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マスカットの宝石 のミズンマストの1番上の甲板からの眺め:各厚板および板はココナッツ繊維でできた糸で縛り付けられています。 |
非常に高いうねりは私たちを空へと持ち上げ、そして、船底で転がりながら谷間深くへと落とします。時々、圧縮空気がハッチを通じて駆け上がるような力で、波が私たちを船べりへと打ち付けます。水が右舷の舷側厚板に激しく降り、甲板へ滝状に流れて、波の下にいるすべてのものと人をずぶ濡れにして、船室昇降階段へ落ちます。船の索具にしがみつきながら、乗組員は縦揺れの甲板に対して、彼らの持ち場で大股で立ちます。
私たちは、50ノットの速さ(時速92キロ、時速60マイル)で、ベンガル湾を東へ横断しています。ラインは鋼のようにピンと張りつめ、この嵐のなかの航海で、ストレスは限界点まで達していました。今なら、いかなる災難も確実に惨事を招くことになるでしょう。パタパタとはためくレインコートのフードにあたる一陣の雨としぶきで聴力を失いながらも、18メートル(59フィート)の船が私たちをとどめてくれるよう祈りながら、持ちこたえています。2時間以上の猛嵐のあと、ついに風と雨が弱まり始めます。嵐はあと2日以上も私たちを打ちのめすでしょうが、最悪の時は去りました。マスカットの宝石 はインド洋を、オマーンからシンガポールへの5ヶ月に渡って横断する航海上の、最大の試練において勝利を収めました。
トロピカル サイクロンを生き延びることは、いかなる帆船であっても素晴らしい功績です。しかし、マスカットの宝石 は格別です:この船は、西暦9世紀のアラビアの船の復元物です。厚板とフレームはすべて共に縫合 されているだけであり、それがこの船の成功を、すべて注目に値するものとしています。
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ベンガル湾のトロピカル サイクロンを乗りこなしたことは、マスカットの宝石 にとって、最も苛酷なテストに合格したということです。 |
この嵐の後の数日夜、私はこの船の操舵席に立ち、地平線から地平線へとアーチを描く星の広がりをじっと見つめています。それぞれの星の光が映るくらい静かな海の中を、2ノットの速さ(時速3.7キロ、時速2.5マイル)で進んでいます。それは、まるで宇宙を飛んでいるような感じです。聞こえるのは、船体に対して水が打ち付ける音だけで、それはアラビア語の会話、甲板のギシギシする音、私の足の下の巻いたロープにいるキリギリスの鳴く音などを消してしまいました。今は2010年の6月ですが、この船は、私たちを過去へと運ぶタイム マシンです。
私たちは、およそ3ヶ月半前、オマーンの首都であるマスカットから出港しました。しかし、私たちの旅は、本当は1998年のありふれた日から始まりました。その日、2人のダイバーがインドネシアのビリトン島2キロメートル沖(1.2マイル)で新しいナマコの群を探していた時、17メートル(55フィート)下の海底でもっと貴重なものを見つけたのです。低い盛い土の中に群がって、半分は砂の中に埋まっていたそれは、中国陶器、大きく、ひどくコンクリート化した瓶、侵食した木の梁の破片でした。ダイバーは、1200年前の、荷物をたくさん積んだアラブ商人の船の残がいを発見したのです。それは、インド洋で発見された、これまでで最も古い難破船です。西のアラビア半島とペルシャと、東の中国間にあった直接海上貿易の最古で、最も包括的な証拠を与えてくれました。
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嵐によってメイン マストに亀裂が入った時、そのような緊急事態に備えて持ち込んでいた予備のロープと木材を使って、乗組員は添え木を当てました。
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「ビリトン島の難破船」の調査により、陶器や他の工芸品の60000もの破片が発見されました。これらは、完全なままの最古の中国の青と白の磁器や、小型ながらも高価な銀のコレクション、金でできた品物、陶磁器「green-splashed」の細かい組立部分などが含まれます。碑文「第2 Baoli 時代の7ヶ月目の16日」から西暦826年だと認識できる、中国の南中央にある長沙からのお椀もありました。その積み荷の特質は、その船が中国の広州港(アラビア語ではKhanfu)から本国へ帰る航海途中だったことを示しています。これは、ケンブリッジ大学の Robert Harding の発見と一致します。彼は「Chinese began to export high-quality ceramics to the Middle East during the Tang Dynasty (618年–907年)」 と、「Muslim merchants began their own voyages to China in 807」の著者です。
