宅の読者のためのガイド』(Guide for Travellers in Andalusia and Readers at Home)に後押しされ、そしておそらくそれらがあったからこそグラナダを訪れることができたのだろう。 「失われた王国」、そして「失われた楽園」をも色濃く反映するグラナダの荒廃の雰囲気と人々の外見から判断できる文化や民族が入り混じった特徴すべてが、ロマン主義の芸術家にとって理想的な絵画の題材となった。 それは芸術家達が生涯飲み続けた無限の源泉だったのだ。
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画像は画家の厚意により提供されているものである。ただし、以下を除く。 1)ソローリャ美術館、マドリード; 2)、3)ブリッジマン画像;7)Juan Manuel Segura & Francisco Jiménezコレクションより無料提供、グラナダ;8)アルバム/絵画資料;10)© Artists Rights Society (ARS)、ニューヨーク / Vegap、マドリード;13)Archivo oronoz |
画家にとって一番人気の題材はおそらく四角い庭「ギンバイカの中庭」(Court of the Myrtles)もしくは多くの絵画の背景に描かれた「コマレス宮」(Comares Hall)すなわち「Hall of the Throne」と隣接する「コマレスの中庭」(Court of Comares)としても知られる「アラヤネスの中庭」(Patio de los Arrayanes)だろう。 この中庭、そしてコマレス宮では、中庭から宮を空間的につなぐ完璧に連結された柱およびアーチと、中庭の大部分を占めるプールの表面に反射した柱およびアーチの両方によって空間に与えられる均整美の中で君主は聴衆を引き付け、代表団をもてなした。 プールは建造物よりも空を反射しており、その自然の力による落ち着いた飾り気のなさが柱やアーチ型の天井の豪華な装飾、さらにはアルハンブラが見てきた活動の社会的かつ政治的複雑さと対照を成している。 芸術家にとってここは反射によって情景が繰り返し生み出されひとつの視点から無限の風景をとらえることのできる場所である。ここでは切り取られた風景のいくつかを紹介する。178年にわたる歴史の中で制作されてきた作品である。
左上から: 1. バレンシア人画家ホアキン・ソローリャ、スペイン、1917年;2.ジロ・デ・プランゲイによるリトグラフ(石版画)、1836年~37年;3. アメリカ人印象派画家フレデリック· チャイルド· ハッサム、1883年;4. アメリカ人オリエンタリスト、エドウィン・ロード・ウィークス、1876年。 5~15番の絵画は、グラナダの画家の作品である:5. フアン・ヴィダ(Juan Vida)、1996年;6. レオノール・ソランス(Leonor Solans)、2005年;7. エウジェーニオ・ゴメス-ミア(Eugenio Gómez-Mir)、1920年;8. ホセ・マリア・ロペス・メスキータ(José Maria López-Mezquita)、20世紀初期;9. ヘスス・カンディ(Jesús Conde)、2009年;10. ホセ・ゲレロ(José Guerrero)、1974年;11. ソクラム(Socram)、2009年;12. シルビア・アバルカ(Silvia Abarca)、2014年;13. ホセ・マリア・ロドリゲス-アコスタ、1904年、および甥、14. ミゲル・ロドリゲス-アコスタ、2007年;15. ブラザム(Brazam)、1993年。多くの画家同様、彼もアルハンブラの「光の透明さと水の音」により、決して消えることのない影響を受けていると話している。 |
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グラナダ大学(University of Granada)の美術史家イグナシオ・エナーレス・クエヤル(Ignacio Henares Cuéllar)はこう説明する。ロマン主義の芸術家は「アルハンブラが、「サブライム」(Sublime)の理論の基準を満たしていることにも気付いたのです。「サブライム」とは目に見える世界は精神世界の反射であると主張する哲学のことです。 これこそ、地中海のオリエンタリズムの美的基礎を定義するためにアンダルシア、そして特にアルハンブラを訪れたロマン主義の旅行者を実際に突き動かしたものだったのでしょう。そして、この美的基礎は、近代性の最初の大きな章を前進させる豊かで現実離れした空想なのです。」
