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巻 65, 号 42014年7月/8月

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ルネサンス期におけるレバノンの太守 // テッド・ゴートン(Ted Gorton)著 - この1787年の版画は、アミール・ファフル・アッディーン・マーン(Amir Fakhr al-Din Ma’n)が自身を描画することを許したとされる唯一の肖像である。
Giovanni Mariti, istoria di faccardino, grand-emir dei drusi (frontispiece).
この1787年の版画は、アミール・ファフル・アッディーン・マーン(Amir Fakhr al-Din Ma’n)が自身を描画することを許したとされる唯一の肖像である。

他の国と同様に、レバノンにもその起源に関する物語がある。 中でも、アミール(太守)ファフル・アッディーン・マーンの物語は色彩に富んでおり、なおかつ論争の的となってもいる。 1572年に生まれ、1635年に反逆罪で処刑されたファフル・アッディーンは、多くの子供たちにとっては「国家の父」であり、作家アジズ・アル・アハダブ(Aziz al-Ahdab)は「近代レバノンの設立者」とも称されている。その一方で、歴史家カマル・サリビ(Kamal Salibi)はファフル・アッディーンを単なる「実力者」にまで評価を下げ、近代国家への貢献は王室関連の偶発的なものだったに過ぎないとしている。 しかし、どちらの見解にしても、西洋に行くアラビア人がほとんどいなかった時代にファフル・アッディーンが西洋に旅行したという事実を過小評価している、と言わざるを得ない。その旅行が、たとえ状況に強いられたものだったとしてもである。 

彼の人生は、大きな痛手から始まった。 1585年、ファフル・アッディーンが13歳の時、オスマン帝国の総督であったイブラーヒーム・パシャ(Ibrahim Pasha)は、南レバノンのシェーフ山地(Shouf Mountains)に軍を率いてやってきた。この土地は、1516年にオスマン帝国がシリアを攻略する前からファフル・アッディーンの祖先であるドルーズ派の名望家マーン家が支配していた土地であった。 イブラーヒームは、反逆を繰り返す ドルーズ派を罰するようにという命をくだした。その頃、ドルーズ派はオスマン帝国の支配に苛立ちを示していた。 ファフル・アッディーンの父親であるアミール・クルクマズ(Amir Qurqmaz)は、何百人もの他のドルーズ派の人々と共に処刑された。 この少年は、突如として打ちのめされた領土における指導者の後継者となってしまった。うずまく敵意の真っただ中で。 

予想に反し、母親や弟ユヌス(Yunus)の助けを得たファフル・アッディーンは、商業、戦い、結婚、貢物、およびその他の手段を講じて徐々に勢力を回復させていった。 彼が青年になるころには、マーン家はベイルートから東はパルミラ、そして南はガリラヤにいたるまで勢力を広げていた。

イングランド、フランス、スペイン、オランダの公国、ジェノバ、ヴェネツィア、トスカーナは東の地中海貿易をめぐって抗争を繰り広げ、レバノンおよびシリアではマーン家や他の勢力が互いに、そしてオスマン帝国の総督らと鍔迫り合いを繰り返していた。 トスカーナ大公フェルディナンド1世・デ・メディチ(Ferdinando I de’ Medici)は、この攻防への活路を見出すべく、1608年、ファフル・アッディーンと同盟を結んだ。 この同盟により、トスカーナはヴェネツィアおよびジェノバに対する力を強めることができ、ファフル・アッディーンはイスタンブールでの地位を強固にすることができた。フランスには、オスマン帝国の港において貿易を行う独占権を得る「特権」が付与されていた。 同盟が憎しみを招く危険性があることが十分に認識されており、イスタンブールが強固に反対をした場合には、ファフル・アッディーンをメディチ家の隠れ家にかくまうことを保証する条項が条約には組み込まれていた。

フランスの地図

1610年、オックスフォード大学の学者であったジョージ・サンズ(George Sandys)はレバノンを訪れ、興隆するファフル・アッディーンの人物像について初めて描写した。 

体は小さいが、勇敢で多くのことを達成し、40歳になるころには(38歳)その狡猾さはきつねのごとく、それでも君主的な傾向はなかった。 母親の同意なしに戦いを始めたり、重要な策略を実行したりすることは決してなかった。 

