en zh es ja ko pt

巻 63, 号 32012年5月/6月

In This Issue

アーチの先端
ラムラの地下貯水槽の尖頭アーチは、西暦 789 年にアッバース朝のカリフであった Harun al-Rashid によって建造されました。

テルアビブから 1 時間ほど南西にある、8 世紀に造られた「ラムラの地下貯水槽」は、地上では大したことがないもののように見えます。隆起した庭床のように、長い漆喰の粗石の背が並び、そこにはロープにつながれたバケツを下ろせるように穴が点在しています。アラビア語で、ビル・アルアラニツィーヤ (「ヤギ飼いのプール」) とも呼ばれます。しかし、近寄って見れば、その重要性は、「アーチの貯水池」とも呼ばれる理由とともに、すぐに、明らかになります。

濁った青緑色の水で水浸しの貯水槽の内部へと続く、こけで覆われた階段の低い天井を叩きながら、管理人が、「頭に気をつけて」、と私に注意しました。穴を通って差し込む太陽光線が水面に跳ね返されて、洞くつのアーチは 1 つ 1 つがその柱から尖がった先端に向かって上向きに優雅にカーブしているのですが、そのアーチの網目に、曲がりくねった模様を投影していました。専門的には、美術史家からは「オジーブ」、または単に「尖頭アーチ」と呼ばれていますが、これらは 西暦789 年に建築され、イスラム建築のアーチの中で最も古いものとされており、その当時にこの地で使用されたことは建築の歴史における転換点を示しています。

芸術及び構造の、双方の変化が見られます。先行した半円形の「ローマン・アーチ」に比べて、尖頭アーチは、さまざまな角度で先にゆくほど緩やかに細くなり、高くなるほどより軽量になります。構造的に尖頭アーチは、通常、ローマン・アーチの3倍の重さまで支えることがきたため、西欧の中世の大聖堂の建築家達は壁や天井をめまいがするような高さまで上げることが可能となり、その結果、目がくらむようなゴシック様式が生み出されることになった、重要な建築上の特徴の 1 つです。それらの建築家達があるのは、ラムラの地下貯水槽やアラブ世界全体のその他の構造物に負うところが大きかったのです。アラブ世界では、尖頭アーチは、ヨーロッパの建築用語に追加される何世紀も前にその外観が作られていたのですから。

しかし、どのようにして? シャルトル、サンス、ソールズベリーや、その他のゴシック建築の空にそびえる室内装飾が、どのようにして、日差しの強いアラブの町の本来水浸しになった地下室から伝わったのでしょうか?

その質問に答えるために、私は、尖頭アーチの軌跡の最後となるゴシック建築が生まれた都市パリから、5カ国と長い年月を巡る探索をはじめました。

「狙撃されてもかまわない」とは、Alistair Northedge が、遠隔地や、ときには、中東各地のイラク、アフガニスタンや、その他の政治的紛争地帯の危険な場所で、考古学的な財産を追求する彼の献身を集約した言葉です。パリの有名なフランス国立図書館に隣接した国立美術史研究所の彼のオフィスという、比較的平和的な環境で、私は彼に会いました。「6 世紀の ホスローのイーワーンのササン朝の宮殿にあるクテシフォンの巨大アーチや、シリアのカスル・イブン・ワルダンにある同等に古いビザンチン教会など、一部の最も古い例が真の尖頭アーチなのか、ただの放物線状の尖頭アーチの先駆物にすぎないのかについての意見の相違があるため、尖頭アーチの起源をたどることは厄介だ」と、Northedge は私に語りました。

hemis / alamy
アムラ城のアーチのなだらかな先端は、715 年にさかのぼるものですが、構造的というより装飾的な意匠です。

「たとえば、一部の初期の出入り口はアーチの先端が尖っています。これらが意図的な芸術的思想と言えるかどうかは確実ではありませんが、一方で、8 世紀前半のウマイヤ朝時代の意図的な芸術的思想になっていないことは明白です」と、Northedge は述べました。

Northedge の推定では、尖頭アーチの最も早い例は、それぞれ 710 年、715 年に建築されたハラナ城、アムラ城などの、ヨルダンの有名な「砂漠の城」と、ウマイヤ朝支配下のシリアに見られます。

尖頭アーチ (右) は半円形アーチ (左) の最大 3 倍の重さを支えることができます。

「そうした場所の[尖頭] アーチは極めて小さいけれども、中心が交差した 2 つの別々のアーチで構成されていることが分かります」と、彼は説明しました。半円形のアーチの中心が 1 つである一方で、尖頭アーチには少なくとも 2 つ中心があります。中心間の距離が、2 つの側面がアーチの頂点で交わる点の角度 (アーチの「尖頭度」) を決定します。だいぶ昔に習った小学校の幾何学が図解の手助けになります。直線上に中心に針を置いたコンパスを思い浮かべてください。線の一方の端からもう一方の端へ鉛筆を動かして、単一の中心を持つ半円を描きます。しかし、中心の一方に対する地点に針を移してアーチを描いてから、中心のもう一方の側にポイントを移して 2 番目のアーチを描くと、交差する 2 つのアーチが作成されます。尖頭アーチです。