アルハンブラとヘネラリフェの地方議会の会長を務めるマリア・デル・マール・ビジャフランカ(Maria del Mar Villafranca)によれば、特に19世紀後半、アルハンブラは「デイヴィッド・ロバーツ、ジョン・フレデリック・ルイス、またはギュスターヴ・ドレなどロマン主義の芸術家と歩調を合わせる教養のある旅行者。」が好んだ目的地であったという。 また、ビジャフランカは「おそらく最も象徴的で模範となる旅行者マリアノ・フォルトゥーニと共に生活していた[アンリ・]ルニョーなどの人物も含まれると思います。なぜなら彼もまた美術品収集家であり芸術改革主義者だったからです。」と説明している。 これはより多様な国籍の芸術家にまで広がった。特記すべきはアメリカ人のエドウィン・ロード・ウィークスやドイツ人のアドルフ・ゼールである。
ロマン主義の傘下で芸術の傾向が出現し、オリエンタリズムとして知られるようになった。 多くの場合様々に混ざり合った植民地主義者の見解と姿勢を持つオリエンタリズムは地中海沿岸地域の絵画の主題として突然注目され、ヨーロッパの画家はイスラム、アラブ、北アフリカから大きくインスピレーションを受けたあらゆる場所を主題にして絵画を制作した。
画家でありグラナダ大学で美術の教鞭を執るヘスス・カンディによれば、オリエンタリストの傾向の多くは、ますます人種が多様化する世界の中でヨーロッパ人がアイデンティティを求めることに端を発しているという。 「東洋を定義する必要性が全ての傾向を生み出しているのです。」とカンディは話す。 「ヨーロッパ人として自分自身を識別するためには、自分達を定義する必要があります。そしてそれは、「他者」の鏡を見ることによってのみ実現可能なのです。」カンディはこう付け加える。ただし、それ以上である。 「失望は、産業主義と実用主義の発展により退屈で息苦しい雰囲気が作り出されている「西からの逃避」をさらに刺激しました。彼らの気持ちは他の人種の文化だけでなく、天と地の間に古代文明の遺跡と宝物を維持する国々へと向いたのです。誰もが逃避し、これらの魅惑的な土地で自分を解放して欲求を表面化したいと願っていたのです。」
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左: © 2014 succession H. Matisse / Artists Rights Society (ARS);右: ©2014 M.C. Escher CO., All rights reserved, www.mcescher.com |
1910年に3日間訪れたフランス人画家アンリ・マティスは、「最後のロマン主義の画家であり、最初の近代芸術(モダンアート)画家でした。」とマリア・デル・マール・ビジャフランカは言う。 「アルハンブラがマティスに与えた影響は、ミメーシス(模倣)にはつながらず、むしろより深遠なものをもたらしたのです」:それが後に彼のスタイルに吹き込まれたモチーフであった。このモチーフは、1911年の彼の作品「茄子のある室内」(左)で見ることができる。 同様に1922年にアルハンブラを訪れたオランダ人画家であり数学者でもあるM.C.エッシャーもこの場所からインスピレーションを得た。そしてエッシャーは、宮殿や絵画を描くのではなくむしろアルハンブラの芸術から独自のインスピレーションを引き出し、相互に絡み合う限りなく繰り返される模様を描いた。彼の生み出す模様は多くの場合、彼がアルハンブラで目にした伝統的なイスラムの幾何学模様や植物の模様に類似している。これは1941年の彼の作品「魚」(Fish)(右)で見ることができる。 |
この方法でロマン主義の画家はアルハンブラで、画家が描けるだけ多くの視覚的言語を伝えることができるほど驚異的な本質的舞台、図像的仕掛けを見出したのである。
同時にロマン主義者は非常に産業主義が進む南にも大勢集まっていた。ここでは彼らが避けようとしていた産業主義により、芸術的機会を広げる新しい絵画の広め方と絵画の鑑賞方法が彼らの作品に与えられた。 それまで、多くの絵画は、貴族やカトリック教会から資金提供を受けて制作され、通常宮殿や宗教的な建造物の壁に飾られる運命にあった。 ところが、新しい製造技法により、リトグラフや木版画の大量生産が可能となり、プリントや絵画をかなり安価に制作できるようになったのである(そして多くの偽造品が出回ることになった)。 芸術は、新たな社会階級である中産階級が鑑賞、購入両方の目的で利用できる市場の商品となった。