彼の人物像に関する他のソースにも、ファフル・アッディーンは背が低く、ずんぐりしており、強靭で、明るく、品がありつつも気取っていない人物であったこと、澄んだキラキラ光る目をしていて、しし鼻(少なくてもわし鼻ではない)で浅黒い肌をしていたこと、チェスや乗馬に非常に熟達しており、植物学や天文学に興味を示していたことなどが言及されている。 (ファフル・アッディーンは非常に背が低く、トリポリの宿敵であったサイファ家は、「卵がポケットから落ちても割れない」とからかっていた。)また多くの文献では、ファフル・アッディーンは、戦いにおいては怖いもの知らずで、すべての人に対して寛大で、撃破した的に対しても憐れみを示したこと、友情を大切にしたこと、庶民に人気があったこと、政府においては公正でありつつも、司法においては執念深く厳しかったことで一致している。 

サンズの訪問から3年後、ファフル・アッディーンによるイスタンブールに対する圧力が限度を超えた。 息子であるアリ(Ali)が、現在のシリア・ヨルダン国境近くの町、ムザイリーブでダマスカスを拠点とするトルコ兵を撃破した。 オスマン帝国は、これをマーン家による影響が許容できないレベルに到達したことのサインと見なした。 同時期、ペルシャとの争いが一時休止状態となったため、スルタンは報復する(そしてそれ以上の攻撃を行う)ための軍を派遣した。 

1585年に父親が処刑された懲罰的遠征が忘れられないファフル・アッディーンは、1613年9月半ばにサイダで協議会を開いた。 ほぼ確実である死を覚悟の上で戦うか、または逃げるかの選択が迫られた。5年間有効の条約をトスカーナが守ってくれることを期待していた。 オスマン帝国群が迫ってくる前に、ファフル・アッディーンと約100人の家来は3隻の船(1隻はオランダ製、2隻はフランス製)に乗り込んだ。 彼がこの航海に選んだのは、当時としては驚くべき混成集団であった。 乗船したのは、ドルーズ派、イスラム教スンナ派(主任顧問ハジ・キワン(Hajj Kiwan)を含む)、マロン派キリスト教徒、およびユダヤ人2名(友人かつ秘書であったアイザック・カロ(Isaac Caro)を含む)、 そして妻のカシキヤ(Khasikiya)とまだ赤子であった娘であった。

その目的地は、 イタリア半島の北西に位置し、トスカーナ大公国の主要な港であるリヴォルノだった。 フェルディナンドI世は条約締結の1年後に亡くなっており、息子のコジモ2世(Cosimo II)が後継者となっていた。 

1608年にファフル・アッディーンと条約を締結した1年後に亡くなったとはいえ、トスカーナ大公フェルディナンド1世・デ・メディチはファフル・アッディーンをトルコをバイパスする海商の同盟国とみなしていた。 
ブリッジマン画像(詳細)
1608年にファフル・アッディーンと条約を締結した1年後に亡くなったとはいえ、トスカーナ大公フェルディナンド1世・デ・メディチはファフル・アッディーンをトルコをバイパスする海商の同盟国とみなしていた。 

航海は50日にもおよび、嵐による危険にさらされた。嵐のため、フランスの船はファフル・アッディーンの乗った船より3日遅れて到着した。また海賊も「大砲や格闘」による脅しで乗組員たちに航海をやめさせようとするのだった。 

ファフル・アッディーンが到着した時、23歳の大公コジモ2世はフィレンツェで現在のオペラに相当する観劇を鑑賞していた。 幸いにも、フェルディナンド1世の未亡人でコジモII世の母親である大公妃クリスティーヌ・ド・ロレーヌ(Cristina di Lorena)がリヴォルノにいた。 数日後、ファフル・アッディーンとその側近たちはピッティ宮殿での王室歓迎会に招かれ、大公妃により「亡くなった夫の愛した人」として歓迎された。 

そして、そのようにして驚くべき5年間の滞在が幕を開けた。 メディチ家は、権力の回復が実現した場合に将来性があり富をもたらす市場を提供してくれる亡命者たちのホストとなることを喜んで引き受けた。 ファフル・アッディーンとその側近たちは、オスマン帝国からヨーロッパのキリスト教の土地に自ら進んでやってきた数少ない非キリスト教徒だった。 このような珍しい状況は、時代の流れにおける産物に他ならなかった。ヨーロッパのイスラム教徒やアラビア人に対する寛容性と比較して、オスマン帝国の支配下であったレバント地方ではキリスト教徒の旅行者、商人、および移住者をより歓迎する傾向があった。

