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巻 65, 号 42014年7月/8月

In This Issue

5月16日金曜日の朝、今年ブラジルで開催されるワールドカップの出場権を獲得したボスニア代表チームがトレーニングキャンプを開始した。同国のワールドカップ出場は現代の独立国家として初の偉業である。 戦後のボスニアは政府が機能せず、失業者数が60%を占め、ムスリム人、セルビア人、クロアチア人の民族的不和が解決しないことで悩まされてきた。そんなボスニアにおいて、多くの国民がボスニア代表チームのワールドカップ出場権獲得は戦後国民が経験した最も素晴らしいことだと思っているのは言うまでもない。

火曜日の夜から、一度も止むことなく雨が降り続いている。 水はほとんど排水されているが、フィールドの南西部に依然として残っており、サッカーピッチというより沼地のように見える。 それでもやはり、ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボは運が良い地域であると言える。ボスニア・ヘルツェゴビナでは5月17日土曜日まで雨が降り続き、壊滅的な洪水と土砂崩れが起こり、人口400万人の国において推定50万人が家を失うこととなった。 倒壊、破壊された家屋、水に浮かぶ家畜の亡骸、取り乱した家族の様子が夜のニュースでひっきりなしに流されている。 ボスニア史上、2万人の難民を生み、10万人の命(その多くが一般市民であった)が奪われたボスニア戦争以来となる大参事だ。

ボスニア代表チームのバスは、選手が10時までにフィールドに出られるよう午前9時半の到着を予定している。 見知らぬ者をコーヒーに誘ったセナド(Senad)、ニハド(Nihad)、セアド(Sead)にはまだやらなければならないことがある。 

8時までに雨は止み、ニハドは旧式の手押し車にネットを載せてゴールに向かい、ゴールにネットをつるす。 セナドとセアドはチョークを置き、コーナー間のケーブルを引っ張り、線が真っ直ぐなことを確認している。 ダークブルーと黒のボマージャケットを着たがっちりした体型の警備員が、老若男女問わず希望と誇りに満ちた目をした約100人の歓声を上げるファンに出迎えられているバスを入れるためゲートを大きく開けた時、彼らはフィールドに最後の仕上げを加えているところだった。 旧ユーゴスラビアが産んだ史上最高のサッカー選手の一人であるサフェト・スシッチ(Safet Sušić)監督はスモーク窓の向こうで振り返り、軽く手を振る。サラエボから北へ100キロ(65マイル)先にある彼の出身地ザヴィドヴィチは洪水の被害を受けていた。

ドアが開き、16名の世界的に優秀なサッカー選手が降り立つ。彼らは練習用のユニフォームに身を包んでいる。 そこには、ミラレム・ピアニチ(Miralem Pjanić 24歳)、メンスール・ムイジャ(Mensur Mujdža 30歳)、アスミル・アヴドゥキッチ(Asmir Avdukić 33歳)、ヴェダド・イビシェヴィッチ(Vedad Ibišević 29歳)の姿があった。ミラレム・ピアニチはASローマ所属のミッドフィールダーでその甘いマスクからファンに「リトルプリンス(小さな王子様)」と呼ばれている。メンスール・ムイジャはドイツ・ブンデスリーガのSCフライブルクでディフェンダーを務める選手である。彼は故障から復帰したばかりだったが、ブラジルでのワールドカップに向けた代表選手枠からこの故障ではずれるところであった。ゴールキーパー、アスミル・アヴドゥキッチは海外でプレーすることを選択せず、ボスニアの2つの構成体のひとつであるスルプスカ共和国の首都バニャ・ルカでFKボラツのゴールを守っている。ヴェダド・イビシェヴィッチは予測不能なストライカーである。彼は戦争で祖父と20人の親戚を失っている。今はブンデスリーガのVfBシュトゥットガルトのスター選手である。