加えて、ロマン主義文学の書籍に挿絵を挿入する必要性と挿入する方法により、それまで非常に高価で手作業により彩飾された写本でしか読むことのできなかった文学作品の視覚的側面が世に広められた。 これはさらに芸術家達が多くの主題に取り組むことに拍車をかけ、彼らはロマン主義の文学の叙情的な優しさを絵で表現するという課題を楽しんだ。また同時に、写真の出現により、彼らは現実的なイメージを正確に絵画に反映することにも魅了された。
中東の主題を扱った叙情的な写実主義で有名なデイヴィッド・ロバーツは、自身の美的選択により空想のアンダルシアの図像を表現した独創性に富んだ芸術家のひとりであった。 アンダルシアでの彼の最も有名な作品「コマレスの塔」(図 6参照)では、現実が空想に溶け込んだ完璧なロマン主義のイメージが表現されている。 同様に彫刻家ギュスターヴ・ドレは、光の力、色、アルハンブラの建造物の明るさを使いこなす一方で、明らかに伝説的な特徴を持つ奇妙な人物像を用いてアルハンブラの情景の中で巧みに人物の存在を扱っている。彼はこの情景に非常に驚異的な遠近法を用いており、一見して明らかに写実主義であるにも関わらず、見る者をあっという間にロマン主義のオリエンタリストによる夢の世界へと誘う。
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左:ソローリャ美術館、マドリード;右:画家の厚意により提供 |
同年、マティスはアルハンブラを訪れ、当時40代後半を迎えていたバレンシア人画家ホアキン・ソローリャは南スペイン、特に印象主義、象徴主義、近代主義(モダニズム)をつなぐ場であったアルハンブラで「Torre de los Siete Picos」(左)などの作品の制作を開始した。 アルハンブラの塀沿いの家で育った現代美術(コンテンポラリーアート)の画家ミゲル・ロドリゲス-アコスタは、2009年の絵画作品「詠唱」(Vesperal)(右)の中で「al-hamra」という名前のアラビア語の語源である赤に敬意を表している。この作品の中で、赤は色、模様、配置、筆遣いを調和させている。 |
ジョン・フレデリック・ルイスは、「失われた文明」の美しさ、すなわち幻想的な「アル=アンダルスの楽園」の主な要素として建造物とアラビア唐草模様を取り入れることにより、東洋と地中海の雰囲気を強調した。彼の有名なリトグラフ、水彩画、油彩画は広く複製されている。 一方、写実主義者でスペインポルトガル語研究者のサー・リチャード・フォード(Sir Richard Ford)と彼の妻ハリエット・フォード(Harriet Ford)は実験に基づいたディテールを用いたスケッチを制作した。これらのスケッチは旅行に基づいて執筆された文章に添えられ、現実的に文章の中に描かれている国を理解したい読者にとって必要不可欠なものとなった。
さらにこの頃「画商」が芸術家と顧客の間に入る仲介役を務めはじめた。 画商が営利目的で個人のアートギャラリーを始めたことにより、芸術作品、そして結果的に作品の主題、すなわちここではアルハンブラが商品、そして投資の対象として新たな立ち位置に置かれることになった。 グラナダギャラリーのオーナー、セフェリーノ・ナヴァロ(Ceferino Navarro)は、「グラナダで生まれたか、他の地域から移住してきたかを問わず、グラナダ在住の芸術家にとって、アルハンブラの影響を受けないこと、そしてアルハンブラに不朽の名声を与えるという誘惑に負けないことは困難。」と言えるほどに、アルハンブラの存在は非常に浸透していると話す。 中心街の主要な通りのひとつであるGran Vía de Granada沿いにあるミゲル・アンヘル・オルタール(Miguel Ángel Hortal)の経営するギャラリーのショーウィンドウにはアルハンブラを描いた絵画がたくさん飾られており、道行く人はもちろん、アルハンブラを主題とした最新の美術の傾向が反映された作品を購入するためにここを訪れる多くの芸術愛好家達を魅了している。