半円形のアーチが、数え切れないローマの水道や凱旋門に対して十分に頑丈だったことは疑いもありませんが、壁面の方に、外側を支える重さに向かうため、高さがある場合には弱くなります。アーチの高さが高くなるほど、壁面はより強く厚くする必要があります。壁面は厚すぎて途方もなく非実用的で高価になります。尖頭アーチは、地面に向かって下向きに十分な重さに耐えます。さらに薄く、高い壁面を支えることができます。

尖頭アーチが実際に東から西に移動したことは、美術史家、考古学者、建築家にもほとんど知られていません。17 世紀後半から 18 世紀前半の有名なイギリスの建築家で、ロンドンのセント・ポール大聖堂の設計者でもある、Christopher Wren はこう述べています。「これは、今日、ゴシック建築様式…と呼ばれています。私は、多くの理由で、それをサラセン [アラブ] 様式…と呼ぶべきだと考えています。もしも誰かがこの主張を疑うなら、フェズのモスクと宮殿、またはムーア人によって建設されたスペインの大聖堂を見るように訴えさせてください」

当時は一般に却下されていましたが、Wren の洞察は、後の建築史家によって正当性を立証されました。その中には、1904 年に発行され、様々な大学キャンパスで使用された最初の美術史の教科書の 1 つである『Medieval Art』(中世の美術) の著者である W. R. Lethaby (1857-1931) が含まれます。「外見上よりも、ゴシックの、構造や堅牢性の方が、はるかに多く東方の要素がある」と、Lethabyは書いています。「ペルシャ、エジプト-サラセン、ムーア風の様式が、ゴシックの構成要素と共通する度合いがどの程度大きいかに、気付くことは一般にはない」

尖頭アーチの知識をヨーロッパに紹介したのは東方から帰還した十字軍の騎士だったという推測は、この見解のよく知られた副産物でした。しかし、その学説には懐疑派がいました。その中には、T. E. Lawrence という名前のオックスフォードの風変わりな学生 (後に「アラビアのロレンス」として知られる) がおり、彼は 1908 年に学部の卒業論文で十字軍が「[彼らが] 聖地で見た要塞から、多かれ少なかれ何か 1 つでも借用した」ということについては「いかなる証拠もない」と結論づけました。

尖頭アーチの東方起源説の最も早期の近代支持者の中では、尊敬すべきは、K. A. C. Creswell でした。1879 年にロンドンで生まれた Creswell は、カイロアメリカ大学のイスラム美術および建築の最初の教授であり、一般的にその学問の創始者と見なされています。彼の、数巻より成る『Early Muslim Architecture』 (初期イスラム教建築) と、同様に重厚な『Muslim Architecture of Egypt』 (エジプトのイスラム建築) は、ほぼ 1 メートルの棚スペースを占有します。教育を受けた製図技師、Creswell は、技術者の目による調査、エジプトからユーフラテス川まで遺跡の撮影、目録作成、入念な計測を行いました。彼の意見では、「尖頭アーチの進化」は「2 つの中心が徐々に離れていくこと」によって判断できるとしています。中東全域のさまざまなアーチの間のわずかな差異を比較することによって進化を図表に示し、彼は尖頭アーチが「シリア起源」であり、「11 世紀末または 12 世紀初頭までヨーロッパでの例は見られない」と結論づけています。

アラブの土地のアーチの歴史は大概が石で書かれている (残されている) ため、Creswell のような調査は、歴史家が判断の基準にすべき最も良い証拠だと、Northedge は言います。「それら [初期のイスラム教建築] には、建築の文書による記録が残されていません」と、彼はため息をつきました。

ヨーロッパの素晴らしいゴシック様式の大聖堂の石工たちがその尖頭アーチと全体的な設計から最初の手がかりを得た場所であり、ゴシック建築の生誕地として、またその産婆役を果たした Suger 修道院長の本拠地としても有名な、サン=ドニの大修道院教会堂は、Northedge のオフィスから、目と鼻の先にあります。

the art gallery collection / alamy
パリのサン=ドニ修道院の Suger 修道院長にとって、尖頭アーチは工学と哲学の両方の手本となりました。修道院長の肖像 (上) は、サン=ドニ大修道院教会堂 (下) を飾る多数のステンドグラスの窓の中に見られます。

1081 年に生まれた Suger はサン=ドニに生きる運命にあったと思われます。彼は10 歳の時に困窮した家族によって「献身者」 (本質的に人間の寄付) として、そこに預けられました。修道院で将来の国王ルイ 6世と一緒に教育を受けたのちに、Suger は 1122 年に修道院長になりました。その頃には、崩れかけた 8 世紀の大修道院教会堂は緊急に修理と増設工事が必要でした。1135 年、Suger は、名前は失われてしまった建築家たちと結束して建設計画を開始しました。それは、教会の薄暗いロマネスク様式の室内装飾を明るく照らされた、風通しの良い、全く新しいものに替えるものでした。彼の設計に於いて、ゴシック建築の主要要素となる次のような構造が初めて組み合わされました。尖頭アーチ、さらに大きな重さを支えることが可能なフライング・バットレス、もう 1 つの東方の革新的手法であるリブブォールトです。その結果、高くそびえる天井や、石よりもステンドグラスを多用した重力に逆らうような壁を備えた驚くような室内装飾ができました。これらの窓を通った太陽光線が、Suger が述べたとおりに「光の王冠」として、広い室内装飾を浸し、修道院長の全体的な建築スキームの中で、象徴的、神学的な役割を果たしました。