フィールドは美しく見える。滑らかで試合の準備が整っているように。 「僕ら3人だけしかいなかったけど、しっかり仕事を終えることができたよ」とセナドはまるで結果通りだったかのように言う。彼はグラウンド整備担当の中で最年少である。 「最後の数日間は仕事だけしていたよ。 これを実現するために全員が取り組んだんだ」

運命論で有名なバルカン半島にある近年不運に見舞われている国ボスニアにおいて、自信を持つことは稀なことだった、と一部のボスニア人は言う。 しかし、サッカーのボスニア代表チームがその概念を変えている。 

「ボスニア人とセルビア人には悲観的で絶望的になる傾向、すなわち負け犬の気質があります。 私達には楽観主義が不足しています」としゃがれ声のボスニア・セルビア人スポーツコメンテーター、マラヤン・ミハイロヴィチ(Marjan Mijajlović)は言う。 彼は2009年の試合期間中、サラエボを拠点とするFACE-TVで試合を流し、ボスニア代表チームに愛称を付けた人物だ。 その愛称が「ズマイェヴィ」すなわち「ドラゴン」だった。彼は19世紀のボスニアの軍事的英雄キャプテン・グラダシュチェヴィッチに因んでこの名前を付けた。キャプテン・グラダシュチェヴィッチは伝統的なボスニアのsevdah、すなわち民謡の中で「ボスニアのドラゴン」と呼ばれている。

 しかし色々な事が変わってきている、と42歳になったミハイロヴィチは言う。 「ジェコ選手を見て下さい。どれだけ彼が自信を持ってプレーしているか見てください」と28歳のエディン・ジェコ (Edin Džeko) を引き合いに出して言う。エディン・ジェコは2008-2009シーズンでVfLヴォルフスブルクをクラブ史上初のブンデスリーガリーグ優勝に導いた。2011年にマンチェスターシティに移籍し、3年間で2回のイングランドプレミアリーグ優勝に貢献した。 「負けないと信じていれば、負けないのです」

ボスニアがワールドカップの出場権を獲得したことがありえないと思わせる理由として、ボスニアが資源の乏しい小国であること、チームの構成に必要な候補選手が少ないこと、そしてそれ以上に、戦争が始まった時、選手の多くが子供であったことがあげられる。 当時子供だった彼らが今このサッカーに情熱を注ぐ国を史上初となるワールドカップ出場へ導き、喜びを心から必要とする国民に喜びを提供しているのである。 

しかし国民全員が喜んでいるわけではない。 ボスニアのルーツから離脱することを望むセルビアとクロアチアの民族主義者はボスニア代表チームに難色を示している。

ボスニア代表チームの大部分がボスニアムスリム人選手だが、カトリック教徒のクロアチア人選手や正教徒のセルビア人選手も数名含まれている。国際サッカー候補チームとして、そしてボスニアの民族主義者の対抗勢力として出現したこのチームは、ボスニアの異なる民族集団が力を合わせれば結果を出すことができることを証明している。 事実、セルビア人ミッドフィールダー、ズヴェズダン・ミシモヴィッチ(Zvjezdan Misimović 32歳)がチームの得点王であるムスリム人、ジェコをアシストし、チームで最も点数を稼ぐ最強のコンビを形成している。 現在ボスニア代表チームを応援するセルビア人、クロアチア人の数は増え始めている。また、一部の観戦者は平和維持軍や政治家、外交官、対外援助機関の関係者が実現できずにいること、すなわち「国の団結」をボスニア代表チームはできるのではないかと思っている。

「チーム内に民族の問題はありません。 チーム全員が一丸となっています」とエルヴィル・ラヒミッチ(Elvir Rahimić 38歳)は言う。彼はミッドフィールダーを務めるスター選手で、PFC CSKAモスクワで活躍しており、モスクワでは「The General(大将)」と呼ばれている。 彼は予選でボスニア代表としてプレーしたが、スシッチ監督は彼にブラジルでアシスタントコーチを務めるよう依頼した。 