1922年、オランダ人数学者で芸術家でもあるM.C.エッシャーはグラナダを訪れ、アルハンブラに数学的かつ幾何学的宇宙を見出した。 「アルハンブラ宮殿の壁や床の色とりどりのモザイクは、ムーア人が隙間を開けることなく幾何学的形状を用いて表面を埋める技術を習得していたことを私達に示すものです。」とエッシャーは記している。 しかしながら、彼のインスピレーションはアルハンブラを描くことには向かず、独自のスタイルを生み出すためのきっかけとなった。 これはエッシャーの催眠にかかったように相互に絡み合う限りなく繰り返される模様の多くで見ることができる。エッシャーは、アルハンブラで目にした伝統的なイスラムの幾何学模様や植物の模様、カリグラフィーを用いた模様に似た手法で模様の中に人間や動物の抽象画を取り入れている。
エッシャーの反応は、ビジャフランカいわく、「芸術家の旅行体験がより実験的で革新的なアイデアを生み出し」、シンプルな風景画として、そして時に象徴主義、印象主義、前衛芸術の側面として描かれるようになった20世紀には一般的なものであったという。
エッシャーが訪れる数十年前のある冬、フランス人画家アンリ・マティスはグラナダで3日間を過ごしている。 当時アルハンブラは観光名所として公開されたばかりであった。 この短い滞在期間はマティスにとって「伝統的な表現からの離脱、芸術的前衛への鍵」を感じるのには十分であったとビジャフランカは言う。ビジャフランカは2010年に「マティスとアルハンブラ」(Matisse and the Alhambra)と題した展示を開催した人物だ。 色使いの天才として知られるマティスは、北アフリカを訪れた後から特に長い間イスラム美術に魅了されていた。 しかしグラナダは疑う余地のないきっかけとなる魅力を証明したのである。その魅力とは、単なる装飾ではなく、格子の壁を通して入ってくる光と影の遊びという新たな形状の啓示であった。
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左:画家の厚意により提供;右:ソフィア王妃芸術センター |
左: グラナダの現代美術(コンテンポラリーアート)の画家マリア・テレサ・マーティン-ヴィヴァルディ(Maria Teresa Martín-Vivaldi)が1996年に制作した「ニ姉妹の間」(Hall of the Two Sisters)の輝かしい表現の中で、アルハンブラで最も有名なドームのアーチ型の天井、窓、そしてタイルが屈折し溶け込んでいる。 右: スペイン内戦により国外追放となった後、マヌエル・アンヘレス・オルティスは特にアルハンブラに傾倒するようになった。1959年オルティスはアルハンブラで、単純な形状により思いがけず目が回るような遠近法が生み出されているかのような作品である「糸杉の道」(Paseo de los cipreses)を描いている。 |
「アルハンブラは驚異だ」と彼は妻にあてた手紙の中で綴っている。 「強烈な感情を感じる場所だ。」イスラム美術と同じようにアルハンブラでは、純粋な美術をところどころで見ることができる。 そして、マティスが装飾的美術と「純粋な」美術の精神的境界線を撤廃しはじめたのは、まさにアルハンブラであった。
「アルハンブラがマティスに与えた影響は、ミメーシス(模倣)にはつながらず、むしろより深遠なものをもたらしたのです。」ビジャフランカは言う。 これ以降アルハンブラのモチーフからのインスピレーションは、背景、物体の中心的モチーフ、テキスタイルのデザインなど、マティスの作品に常に存在しているようである。 ビジャフランカいわく、マティスは「最後のロマン主義の画家であり、最初の近代芸術(モダンアート)画家。」であったという。
「インスピレーションが必要な時、金色に瞬く光を浴びるためにいつもアルハンブラに行きます。」グラナダの抽象画家マヌエル・リベラ(1927~1994)はよく言っていた。 彼はスペイン内戦後、前衛芸術家の指導を助けたEl Paso共同体の創設者の一人である。 リベラを含め20世紀初期の芸術家にとって、アルハンブラはインスピレーションの源であり続けたのである。
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左上:colecciones museograficas del patronato de la alhambra y generalife; 上および右上(2):画家の厚意により提供 |