ファフル・アッディーンの人生におけるこの時期に関して私たちが理解している情報のほとんどは、ファフル・アッディーンの亡命に同行していたか、または1618年に彼がシェーフに戻った後に彼の口述筆記をしたと思われるアハマド・アルカリディ・アルサファディ(Ahmad al-Khalidi al-Safadi)による年代記が元になっている。 実際的かつ社会的観察により、レバント人のレンズから見たルネッサンス期のヨーロッパは、非常に独特なものとなっている。 

大公の毎日の収入は8,000スクードであったと言われているが、これは国家の総収入であり、すべてが大公の所有となったわけではない、と言う学者もいる。また、大公の年収が100万ピアスターであったとも言われている。実際、大公の王朝は古いものではなく、その歴史は100年ほど前、ヒジュラ歴900年(1494年10月、フィレンツェ共和国は1532年に設立)にさかのぼる。 メディチ家はもともと医者であった(「メディチ」は医者の意)。

フィレンツェの北の高台に、大公は広大で印象的な大邸宅を持っていた。周囲は庭園、水辺となっていた。庭園の地下には鉄の水道管が埋め込まれており、庭園に入ってきた人を驚かせたいときには、水道管を開いて頭のてっぺんからつま先までびしょ濡れにさせることができた。庭付きの邸宅をあちこちに持っていたのは、季節に応じて家族と共に3ヶ月を過ごすためであった。冬の3ヶ月は海岸で、夏は田舎の高台で、春と秋の3か月はその中間地点(狩りができるところ)で、といった具合だ。

領地は統制がとれており、繁栄した規律ある土地だった。「Gran Duca」という称号は、アラビア語で「太守」または「王子」という意味がある。キリスト教徒の土地においては、たくさんの公国が存在していたのだ。 この大公は他の大公よりも優れており、キリスト教徒の土地の王やスルタンの多くが書簡を送り、相当の敬意を表したとも言われている。 

実際、休暇の時でもありビジネスの時でもあった。 アル・サファディは、1614年のカーニバル前夜のフィレンツェを次のように描写している。 

カーニバルの宴会が始まったのは、ちょうど長期におよぶ断食(レント、四旬節)が始まる直前だった。 いろいろな色に染めたマスクを被り、さまざまなゲームや娯楽を行って祝った。 くり抜いた卵にローズウォーター、または純水を詰め、互いに投げ合った。大の大人たちが、時には女性にも卵を投げた。 杭にヘルメットが括り付けられる。騎手は全速力で疾走し、やりでヘルメットを打つ。やりの先端はとがっておらず、ヘルメットの当たった場所に印をつけるための鉛の塊、三角旗がついているため、やりの下の部分をつかむ。 ヘルメットのアイピースを打つことができた騎手が賞を獲得する..... 

夜には、他のゲームが行われる。奥の壁にタペストリーが飾られた巨大なホールでは、男性も女性も一緒に踊り明かす。タペストリーには、空か赤く染まった夕焼け、そして空を横切る天使が描かれており、まるではるか遠くにあるような錯覚さえ感じる。 フロアにはローラーがあり、下にはシーブルーの布が上下して、まるで海の波のようになっている。その上を船が素早く横切る。15人ぐらいのハンサムな若者たちが飛び込んでいき、踊り、スピーチを行う... 

トスカーナの主要な港であったリヴォルノの情景を描いたこの絵画は、ファフル・アッディーンが亡命した数十年後に描かれた。
Abraham Storck(アブラハム・ストーク) / Rafael Valls gallery(ラファエル・バルス・ギャラリー) / ブリッジマン画像
トスカーナの主要な港であったリヴォルノの情景を描いたこの絵画は、ファフル・アッディーンが亡命した数十年後に描かれた。

太守に関するメディチ家の記録はここまで鮮明なものではないが、ファフル・アッディーンがピサを訪問した時のメディチ家の代理人は、ファフル・アッディーンが「キリスト教に見られる習慣や慣行に異常な興味を示した」と述べている。 ファフル・アッディーンは、日々、ヨーロッパから権力復帰への支援を受けるべく奮闘し、ヨーロッパの海軍および兵站支援を得てファフル・アッディーンが軍の指揮を執り、レバントへ侵攻することを提案することまでした。 大公、フランス大使、そして法王パウルス5世(Paul V Borghese) との会合が開かれ、会合にはメディチ家の通訳が随行した。 キリスト教の同盟国との最も興味深い政治的達成は、オスマン帝国支配からのエルサレムの復興にも劣らないものであっただろう。 だが、少なくとも100年は遅すぎた。 ヨーロッパにおいて十字軍に加わる熱が高まる中、商業へ、そして三十年戦争へとつながる緊張へと時代は進んで行った。