「ボスニア・ヘルツェゴビナがボスニア代表チームのように機能しているところを見てみたいです。 きっと素晴らしいでしょう」とラヒミッチは言う。 「僕たちは相手[の国籍]が何か、名前が何かは見ていません。 そんなものは一切ないのです。 政治において政治家には代表チームがやってきたことと同じことをやってほしいと期待しています。 それがこの国にとってなによりも素晴らしいこととなるでしょう」 

トレーニング風景を非公開にする多くのチームと異なり、1日に2回2時間行われるボスニアのトレーニングセッションは公開されている。そして金曜日の午後、数百人のファンが弱い雨をものともせず、欠損したコンクリートの観客席に向かった。1500人を収容できる観客席には、 トラックスーツに身を包んだ子供達、青いベレー帽をかぶった中年から高齢の男性、ブランドもののデニムをはいた若い女性、小さな子供を連れた母親などがつめかけている。 高齢の紳士アシム・ズカノヴィッチ(Asim Zukanović)にいたっては、親知らずを抜いたその足でスタジアムに駆けつけていた。

ラヒミッチ、ボルス・スレイドジュベック(Borce Sredojević)、エルヴィル・バリッチ (Elvir Baljić) 、トミスラフ・ピプリカ (Tomislav Piplica) の4人のコーチを引き連れたスシッチ監督は選手達を4人一組のチームに分け、プラスチック製のオレンジと黄色の円盤で縁取られている30メートル×30メートル(33ヤード×33ヤード)の四角の上に立つように指示した。

「ゴールはない。 これは反応に関することだ」とスシッチ監督(58歳)は言う。 彼はホイッスルを吹き、選手の中央にボールを投げ込んだ。選手は瞬時に行動した。 

狭い空間でのペースは稲妻のように速い。 選手達は約5、10メートル離れたところから放たれた低く強いパスを巧みに集め、ディフェンダーに遮られる前に受け取ったパスと同程度の強さで近くのチームメイトにパスを出す。 ドリブルは一切ない。 選手達はボールを放すまでに1、2回しかボールに触れていない。 このレベルでは、3回ボールを触ると、ディフェンダーにボールが奪われ体制が崩されるのである。

緊張感が漂っているのは明確であった。 ピアニチがミスして高いボールを敵に与えてしまった時、彼は叫び、がくっと膝を落とし手で顔を覆った。 しかしすぐに立ち上がり、プレーを続けるためボールを追いはじめた。

絶えず行われる選手間のやりとりの中、スシッチ監督が大声で指示を出す。 「攻める方向を変えろ、頭を上げろ!」 「解決策をもっと早く見つけろ!」 「ボールをずっと持っているんじゃない!」 ブンデスリーガのクラブであるシャルケ04所属のディフェンダー、セアド・コラシナツ(Sead Kolašinac 20歳)がパスを出さずに長い間ボールを持っていたため、ディフェンダーにボールを奪われた時、スシッチ監督は叫んだ。「ボールに挨拶でもしていたのか?」

FKサラエボ、パリ・サンジェルマンFC(彼はこのクラブに所属していた頃、ファンによってフランス人ではない選手の中で最優秀選手に選ばれた)、そしてユーゴスラビア代表の選手として素晴らしいドリブルを見せてきたスシッチ監督がそのようなことを言ったのは皮肉であった。 彼の功績はYouTubeで見ることができる。また、彼の技術を称えるボスニア語の歌まで存在する。タイトルは「Not Alone, Safet(サフェト、君は一人じゃない)」である。 

スシッチ監督は、多くのゴールにつながる攻め主導のクリエイティブで見ていて楽しいサッカープレーを浸透させたことで高い評価を得て、これにより、ボスニア以外の国のサッカーファンの間で人気のボスニア人選手となった。 事実、欧州予選でボスニアは30ゴールを奪取し、イギリス、ドイツ、オランダの後を追う唯一のチームである。 「彼らは常に攻撃のチャンスを狙っている」フランスの日刊スポーツ誌『L’équipe』の記者リュック・アジェージュ(Luc Hagège)は言う。彼もまたスシッチ監督を見て育ち、スシッチ監督のプレーを見てサッカーファンになった一人である。 