アルハンブラの庭は近代(モダン)および現代(コンテンポラリー)の芸術家の作品で繰り返し見られる主題となっていた。彼らは「芸術家は自然を模範すべきではなく、代わりに自然から新たな現実を作り出さなければならない。」と信じていた、とグラナダの芸術家フアン・ヴィダは言う。 左上: グスタボ・ヴァカリサース作「アルハンブラの風景」(La Vista de la Alhambra)(1909~1910年) 上: ヘスス・カンディ作「植物の壁」(Muro vegetal)(2012年) 右上: ホセ・マニュエル・ダーロ作「青いプール」(Alberca Azul)(2000年) |
同様に、そしてマティスから多大な影響を受け、グラナダの前衛画家マヌエル・アンヘレス・オルティス(1895~1984)は、独自の「抽象的な喚起を用いて記憶と形状のかすかな手がかりをとらえる」能力で有名になったと、同じくグラナダ出身の画家ホセ・マニュエル・ダーロは話す。 「ナスル朝の模様は感情を招くものであり、知性に訴える挑戦でもあります。」とダーロは言う。 「アルハンブラは絵画の主題や異国情緒溢れる主題として、もしくは風景画として描かれすぎていて飽和状態にあるにも関わらず、その断片の言語や模様を再現することはそれほど一般的ではありません。」
「ナスル朝の宮殿の基本的な視覚的言語や模様は、1927年にグラナダで誕生したミゲル・ロドリゲス-アコスタの現代(コンテンポラリー)の絵画においても強い特徴として見ることができる。 元々家族の住居であった彼のスタジオは、宮殿の庭から徒歩数分のところにある。 彼は家族の話を交え、アルハンブラがグラナダに住む人々にとってどれだけ美の象徴となっているかを次のように話す。 「子供の頃家族とベルサイユに旅行に行った時、フランスの宮殿の庭園を歩いて回りました。その時父が子守の女性にその庭園が気に入ったかどうか尋ねました。 子守の女性はグラナダ出身だったのですが、うまく気持ちを表現できなかったのでしょう。代わりにこう答えたんです。「すべてのアルハンブラのようにアルハンブラだわ!」と」
アルハンブラを美の前提として育った彼は、現在グラナダ出身の芸術家として最も国際的に認められている芸術家の一人である。 彼の作品は、色、形状、リズムで表現されている。2003年に行われたロドリゲス-アコスタの回顧展のカタログの中で、マリア・ドロレス・ヒメネス-ブランコ(Maria Dolores Jiménez-Blanco)は次のように記している。彼の作品はボリュームのある特徴と庭園をほのめかし、彼のルーツと彼が生涯を通じて個人的に愛してやまなかったイタリアの伝統との「実りある相乗効果」を実現している。 「計り知れないほどの精巧さでロドリゲス-アコスタが生み出す限りない色の層の風合いは、何世紀という時間を経て削れ、壊れた漆喰の壁を彼が日常的に考えていたことを示唆していると考えられるかもしれません。」 ヒメネス-ブランコは言う。 「彼の絵画の表面を構成する筆の動きの網もまたアルハンブラ内部の壁の上部にある漆喰の金線細工と相互に関係しています。その網によって、作品に動きの即時性が与えられているだけでなく、過度に抽象を求める20世紀の傾向と彼の作品につながりがもたらされているのです。」
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左:画家の厚意により提供;右:colecciones museograficas del patronato de la alhambra y generalife |
グラナダの画家アウグスト・モレノは、2008年に制作した「ムーア人のささやき」(Susurra el moro)(左)のように焼成と酸によって色が生み出される金属板を用いて作品を制作している。 右: 1988年に制作されたジュリオ・ジュストの「アラブの浴場」(Baño Árabe)は紙や厚紙、木を用いたコラージュ作品で、その材料はアルハンブラ宮殿建設のためにナスル朝の職人が使用した質素な材料のはかない性質を思い起こさせる。この作品はアルハンブラの「浴場」(hammam)からインスピレーションを得て制作されたシリーズ作品「古層の城」(Castillo Inferior)の一部である。 |
スペインそして海外の両方で認められているグラナダの画家フアン・マニュエル・ブラザム(Juan Manuel Brazam)は、他の場所で生まれていたら、肉体的には何も変わらないが、作品はまったく別のものになっていただろうと言う。 ブラザムいわく、彼のキャンバスはアル=アンダルス、ナスル朝、そしてアルハンブラの美術によってどんどん育まれているという。 彼は、「光の透明さ、水の音、水の噴射と光の遊び」を用いて絵画作品を制作している。 ブラザムは、モザイク象眼細工のイメージにより調和、抽象、そして模様が生み出されると言う。