トスカーナで2年を過ごしたころ、スペイン人のシチリア太守(オスナ太守、Duke of Osuna)からメッシーナに来るようにとの招待を受けた。 メディチ家と同様、オスナはレバント地方における商業的 野望を進めていくのにファフル・アッディーンが役立つと考えていた。ファフル・アッディーンは、彼が権力を回復するうえでこれまでのメディチ家よりオスナのほうが有用であることを期待していた。 1年後、オスナはナポリ総督に昇進した。ファフル・アッディーンとその一行もついて行った。敵がイスタンブールを支配しており、帰ることができなかったのである。 さらに2年間、ファフル・アッディーンはそこにとどまった。シリアにおける権力の座につくことを可能にする重要な侵略に関して夢見ながら。 

ファフル・アッディーンはホームシックになった。恐らく年老いた母を思ってのことだろう。彼女はファフル・アッディーンの弟ユヌスと共におり、国内戦線を統制しつつ、マーン家とその支援者を報復から守っていた。 

左: コジモ2世・デ・メディチは、大公の地位を父親から継承した時、18歳であった。コジモ2世の家庭教師は、ガリレオ(後にファフル・アッディーンと同様にメディチ家を避難所とすることになる)であった。 右: コジモ2世は、妻でオーストリア大公の娘マリーア・マッダレーナ(Marie Madeleine)、息子フェルディナンド2世にの間に描画されている。  
左:ヤコポ・ダ・エンポリ(Jacopo Da Empoli) / パラッツォ・コムナーレ(市庁舎) / ブリッジマン画像(詳細);右:ユストゥス・スステルマンス(Justus Sustermans) / ウフィツィ美術館 / ブリッジマン画像(詳細)
: コジモ2世・デ・メディチは、大公の地位を父親から継承した時、18歳であった。コジモ2世の家庭教師は、ガリレオ(後にファフル・アッディーンと同様にメディチ家を避難所とすることになる)であった。 : コジモ2世は、妻でオーストリア大公の娘マリーア・マッダレーナ(Marie Madeleine)、息子フェルディナンド2世にの間に描画されている。  

1618年後半、最大の敵であった宰相ナスフ・パシャ(Nasuh Pasha)が処刑されると、ファフル・アッディーンの前途は明るくなった。後に彼は、新星アリ・パシャ(Ali Pasha)から手紙を受け取る。アリ・パシャは、ナスフ・パシャの処刑後宰相になった人物で、長年の個人的同盟者でもあった。 アリは、ファフル・アッディーンに帰還を進め、サイダ、ベイルート、およびジュベイルの総督となる申し出を受ける。 ファフル・アッディーンは、まさに出発しようとしていた。その時の様子をアル・サファディは次のように描写している。 

大公の助言者らの中には、キリスト教の土地について観察し理解した今、イブン・マーンを地元に返すのは賢いことではない、と提言する者もいた。それで、大公は船に書面による航海許可を出すことをためらっていた。航海をする場合には航海許可を取得することが慣例になっていたのだ。

ファフル・アッディーンの家族、側近、そして荷物がすべて船に積み込まれていたが、この状況は8日間続いた。ついにファフル・アッディーンは、大公の通訳であるカルロに船に乗るように言った。 彼が乗船すると、ファフル・アッディーンは購入した火薬の樽を持ってきて妻をその上に座らせると、通訳にこう言った。 「大公が我々を再び船から降ろそうとするなら、女や子供たちと国へ帰る希望を持つことはもはやできない。大公の決定に絶望するようなことがあれば、火薬に火をつけ女も子供も共々吹き飛ばしてしまうことにする」 ファフル・アッディーンは船を降りると、大公に以下のような決定的な言葉を告げた。 「我々は貴殿の許可を受けて、家族や荷物共々船に乗り込んだ。 今日で8日目となっており、我々はラマダンの断食にこの暑さで苦しんでいる。 直ちに航海許可をだしていただくよう要求する!」 大公の妻がこの言葉を聞くやいなや、夫に対して「乗船する許可を出したのであれば、約束はお守りになり、船に乗船している者や家族共々、出発する許可を出すべきなのではないでしょうか」と述べたのである。 ついに大公は、「いいだろう。明日、許可を受けることになる」と口を開くことになった。ファフル・アッディーンは出発する前に大公に会って感謝を告げた。これはヒジュラ歴1027年(1618年9月6日)、ラマダンの最中のことであった。 