一度積み荷が満載されると、船は、唐朝期の首都長安(現代の西安)と、バクダッドから国を支配したアッバース朝という世界2大勢力を結ぶ航海に乗り出しました。この船で考えられる行き先は、南イランのシーラーフや、湾岸の先にあるバスラです。15世紀にヨーロッパ人がインド洋に現れるまで、それは歴史上最も長い海の貿易ルートで、12000キロメートル(7500マイル)の長さに達しました。
ビリトン島の難破船とその積み荷は、歴史学者に、その時期の造船、航行術と同様、中東とアジア間における初期の貿易について理解を深めるという前代未聞の機会を提供しました。2005年、その難破船は非常に重要な考古学上の発見だと認識されたため、シンガポール政府は3200万ドルで船全体の工芸品の組み合わせを、ニュージーランドの会社から購入しました。その会社というのは、最初の難破船引き揚げを手がけ、その発見の細部まで行き届いた分析を直ちに始めた会社です。
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alessandro ghidoni |
上:船長の Saleh al-Jabri は、いくつかある船のkamals のひとつを使いました。それは、星の高さを使って緯度を測定して、何千年もの間、航海者の助けとなってきたものです。(18世紀までは、経度を測定する方法はありませんでした。)「この航海は、海で過ごした私の25年の中の、最大の挑戦でした」と、彼は言います。上:船の強度は、縫い目の完全さに依存していました。各縫い目は、ココナッツ繊維の詰め物で縫って固められ、各ドリル穴はチョーク、松やにおよび魚の油というインド洋伝統のパテを使って埋められていました。 |
ビリトン島は、シンガポールの最南から620キロメートル(300マイル)、長くに渡って重要な貿易航路だった、マラッカ海峡の南東側に位置します。この難破船の積み荷を購入した後、シンガポールは外交と学術ルートを開いて、この発見によって作られた文化的、歴史的、政治的な機会を最大限に話し合いました。この試みにおける政府の最初のパートナーは、アラビア半島の南東の端に位置し、傑出した海運の伝統をもつオマーン・スルタン国でした。
2008年、オマーンの外務省は、ビリトン島の難破船を可能な限り正確に再現した船の建設に、資金を出すことに合意しました。オマーンの君主である、オスマン・トルコ皇帝の Qaboos bin Sa'id は、このプロジェクトに個人的に熱心な興味を示し、船をマスカットの宝石 と、名づけました。そして、ひとたび建設されれば、その船はオマーンからシンガポールの人々への贈り物とすると宣言しました。それに応じて、シンガポールはそれを展示する特別な博物館を建設することに合意しました。
その船の信ぴょう性と品質の最高水準に合うように、オマーンは、オーストラリアの海洋考古学者で、アラビアの船建造の歴史において世界をリードする、Tom Vosmer 博士を建設チームのリーダーとして招待しました。彼らは9世紀のアラビアの船を再現するたけでなく、インド洋を横断してセーリングすることによって耐久力と特徴を記録することをも目指しました。両方の仕事とも、挑戦との戦いでした。
21世紀における、れっきとした、耐波性のある9世紀の船を建設しようとの試みは、確かに人の気力をくじきました。事実上、20世紀以前のアラビアの船建造に関する設計図、記録、または書面による記述も存在しないので、現代の歴史学者たちには不運でしたが、目で見ただけで彼らの船を全部作り上げた伝統的な造船工には非常な栄誉となりました。海で潜在的に災害を引き起こす重要性を持ち、12世紀前に造船工が即座に見つけることができたであろう重大な設計上の欠陥は、今日の最も知識の豊富な現代造船技師によってでも容易には分からないでしょう。
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オマーンのマスカット南東にある海岸近くの村 Qantab で、2008年の10月から開始し、造船工と考古学者のチームは、マスカットの宝石 を建設するのに17ヶ月を費やしました。
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ビリトン島の難破船はある程度参考になりましたが、海底で調査するために使った掘削機にさらされて、船の原型のたった20%しか残っていませんでした。 難破船の詳細な分析で、大部分の材木はAfzelia africana を使用していることがわかりました。それは、9世紀には東アフリカ付近で繁茂した高密度の硬材で、船の建造に適していました。加えて、この船のフレーム、梁、厚板などの各構造用部品は、少なくとも2000年前の東インド洋の伝統的な方法で、縫合されていました。厚板は端と端が結合されたカラベル船スタイルで、継ぎ目の両側を詰め物でふさぎ、厚板を通して直接クロスステッチされていました。これらの特徴により、Vosmer は、ビリトン島の難破船は北西インド洋が出所だと確信しました。