画家であり彫刻家であるマリア・テレサ・マーティン-ヴィヴァルディは、円形の天井とタイルに色と遠近法を取り入れた一連の作品の中でアルハンブラの主題を扱っている。この手法により、モニュメントがその姿を現し、不鮮明になり、溶け込んでいく夢のような情景を作り上げている。 アスンシオン・ホダル(Asunción Jódar)はアルハンブラに居住していた女性達の「アルハンブラの外または短絡的な外の見解を除外または打ち消す」個人的な世界にインスピレーションを見出した。
アルハンブラを基にした絵画の普及は、「新たに出てきた」若いグラナダの画家の間にも引き続き見られる。彼らは、どんなに実現することが不可能に思えるとしても常に新しいビジョンを持ち出しているようである。 ベレン・エストゥーラ(Belén Esturla)、シルビア・アバルカ、レオノール・ソランスは、色を巧みに使い新たな光の色合いを用いた新しい表現を取り入れている。 グラナダの彫刻家の家に生まれたアウグスト・モレノは、焼成と酸が反応することによって色が生み出される銅板を使って作品を制作している。その手法は、釉薬をかけた陶器の伝統とは異なる。 ホセ・ハビエル・ガルシア・マルコス(José Javier García Marcos)の激しい色使いは、彼の作品を抽象的な印象主義に部分的に近づけるものである。
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(2):画家の厚意により提供 |
左: ミゲル・ロドリゲス-アコスタが2007年に発表した一連のスケッチ「La Alhambra」のひとつ。(右)ホセ・マニュエル・ダーロが2010年に制作した「アルハンブラの角」(Rincon de la Alhambra)のように、抽象的でほぼ画素化に近い色と形状が使用されている。 「アルハンブラは絵画の主題や異国情緒溢れる主題として、もしくは風景画として描かれすぎていて飽和状態にあるにも関わらず、その断片の言語や模様を再現することはそれほど一般的ではありません。」とダーロは言う。 「この型にはまった宇宙の中で、確固たる決意をもって私は自身の作品に取り組んでいます。」 |
芸術とは繊細なビジョンを表現するために作られた創作物すべてを包括するものであるという一般的な定義から離れることで、アルハンブラが単に美しい建造物以上のものであること、そして単にその壁のアラビア唐草模様の中で植物が複雑に絡み合っていることがすごいことではないということがわかるのである。 アルハンブラは、クーフィー体のカリグラフィーで書かれている言葉以上のメッセージを発している。噴水や池の水の反射は胸壁やアンダルシアの輝かしい空以上に光を反射しているのである。 アルハンブラ宮殿の真の力は、宮殿自体が大傑作であることだけでなく、宮殿、時間や場所を超えて人間の想像力の庭というより広い庭で創造力に火を点ける力にある。
詩人イブン・ザムラクが「二姉妹の間」(Hall of the Two Sisters)の壁に永遠に残るよう刻んだように、美しさで飾られた庭そして宮殿を見る者は実際に美しさ、つまりその本質が存在することが実感できるだろう。 それは私達が知っている事実の通り、私達が真実、または啓示を理解する方法ではわかっていない本質であるが、理解されている本質である―多くの芸術家が表現してきたように。 そして、アルハンブラ自体が私達に働きかける芸術となる。
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アナ・カレーニョ・レイバ(acarrenoleyva@gmail.com)は、 スペインの文化を扱った雑誌『El Legado Andalusí』の創設者および元編集者であり、彼女自身が数多くの展示を監督したグラナダのFundación El Legado Andalusíの元広報責任者である。 2007年にはアントニオ・エンリクの『The Hermetic Alhambra』(Port-Royal Ediciones)の翻訳を手掛ける。 趣味で絵を描く彼女は、子供の時両親に初めてアルハンブラに連れて行ってもらった時のことを覚えている。 「まるで魔法と夢の世界に入ったようでした。私は自分の想像の目であの世界を見たのです。」 |