イタリアでは、権力を回復させる支援を獲得するため、オスマン帝国の支配するレバント地方のヨーロッパによる侵略を提案することさえしていた。ファフル・アッディーンは、帰還後約10年間、マーン家の権力を強化し、防衛構造および民間構造の形成・回復に力を注ぎ、経済的発展に尽力した。1625年までには、アナトリアの外側のレバント地方の大部分、アレッポ及びダマスカス、ベイルートからガザまでの沿岸地域が領土となっていた。 彼はイタリア語を習得しており、趣味の1つであった植物学に関する専門書の翻訳も行った。

貿易が発展するにつれ、スルタンにより公式にフランスの独占権が認められていたにも関わらず、ファフル・アッディーンはメディチ家からの贈り物を受け取り続けていた。 贈り物として受け取ったものを見ると、それが単なる政治的意味合いのものではなかったことがうかがえる。フィレンツェのメディチ家のアーカイブには、贈り物には銀製品、宝石、そして注目すべきことに「長くて木製のケースのついたガリレオの望遠鏡」があったことが記されている。 この時代、ガリレオはメディチ家の保護を受け、トスカーナのヴィラ・ベッロズグアルド(Villa Bellosguardo)に住んでいた。 

ファフル・アッディーンは、ベイルート、そしてデイル・エル=カマールに邸宅を、パルミラに城を建造した。またサイダにはカーン(マーケットホステル)を作った。これはサイダに現在も残っている。 アッカー(アッコ)の聖ヨハネ騎士団の城を復元し、ベッカー高原の北部カアからゴラン高原のバーニヤースまでの領土を囲む十字軍要塞および奴隷要塞を強固にした。 

拡大を広げる方針、そして港の高官らへの賄賂の出し惜しみにより、彼は再びオスマン帝国の許容限度を超えていった。 年代記編者であったアル・サファディは1624年に亡くなり、ファフル・アッディーンの人生の残りの部分について知られていることの大部分は、アル・ブリニ(al-Burini)、アル・カラマニ(al-Qaramani)、およびシャムズ・アド・ディン・イブン・トゥルン(Shams ad-Din ibn Tulun)などのオスマン帝国の歴史家によるものである。これらの歴史家全員が、ファフル・アッディーンが反逆者、および異端者であったという表向きの見解を示している。 

転換点は1632年にやってきた。この年、オスマン帝国軍はペルシャからバグダッドを奪うことに失敗し、ベッカー高原で冬を過ごすつもりであるということを伝えてきた。 ファフル・アッディーンは、この件について依頼されるというよりは、単に通達を受けたことに激怒した、と言われている。恐らく、オスマン帝国軍が自分の裏庭で冬を過ごすことを警戒したのだろう。 彼は兵士を派遣し、アレッポの反対側、さらに北にあるあまり快適でない地区に戦に疲れた軍を撤退させた。 司令官がイスタンブールに苦情を述べたのは驚くべきことではない。これは、オスマン帝国の我慢の限界であった。 スルタンムラト4世がバグダッドを奪えないとしても、少なくてもドルーズ派の成り上がりの首ぐらいは奪うことができたのだ。

ファフル・アッディーンの美化された蝋人形は、レバノンのデイル・エル=カマールにあるファフル・アッディーンの邸宅に展示されている。
テッド・ゴートン
ファフル・アッディーンの美化された蝋人形は、レバノンのデイル・エル=カマールにあるファフル・アッディーンの邸宅に展示されている。

1633年、スルタンはファフル・アッディーンの8,000の兵士に対し、20,000の兵士を率いるようダマスカスの総督に命じた。 ファフル・アッディーンは、トリポリの宿敵であったサイファ家がダマスカス軍と連隊するのを防ぐべく、息子のアリを北に派遣していたようだが、この任務いおいてアリは殺された。 今回は、トスカーナへの航海は行われなかった。 ファフル・アッディーン軍は大敗した。弟のユヌスは捕まえられて処刑された。 ファフル・アッディーンは洞窟に逃げ込んだが、息子であるマスッド(Ma’sud)およびフセイン(Hussein)と共に捕まえられ、イスタンブールに連れていかれた。 1635年4月13日、ファフル・アッディーンとマスッドは絞殺されて首をはねられた。 思春期に達していなかったフセインの命は容赦された。 フセインはサレイ(宮殿)で育ち、後にインドへのオスマン帝国大使となった。 