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alessandro ghidoni |
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alessandro ghidoni |
上:船体をはじめに建設します。船は20トン以上の木材を必要とし、それは手を使って形作られます。上:船体の各厚板は、右の曲線にちょうどかみ合うよう、蒸気に当てる必要がありました。「私たちは、この巨大な [Afzelia] の木を倒し、移動させ、加工した、1000年以上前の人々の畏敬の念を抱いています」と Tom Vosmer は言います。「労働の過酷さは圧倒的なものでした」 |
この設計と構造について足りない情報は、アラビアの、縫合して厚板を使ったボートの歴史的文献や図像、および現存の実例や写真から情報を少しずつ収集、もしくは推測しなければなりませんでした。最新の海軍からの建築関連ソフトウェアを使ってこの情報は分析され、合成されました。最終的に、Vosmer と、オーストラリア人で同僚の Nick Burningham、ビリトン島の難破船の採掘者で海洋考古学者の Mike Flecker 博士は、コンピューター化された設計に達しました。それは、 battil. として知られているオマーン原産のボートの大型版と共通点がある最終的な結果と共に、彼らが手にしている証拠を合理的に組み込んだものでした。
この設計をもとに、英国の専門家は、およそ10分の1の大きさの船のモデルを建造しました。そして Vosmer は、サウザンプトン大学にある風洞内の非常に高い水槽に船を入れて、テストを重ねました。船の設計は、時として試練と失敗の痛みを伴うプロセスによって、1000年以上かけて次第に発展してきました。そのため、そのテストはこのプロジェクトを成功させるために、極めて重要でした。
テストの検査員は、設計に2カ所の弱点を見つけ、出帆する前に修正しました。第1に、船尾の形を修正することによって、よりなだらかな曲線にして、障害を減らし、能率を高めました。第2には、メイン マストと縦帆(もしくは後方)のマストとの間の距離を増やしました。元の設計は、縦帆に「シャドーイング」、もしくはメインセールからの風を遮断する結果をもたらす可能性があるためでした。この追加された距離により、乗組員は、より効果的に2つの帆を扱うことが可能になりました。
Vosmer の厳選したチームは、非常に熟練したオマーン人とインド人の造船工と大工、そしてイタリア人とアメリカ人の海洋考古学者で成り立ち、2008年の10月にマスカットのちょうど南東にあるオマーンの海岸近くの村、Qantabで船を建設し始めました。9世紀のアラビア人造船技師によって使用された知識と技術を実践に変えるため、また再発見するため、それからの17ヶ月の間は、皆は厳しい暑さに耐え、連続的な設計の課題に取り組みました。記録の不足のため、マスカットの宝石 の建造は、理論、実験そして分析という、継続的、かつ疲労的な周期の繰り返しが必要でした。
建造には15トンの Afzelia africana (東アフリカ海岸ではその木はもはや生育していないため、ガーナで収穫されました) 、5トンのチーク材と数トンの他のタイプの木材も必要でした。「私たちは、この巨大な [Afzelia] の木を倒し、移動させ、加工した、1000年以上前の人々の畏敬の念を抱きました」と Tom Vosmer は述べています。「労働の過酷さは圧倒的なものでした」それらすべてを縛るのに、建設作業員は130キロメートル(80マイル)の手作りのココナッツ繊維でできたロープ、厚板および縫い目の防水処理のために、数百リットルのココナッツ オイルとシャーク オイルを、そして感動するほどの技術、決意、熱意が必要でした。
信ぴょう性のために、乗組員はのこぎり、手斧、のみ、単純な計測機であるqalam のような、伝統的な工具を厚板に平行線を引くために使いました。現代的な技術に譲歩したのは、アラビアの手動で動かす、伝統的な錐 migdah ではなく、電動の錐をつかったことです:伝統的な錐は精巧で、極めて効率の高い工具ですが、電動の錐よりも10倍遅いとわかりました。縫い目に対応するために船体に37000個の穴を開けなくてはならず、そして建築作業員は冬のモンスーンの風に間に合うように厳しい期限で働いていたので、この妥協した決断は理解されました。
Vosmer と彼のチームが解決しなくてはならなかった建設にあたっての1番の挑戦は、厚板の成形方法でした。当時のアラビアの船のように、ビリトン島の難破船は船体を始めに建造しました。これは、フレームを始めに、そうしてから厚板を曲げ船の肋材に固定する建造方法をとる、伝統的な西洋の建造技術とは正反対のものです。