サッカーはボスニアの文化の重要な部分で、都市部にも郊外にも正式な大きさのサッカーコートやミニチュアのサッカー場がたくさんある。 サッカーは19世紀後半、オーストリア=ハンガリー帝国の兵士によって紹介され、第一次世界大戦前に最初のクラブが誕生した。 第二次世界大戦後、1990年に国が分裂するまでユーゴスラビアがサッカー強豪国となった。同国は14回行われたワールドカップのうち8回出場を果たしており、このうち2回は準決勝まで勝ち進んでいる。 スシッチ監督の前には、ヴァヒド・ハリルホジッチやアシム「ハセ」フェルハトヴィッチが活躍していた。パリ・サンジェルマンの選手であったハリルホジッチもアルジェリアの監督としてワールドカップに出場予定である。フェルハトヴィッチは、ドリブル技で有名であったサラエボ代表選手で、彼に敬意を表した歌「The Sunday That Hase Left(ハセが去った日曜)」をバックにした彼のスキルを称える記念動画がYouTubeにアップされている。

それらが、戦争が勃発するまでに現在のボスニア選手の世代が受け継いだ遺産である。 戦争が始まった時、現ボスニア代表選手の多くが子供だった。 何人かの選手は狙撃兵や砲撃に脅えながらボスニアで育ち、他の選手は家族と共にボスニアを去っている。そしてボスニア以外の地で生まれた選手がわずか数名いる。

インタビューの中でジェコは砲撃によってどのように彼の家族の家が崩壊したかを語った。 これにより、彼はすでに別の場所に移動していた家族のいる家に引っ越すことを余儀なくされた。 

イビシェヴィッチ(29歳)は『ESPN Magazine』誌の5月号で7歳の頃、当時住んでいたジェロビ村の外れにあった森の中に彼の母親が穴を掘り、そこに隠れ、眠っていた妹が目を覚まして、数百メートル先で一軒一軒捜索を行っていたセルビアの準軍組織の戦闘員の注意を引かないように祈っていた、と当時を振り返っている。 彼の家族は2000年にボスニアを離れ、スイスに短期間滞在した後、ミズーリ州セントルイスに移住した。セントルイスはボスニア外で最もボスニア人人口が多いボスニア人にとっての故郷である。 

2003年セントルイスで、全米大学体育協会(NCAA)はNCAAの最も評価の高い第1部(Division 1)のサッカー選手のリストに当時まだ新入生であったセントルイス大学の選手を載せた。 これは、ショートヘアーがグレーに変わり始めたイビシェヴィッチが全米サッカーコーチ協会(National Soccer Coaches Association of America)により全員がアメリカ人の第1群チームに選ばれ、Conference USAにより最優秀新入生(Freshman of the Year)に選ばれた後のことである。 

イングランドのストークシティのゴールを守るアスミル・ベゴヴィッチは (Asmir Begović)、イングランドプレミアリーグで上位3位に入るゴールキーパーと言われている。ベゴヴィッチは3歳の時に家族と共にボスニア南部を離れている。そしてドイツで難民として初めてグローブを着けた4歳の時には、父親のようにプロのゴールキーパーになりたいと確信していた。 彼が10歳の時、家族はカナダのエドモントンに移住した。そこで彼は野球やバレーボール、バスケットボールやテニスもプレーしていた。

ベゴヴィッチはこれまでの人生を冷静に受け止めている。 「家族がバラバラになる可能性もありましたが、幸運なことに、皆一緒にいることができたんです」26歳のベゴヴィッチは結婚し、小さい娘の父親である。 「人生が僕たちに与えたこととして受け止めました。物事には必ず理由があります。 そしてそういう姿勢でいることが、あの時僕たちにとって一番良い方法だったと思います。 人よりも少し多く責任感に対処する必要があり、間違いなくこの経験によって、僕は人より少し速いスピードで成長できたと思います」