ファフル・アッディーンの遺産は単純なものではない。 彼に関する事実のどれも、執念深い派閥主義というものは感じられない。 彼が、単なる宗教的信条および民族的出身の理由でだれかを傷つけたり迫害したりしたという証拠はない。 彼は現実主義者であり、彼の支持者および友人はさまざまな民族・宗教的集団に属していた。異なるコミュニティが協同することの可能性を実証する地方自治を達成する努力において、彼の指導の下で団結していたのだ。 

1633年までに、オスマン帝国スルタン、ムラト4世はファフル・アッディーンが勢力を拡大することに、そしてそれと共にヨーロッパ貿易が発展することに我慢できなくなった。 
トルコイスラム美術博物館(museum of turkish and islamic art)、イスタンブール / ブリッジマン画像
1633年までに、オスマン帝国スルタン、ムラト4世はファフル・アッディーンが勢力を拡大することに、そしてそれと共にヨーロッパ貿易が発展することに我慢できなくなった。 

ファフル・アッディーンは、自分がヨーロッパで体験したことを基に、文化的・経済的な向上をもたらそうと骨を折った。 ベイルートにある老朽したサーソック地区、そしてレバノンのいたるところにあるイタリア風の建物には、ファフル・アッディーンに馴染のあるメディチ家のスタイルを感じる何かがある。 17世紀のある種の技術移転において、彼はフィレンツェ人を雇って、民間建設、薬学、ベーキングおよび農業などの支援をさせた。 

今日、2世紀以上に渡って名所となってきたベイルートの宮殿跡地は、ヴァージン・メガストアーズおよび駐車場となっている。 彼の死から60年後、旅行で訪れた英国人ヘンリー・モンドレル(Henry Maundrell)は、次のように描写している。

太守ファフル・アッディーンの住居がここにあった。 ...そのエントランスには大理石の噴水があり、トルコで普通見られるものよりはるかに美しい。 邸宅内には、いくつかの中庭がある。そのすべてが今では荒廃している。または結局完成しなかったのかもしれない。 馬屋、馬のための庭、ライオンや他のどう猛な動物の隠れ家、庭園 - どれもキリスト教世界の君主の品質には及ばない。しかし、この邸宅で見る価値のあるもの、覚えておく価値のあるものがある。それはオレンジの庭園だ...。 これ以上完璧なものを想像できる人はいない。 

1974年、レバノン政府はファフル・アッディーンの生地であるバークリンに馬に乗った彼の銅像を建てたが、2年後、レバノン内戦で爆破されてしまった。 ファフル・アッディーンは、「国家の父」から政治論争の種となった。レバノンの排他主義を強調する人たちに崇められ、一方で国を大きなアラブ諸国の一部と見なす人々からは中傷されてきた。 しかし、どんな人であれ、彼の寛容性、文化に対する実際的な許容性の手本を見習うことができるのではないか。これは恐らくファフル・アッディーンの最大の遺産と言えるだろう。  

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右上:デアゴスティーニ・ピクチャー・ライブラリ / g. dagli orti / ブリッジマン画像;左上:テッド・ゴートン;トップ右:マヌエル・コーエン(Manuel Cohen) / アート・リソースのアート・アーカイブ(art archive at art resource);下:トルコイスラム美術博物館、イスタンブール / ブリッジマン画像
1618年に帰還した後、ファフル・アッディーンはマーン家の勢力を強めていった。 サイダで彼はカーン・アル・フランジ(外国人のキャラバンサライ)を作った、右上;デイル・エル=カマールにあった家族の歴史的邸宅、上左は歴史的建造物。 トップ右: シリアのパルミラ近くにある12世紀の要塞は、この地域一帯でファフル・アッディーンが改築した要塞の1つである。

 

テッド・ゴートン テッド・ゴートン(Ted Gorton) (www.tjgorton.wordpress.com)は、米国生まれの作家で、ロンドンおよび南仏に暮らしている。 この記事は彼の最新刊、「ルネッサンスの太守:メディチ家の王宮にいたドルーズ派の戦士 (Renaissance Emir: a Druze Warlord at the Court of the Medici)」(英国:Quartet Books、2013年;北米:Olive Branch Press、2014年)に基づいている。

 

This article appeared on page 26 of the print edition of Saudi Aramco World.

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