船体を先に建造する方法では、他の厚板に取り付ける 前に 厚板をねじるか、もしくは曲げることが必要です。数々の実験の後、チームは木製の蒸気室を建造しました。それにより、5~7メートル (16 1/2~23 フィート) の長さの厚板を、2時間で、船体の適切な場所に固定するのに十分なほどに曲げやすい状態にすることができました。その箱から厚板をとり出した後、たった数分しか曲げやすい状態が続かないので、建築作業員は素速く仕事を行う必要がありました。このような状態にもかかわらず、この方法は機能しました。各層の厚板が追加されると、優美な船体の形が現れてきました。
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食事時間には、9カ国の国からの17人の作業員が甲板にて、共有の皿の周りに座ります。 そして matbakh という、伝統的な木製の料理の箱で準備された、コメや乾燥した魚などの質素な料理を食べます。
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厚板をいっしょに縛ることは、それらを適切に成形するのと同じくらい重要です。一度穴が厚板に開けられると、それらは精密に縫合されなければなりません。船の強度はすべてその縫い方の完全さにかかっていたからです。ビリトン島の難破船の調査によって、ココナッツ繊維の詰め物の列は、縫い目の両側に加えられたことがわかりました。そしてロープを使ってその上を縫合しました。
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eric staples |
上:海水の漏れを防ぐためのビニールのシートを除いては、宿泊設備は9世紀の標準に忠実でした。上:マスカットの宝石 は、2つの舵柄で操縦する quarter-rudders と、ロープで動く central rudde の両方を備えて建造されました:9世紀において、前者は伝統的な方法を表しているのに対し、後者は新しい技術を意味しました。
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はじめは、このシステムは縫い目をより摩擦による損傷をうけやすくするように思えました。事実、数世紀後、アラビアの造船技師は、摩擦の脅威を減らすために外側の縫い目をさら穴に埋める代わりに、外部の詰め物を取り除きました。そしておそらくそうすることにって、障害を減らしたのです。しかし マスカットの宝石 の造船技師は、その古い手段を忠実に残し、チームはすぐその利点を学びました。例えば、外部の詰め物は縫い目と継ぎ目に対し緩衝材を追加し、一度魚の油で浸されると、それは海水に対するより厚いバリアとなりました。
ロープ作業員は、一人が船体の中に、もう一人はその外というように、二人一組で作業しました。一時的に縫い目を一定の場所に固定するために、木製の大型のマーリンスパイク、木槌、木製の小型のプラグでを含む、もっとも単純な工具を使いました。一人が厚板に開けた穴にロープを通し、適切な張り具合を保ちながら、外側にいるもう一人に穴の詰め物を通り越して、ロープを渡しました。ロープの張り具合の程度は大きな意味を持ちました。張りすぎは切れる可能性があり、また緩みすぎは、厚板との厚板の間の封印箇所から漏れる可能性がありました。縫合作業が終了したとき、各穴が注意深くココナッツ繊維でぎっしり詰められ、それから、チョーク、松やにおよび魚の油というインド洋伝統のパテを使って封印されました。
一度、ビリトン島の難破船再建の挑戦が達成されると、プロジェクトの第2の局面が始まりました。2010年2月16日、マスカットの宝石 はマスカットの Mutrah harbor から外洋に向けて、オマーン人船長、Saleh al-Jabri 率いる17人の多国籍の船員を乗せて、滑らかに出港しました。インドとそのかなたへの、暑い天候下でのゆっくりとした航海の間、私たちは次第に海での単純な生活リズムだけではなく、困難も受け入れるようになりました。
食事時間には、共有の皿の周りに座ります。 そしてmatbakh という、伝統的な木製の料理の箱で準備された、コメや乾燥した魚などの質素な料理を食べます。風がゼロ近くにまで落ち、気温と湿度が上昇した時、自然を目の前にして私たちの無力さを受け入れることを学びました。私たちは壮大な夕日に驚嘆し、また何世紀にもわたってすべての船員がそうしたように、船首の先でイルカが遊んでいる光景に喜び合いました。言葉と文化の違い、狭い空間での生活苦、限られた睡眠、気力を失わせるような高温にもかかわらず、私たちは乗組員として団結し、共通のゴールへ向かって働くことを発見しました。私たちは、インド、スリランカ、マレーシア、シンガポール、イタリア、オーストラリア、アメリカ合衆国、英国 およびオマーンの9カ国から来ました。しかし、皆それぞれの才能と経験を尊重することを学び、この航海の成功のために、各人が担っている役割に感謝しました。