ベゴヴィッチは、ボスニア代表チームに加わる前、他の国の代表ユースチームでプレーしていた9選手のうちの一人としてカナダのU20(20歳以下)のチームでプレーしていた。 フランス、ドイツ、スイス、またはその他の国で難民として育った彼のチームメイトがボスニア代表としてプレーするか、自分が育った国の代表としてプレーするかを決めることは簡単だったと言う一方、ベゴヴィッチにはじっくり考える時間が必要だった。

「カナダにはお世話になった人や友達がたくさんいました。 僕の人生にとってカナダでの生活はとても重要な部分でした。カナダを選ばないことは苦渋の選択でした」とベゴヴィッチは言う。彼の両親は、家でボスニアの言葉を話し、ボスニアの言葉で本を読み、ボスニアの料理を振る舞う一方、ベゴヴィッチがカナダの生活に溶け込むことを後押ししていた。 「でも、ボスニア代表になること。それは僕にとって断れない依頼でした。 ここには僕の家族がたくさんいます。そして家族とはこれまでの経験を共有できます。 僕はここで生まれたのです。それは非常におおきなつながりです」 

サラエボから北西75キロ(47マイル)にあるゼニツァの国際サッカー連盟(FIFA)によって承認された新しいフィールドとトレーニングセンターの隣の丘の上の牧草地で9歳の少年アーファン・バンデラック(Irfan Vugdalić)はアーネル・アルナウトヴィッチ(Arnel Arnautovic)(11歳)とサッカーボールで遊んでいる。7月のワールドカップでボスニアが優勝したら、この場所にたき火を起こしてお祝いするんだ、と9歳のアーファン少年は話す。 この丘の上からはゼニツァの中心街にあるビリノポリェ(Bilino Polje)スタジアムを見下ろすことができる。このスタジアムはボスニア代表チームが4対1でワールドカップ予選試合に勝利した場所である。 スタジアムの西の端からカトリック教会の尖塔がそびえる。尖塔は東の端を見下ろしている。そしてもくもくと煙を出す鋼工場の塔からそびえる大煙突が両方の尖塔の上に見える。

アーファンの父親、38歳のスワーダ(Suad)には別の夢がある。 「ここを離れるチャンスがあれば、この国から離れます。 考える必要すらありません」と言う。

彼は息子と一緒にほぼ毎日サッカーをしにフィールドに出かけているが、壊滅的な大雨を記録した前日にあたる今週の月曜日の午後、彼らはいつもより早い時間にここに来ていた。 約1時間前、3時半頃、金銭と民族に関する落書きを巡る口論の末、ある男が別の男を銃殺していた。

しかしながら、スワーダ・バンデラックは、地元市民が誇りを持って「ドラゴンの巣」と呼ぶゼニツァがボスニア代表サッカーチームの試合を主催した時、生活は良くなってたことを認めたと言う。 それはリヒテンシュタイン代表相手に行われた最終予選のことだ。

「誰も家にいなかったよ。 みんな通りに出ていた。 それなのに何の問題もなかった。 そこには幸せしかなかったよ」とスワーダはその日のことを振り返る。 「誰も仕事がないことや、仕事のこと、誰が何の宗教かなんて考えていなかったよ」 

「あの瞬間、みんな仲良く暮らしていた時代に戻った気がしたよ。 ボスニア代表のユニフォームを買っているバニャ・ルカやビイェリナからきたセルビア人さえ見かけたよ」 

「数年前には想像もできなかったことだったわ」と彼の妻アルネラ(Arnela)は言う。 「多くの人がボスニア・ヘルツェゴビナをひとつの国家だと信じ始めたんです」 

彼らの強さ以外に選手達がボスニア国民を引き付ける理由は、彼らもまた国民と同様、戦争や難民であることの辛さを経験していることである。 同時に、ボスニアで苦しい生活を経験し、ボスニアに友人や家族を持つ選手達は、多くのボスニア国民が今なお苦しい生活を余儀なくされていることを理解している。 事実、スタジアムから選手達が滞在しているホテルヘルツェゴビナ(Hotel Herzegovina)までのチームのバスからは、国民の生活の苦しさを日常的に見てとることができる。選手達は農場で農場労働者が体を丸めてうずくまっている姿や、片足を失った男性が松葉づえでよろよろと歩く姿、青白い顔をした高齢の女性が物乞いしている姿、野良犬があらゆる場所で徘徊している様子などを目の当たりにしているのだ。 これが彼らを堅実なチームにしている。そして練習の合間にホテルで選手達は快くサインや写真を求める熱狂的なファンに受け答えしている。

「戦争中、国民がどんな経験をしたか僕たちは理解しています」とセニヤド・イブリチッチ(Senijad Ibričić 28歳)は言う。ミッドフィールダーを務める彼は5人兄弟の末っ子で、ザグレブの外れの難民キャンプでサッカーを学んだ。 「サッカーは心に幸せをもたらすスポーツです。そしてその幸せが僕たちに闘争心を与えているのです」

選手達は別の方法で援助することも試みている。 ベゴヴィッチは基金を作り、ボスニアとイギリスに子供達のためのレクリエーション施設を建設している。一方、ジェコは彼のゴールのニュースとほぼ同じくらい慈善活動に関するニュースで話題となっている。 トレーニングキャンプの半ばを過ぎた頃、選手達は北部グラダチャツで、ボスニアのU21(21歳以下)の代表選手を相手に資金集めの試合を行った。 地元紙では、グラダチャツに行く途中でピアニチが薬局に立ち寄り洪水の被災者のために物資を購入したことが報じられた。 日曜日の練習の合間には新しい骨髄移植専門の病院のための資金を集める24時間番組に電話出演した。 

1時間話した後、ラヒミッチ、コラシナツ、アヴドゥキッチ、そして控えのゴールキーパーであるヤスミン・フェイジッチ(Jasmin Fejzić 28歳)はエスプレッソを飲みに外へ出た。 彼らはゼニツァのチームFKチェリクの様子についてホテルのウェイターと話しをした。週末に予定されていたFKチェリク対サラエボの試合は洪水の影響で中止となっていた。 

選手達はボスニアにとって初となるワールドカップで国を代表して出場することが試練であることを理解しているが、彼らは自信に満ち溢れている。 「これを乗り越えるには、リラックスして楽しむことだけが必要です。恐れてはならないのです。 僕たちは素晴らしいチームであることは、僕たちが一番わかっています」とイゼト・ハイロビッチ(Izet Hajrović 22歳)は言う。ミッドフィールダーを務める彼はスロバキアとの試合でゴール前25メートル(27ヤード)から豪快なゴールを決めチームを勝利に導いた選手である。彼のゴールによりボスニア代表はグループトップとなり、リオへの切符を手に入れた。 

選手達の姿勢は、多くのボスニア国民に感染した。

「彼らは子供達に自信を与えてくれています。 ボスニア人には才能があり、成功を手にするには、一生懸命努力する必要があるということを示してくれています」とメンスール・ミラク(Mensur Milak)は言う。彼はゼニツァにあるMak Dizdar小学校の校長を務める人物だ。 「これはボスニア・ヘルツェゴビナにとってはとても大きなことです。 その影響はサッカーを超えています」

才能と努力がこの選手達を団結させているが、成功するためにはぴったりと合う相性が必要不可欠だと選手全員が言っている。 そしてそれはムスリム人、ボスニア・セルビア人、ボスニア・クロアチア人の3人のコーチから始まっている。

「僕たちの関係は強い友情、誠実さ、尊敬に基づいています。そしてそれが絆、結束、労働精神を築くことに役立ちました」とアシスタントコーチであるスレイドジュベック(56歳)は言う。彼はセルビア人だ。 選手として成功するには、「友達として見られる必要がある」と彼は言う。