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乗員仲間は、保護用のソフトカバーをマニラ麻でできた索具の上に巻きつけました。そこは、ヤシの葉を織って作られた帆にある穴を、擦り切れさせてしまうかもしれないからです。
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海での多くの仕事の中で、船の最も重要な機能の有効性の記録を取るということがありました。例えば、マスカットの宝石 の設計と建設の途中で、Vosmer と彼のチームが直面した重大な問題は、この船に付ける帆の種類でした。ビリトン島の難破船には索具の証拠は残っていませんでしたので、Vosmer は最古の文献と図像を、手がかりを求め徹底的に調べました。彼の研究では、ビリトン島の難破船は大三角帆ではなく、横帆が付いていたことを示唆しました。これは、紀元前4世紀初頭のアラブでは、大三角帆、または大三角帆の前の角の部分が小さく切り取られていた、settee と呼ばれる帆が使われていたとの一般的な意見に矛盾しました。
Vosmer は、紀元15世紀、有名なアラブの船乗りである Ahmad ibn Majid が、全体的に四角い形をしているペガサス座は、インド洋の帆船の帆の形に似ていると記していることに注目しました。その上、12世紀半ばから16世紀にかけてのインド洋の船の多数の描写では、横帆の付いたアラブの船が描かれています。明らかに、いくつかはメインマストまたはミズンマストのどちらかの上のカラスの巣を表していましたが、その特徴は大三角帆には不可能なことでした。なぜなら、船が上手回しをしたり、風に対し下手回しする時に、それはマストの一方から他の一方へ帆桁が切り替わるのを防ぐからです。
あるとき、海で、横帆が実用的なことに気が付きました。上手回しおよび下手回しの時に簡単に操縦できるだけでなく、もし適切に整えられれば、見掛けの風(真風と、船の前進運動によってつくりだされた組み合わせたもの)の51度近くまでセーリングできます。これは、最適な状態では、より多くの風を「役立てる」ことができ、予測されるより速いスピードでより効果的にセーリングできたことを意味します。そしてそれが、おそらく横帆がインド洋の船で長く持ちこたえた理由です。
もう一つの重要な問題は、マスカットの宝石 が使った舵取りシステムのタイプを考えることでした。ビリトン島の難破船のとりわけ魅力的な外観は、海洋の設計における技術的な移行時期の間に建造されたことによります。9世紀前の数千年は、船を操縦する時、quarter rudders が使われていました。それは、長い舵で船体の両側に固定されていました。両方とも舵柄で操作されていました。右舷の上手回し(例としては、風が右手から来るとき)の場合、操舵手は左舷の舵を使いました。逆の場合も同じです。しかし、9世紀辺りに、アラビアでは1つの、中央舵をその船の船尾材へ固定し始めました。
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世界で1番海上交通量が多いマラッカ海峡へマスカットの宝石 が到来することを歓迎するような、見事な夜明けがマレーシアの海岸に上がります。 |
船員は、新しいアイデアのことになると、当然のことながら保守的で、試練を耐えたもの、真実のものに執着する傾向があります。文献や図像の証拠が、この新しいタイプの舵に完全に移行するまでおよそ3世紀かかったことを示しています。造船工は マスカットの宝石 に両方のシステムを装備しました。 そして適切に使われる場合、それはお互いによく補完し合いました。おそらくそれはなぜ古代の船員が、完全に切り替えるまで長く待ったかを説明しています。そよ風のなかでは、中央舵はもっとも効果的ですが、それ以上の弱い風では、quarter rudder が最もよく機能しました。強風と荒海では、操作できる範囲が増える中央舵といっしょに、しばしば両方のシステムを同時に使いました。
おそらく、この航海で明らかになった、最も重要な技術に関する新事実は、はじめの多くのヨーロッパ人の見解に反して、この縫合と厚板を使った船は並外れて強いということです。マルコ ポーロは、15世紀に書かれた「Hormuz in Persia」で縫合した船について以下のように述べています:
Ormusで建造された船は操縦するのには、最も悪く、危険で、これを使う商人や他の人々に大変な危険をさらしています。その欠陥は、建造時に釘が用いられていないという状況から発生するものです・・・それは、インドのナッツ [ココナッツ] の皮をはがして作ったロープのような糸を使って、縛られるか、もしくは共に縫合されるかなのです…
私たちの経験は、明確にこの主張とは対照的でした。実際、マスカットの宝石 は設計者が予期した以上に、構造的に強いことを証明しました。航海中には多数の激しい嵐に、特にベンガル湾でも耐え抜き、船体は無損傷でした。入出港の際にけん引され、ドッキングの際には重いタグボートによって押しやられ、ぶつかられ、また、密集した入江では汚染物質にさらされるという、現代的な冷遇の対象にもなりました。それでも無傷のままでした。