しかしぴったりと合う相性を維持することは、言うほど簡単ではないことがある。特にブラジルでの試合に優勝し、国を盛り上げ、願わくは分裂した国を団結させなければならないというプレッシャーの下ではなおさらだ。 2月にボスニアがエジプトとの親善試合で負けた時、ロッカールームで「混乱」があったことをエルミン・ビチャクチッチ (Ermin Bičakčić) は認めている。彼は5月後半1899ホッフェンハイムと契約したディフェンダーだ。トレーニングセッション中、時にピリピリした空気が流れ、選手同士が衝突して倒れ、足首に掴みかかる場面があり、観客は緊迫のあまり息をのんだ。 

スロバキア代表とのワールドカップ予選試合で、同点から逆転ゴールを決め、2対1でチームを勝利に導いたビチャクチッチ(24歳)は、チームがあらゆる脅威を一致団結するために制御していると信じている。 「チームとして僕たちは成長しています」と流暢なドイツ語で彼は言う。 「ひとりで勝てる選手はいません。 そして僕たち全員が、困難を乗り越えてきた人々のために何かをしてあげたいという大きなモチベーションを持っています。 このモチベーションがチームの相性を生み出しているのです」

「誰にでも物語があります。 そして誰にでも思い出があります。 もちろんそれらはすべて過去のことですが、僕たちは自分が生まれた場所を決して忘れることはありません」

水曜日の朝、Stadion FK Famos(スタジアムFKファモス)は太陽の光を受けキラキラと輝いていた。 向かい合って2列に並んだ選手達は、線の最後まで全速力で走りきる前に、パスを出し合っていた。 彼らの足は素早く動き、集中していることが表情から読み取れた。 チームメンバーがお互いのリズムを把握し、正しい瞬間に線から外れることを目的とした練習だ。 一歩でも早すぎたり遅すぎたりするとタイミングが崩れてしまう。

「チームワークは大切だ」とスシッチ監督は選手に言う。

ディフェンダーのムハメド・ベシッチは、所属クラブであるブダペストのフェレンツヴァーロシュの試合があったため数日前にチームに合流したにも関わらずチームに溶け込み、切れの良いプレーをしている。 スシッチ監督は21歳のベシッチをチームの中で、ワールドカップの第一戦となるアルゼンチンとの試合でリオネル・メッシをカバーできるのは彼しかいないと断言している。リオネル・メッシは世界最高の選手であることはほぼ間違いない。

ベシッチはベルリンのティーアガルテンというチームのユースの練習試合に初めて出る前に緊張したことを思い出す。ベルリンは彼の出身地だ。 しかし、与えられた使命にも関わらず、今のベシッチは緊張とは程遠い状態にある。 

「メッシ相手にプレーすることについては考えていません。 僕は彼を他の選手として見ています。 僕はただ試合に集中するだけです」とベシッチは言う。彼の腕には、「ママ」、「パパ」、「ファルク(Faruk)」(彼の弟)、そして「ファレシチ(Falešići)」の文字のタトゥーが彫られている。ファレシチは、サラエボから150キロ(95マイル)北にある彼の家族の出身地である。 ボスニアに勝ち目はないと言われているが、ベシッチは自分達のチームが勝つと信じている。

「勝つためにプレーしないなら、なぜサッカーをするのですか」と彼は言う。様々な民族が暮らすこの若い国家の最大の希望はベシッチと仲間のドラゴン(ボスニア代表の愛称)と共に立ち上がることだということを意識しているのは間違いない。

オマール・サツィルベイ(Omar Sacirbey) オマール・サツィルベイosacirbey@hotmail.com)は、「Religion News Service」の派遣記者であり、ボスニア戦争(1992年~1995年)中は外交官を務めていた。 1967年にアメリカに移住したボスニア難民の息子として、サッカー大好き少年として育った彼は現在ユースサッカーのコーチを務める。
ハリス・メミヤー(Haris Memija) ハリス・メミヤーharismemija@gmail.com)は主にXinhua News Agencyのために仕事を行っているサラエボのフォトジャーナリスト。Corbis Imagesの代表でもある。


 

This article appeared on page 16 of the print edition of Saudi Aramco World.

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