マスカットの宝石 の航海中に、可能な限り歴史的な信ぴょう性を維持するという私たちの約束にもかかわらず、またそれは建造の時点から実際に適用されもしましたが、安全面の理由からやむを得ず、より精密に航海するため、 衛星利用測位システム(GPS) を利用することとしました。道案内に星よりも衛星を利用したのです。この装置は、使用するのにほとんど技能を必要とせず、私たちは、古代の船員はそれなしに上手に航海したことを思うと、絶え間なく謙虚な気持ちになりました。西洋の船に標準的に装備されてから間もなく、アラビアの船員は13世紀にコンパスを使いはじめました。その前は、kamal という、単純ですが精巧な装置を用いていました。それは、根本的には、固定した結び目がある糸が付着した長方形の木材でした。その下部の端を水平線に合わせながら、腕を伸ばした所に持って、kamal は定めた星(特に、北極星)の水平線からの高さを測定するのに用いられました。従って、それは緯度を決定します。しかしながら、彼らは経度を測定できる信頼できる方法を持っていませんでした。
15世紀と16世紀のアラビアの偉大な探検家である、Ibn Majid と Sulaiman al-Mahri の注目に値する文献では、古代の船員が、日中の航海に役立てるために、太陽、海流、風、海の色や海洋生物を観察する方法を明らかにしています。探検家の驚くほど詳細な天空の知識は、基礎的な夜の航海の手段も明らかにしています。アメリカ人で、海洋歴史学者の Eric Staples 博士と、その乗組員のメンバーは、私たちの航海前および航海中にこれらの文献を研究しました。kamal の使用について可能な限り学ぶために、また現代的な計測と、古い文献で見られるそれとを比較するため、彼はいくつかの異なった装置を用いて、アラビアの探検家に伝統的に使われた、14個の星と星座の緯度に関するデータベースを作成しました。
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オマーンから出港して138日後、マスカットの宝石 は、Maritime Experiential Museum に永久に展示されるよう贈与された、シンガポールに到着しました。 |
理想的な状態のもとでさえあっても「kamal」を使用するにはかなりの練習を要しますが、これは曇の夜や嵐の中では使用することができません。ベンガル湾の大嵐の後は、幸運にも、私たちの航海はより穏やかに進んだので、通常の星をもっと読むことができました。スマルタンの海賊と、世界中で1番海上交通量が多い場所を航行している超大型タンカーを避けながら、来る日も来る日も、私たちの旅の最後から2番目の港があるペナン、マレーシアに向かって滑らかに東へ、そしてマラッカ海峡の南を通って進みました。
出港してから138日後、私たちはついにシンガポールの港に入り、数千人もの支持者、同僚や友人達によってあたたかく迎えられました。その後には、オマーンとシンガポールの要人主催の歓迎会が続き、マスカットの宝石 は船長の al-Jabri から、シンガポール首相の S. R. Nathan へと正式に譲渡されました。
「この航海は、私の海での25年にわたる経験のなかで、最大の挑戦でした。しかし、それはアラビアの海洋の歴史について学ぶ観点からすると、非常に得るところのあるものにもなりました」と、船長の al-Jabri は言いました。
船の到着準備をする様々な雑用の最中に、この航海の意味について振り返る時間がありました。それは壮大と冒険になり、私たちは古代アラビアの船と航海について沢山のことを学びました。しかし何にもまして、私たちの経験は、航海中に呼び起こされた古代アラビアの船員の知識、技術、勇気に対する非常に強い尊敬の念に火をつけました。
9世紀に、彼らはコンパスなしに、苦労しながら海や風、星を理解し、広大なインド洋を、商業、信用と友情、人と国を結びつけ、横断しました。これは、何代にもわたって人々と共有し続けるマスカットの宝石 の真の遺産です。
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Robert Jackson (jacksonr546@gmail.com) オマーンのアメリカン インターナショナル スクール オブ マスカットで歴史の教鞭をとっています。彼は以下の本の著者です。At Empire's Edge:Exploring Rome's Egyptian Frontier (Yale, 2002) 現在、彼は西インド洋における貿易初期の歴史に焦点を合わせた研究をしています。 |
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--編集部 |