John kellerman / alamy

「この光を見つめ、物質が冠水から蘇ることを通して、鈍感な理性が真実に達する」と、彼は述べました。言い換えれば、光が神秘的な目的に役立ち、想像力に欠けた人間の理性と魂を神の近くにまで高めるということです。これは、古代の新プラトン主義たちによって初めて明確に述べられた信念でした。彼らの教えを Suger は称賛しましたが、特に 5 世紀シリアの Areopagite の Dionysius というキリスト教神学者の教えは、神の存在を「あらゆる理性を照らす … 源泉の輝きであり一条の光」と見なしました。2 世紀後、同様のメタファーがコーランに示されました (24:35):「神は天と地の光である。彼の光のたとえは、あたかも裂け目があってその中にランプがあるようであり、ガラスで囲まれたランプであり、ガラスは言わば輝く星…である。光を見つけなさい!神は彼が彼の光を贈った者を導く」

Suger の設計には、彼の哲学的意見と同様に、深いルーツがありました。ルイ 6 世の彼の伝記の中で、彼の教会へのインスピレーションを拾い上げることができた場所について手がかりを残しています。それは南ブルゴーニュのクリュニー修道院に対する国王のミッションのときのことでした。サン=デニの作業が始まるちょうど 5 年前の 1130 年のことでした。

パリからクリュニーへの旅は、Suger は馬に乗っておそらく 1 週間以上かかったことでしょうが、私は電車で約 4 時間でした。とはいえ、私は到着するのが約 200 年遅すぎました。フランス革命の反宗教的熱気の犠牲として、多くの修道院が 18 世紀後半に解体され、石材として地方の建設業者に売り払われました。しかし、クリュニーの名声は、中世ヨーロッパ最大の教会で、有力で影響力のあるベネディクト系修道院の本部であった当時と同様に今でも訪問者を引きつけています。

1130 年に Suger が訪れた際には、クリュニー修道院の Hugh of Semur (スミュールのユーグ)の 30 メートルのアーチは 200 個以上に達していました。

サン=デニ同様、クリュニーにも創造的で野心的な修道院長、Hugh of Semur (スミュールのユーグ) がいました。彼の大修道院の改築は、歴史家の間でクリュニー第 3 教会として知られており、1088 年に始まり、彼の死後、Suger が訪れた 1130 年まで続きました。クリュニー第 3 教会のほとんどは消失しましたが、東方から西洋へのアーチの旅の物語に重要な役割を果たした 30 メートルの高さ (約 100 フィート) の尖頭アーチを含め、こまごまとした物が修復者の助けを借りて残りました。

入るときに、「ここでは、アーチが教会を広くして、光で満たした方法が分かります」と案内役の Matthias Mai が言いました。外壁のクリアストーリー窓の連なりは、アーチに加え、円い「牛の目」窓と合わせて、たくさんの光が入るので、その効果は、Hugh 修道院長の同時期の伝記作家が書いたとおり、「高所の住人が歩く場所」にありました。

私の視線は、はっきりと区別できる尖がった先端までアーチの軌道をたどります。Suger が訪ねてきた際には、身廊、側廊、および袖廊に並ぶ約 200 個のアーチがありました。その効果は見事としか言いようがありませんでした。

今日、修道院全体の平面パネル・ビデオ画面が、コンピュータで作られた、彼が見たかも知れない興味深い景色を提供しています。まだ完全なゴシック様式ではありませんが、ロマネスク様式からは明らかに逸脱した教会です。

「Hugh 修道院長はクリュニーのイル・ド・フランスへの展開を「支える原動力」であり、それまでにない偉大な建築者の 1 人であった。そこでは、立派に自然発生的および明確に表現されたゴシック様式が起こっていた」と、美術史家の Kenneth J. Conant は記しています。彼は、クリュニーの研究と発掘を一生の仕事としました。

もしクリュニーの尖頭アーチが Suger を、そしてその結果すべてのゴシック建築を奮起させたのであれば、Hugh はどのようにしてそれらを知るようになったのでしょうか?

「彼は工学技術を理解していたため、自分が行いつつあることを知っていました」と Mai が言いました。「彼は、当時の最も教養のあり高い知能を持つ人々の 1 人でした」

また、旅行経験も豊富でした。クリュニーの改築の 5 年前の 1083 年に、Hugh はたまたま近東の建築が好きだったイタリアの修道院長を訪ねました。ローマの約 130 キロメートル (80 マイル) 南東の、モンテ・カッシーノのベネディクト修道院でした。

第二次世界大戦時代の迫撃砲、銃弾実包、およびボロボロのヘルメットが私のホテルのロビーに展示されていましたが、ホテル・ラ・パーチェ (平和ホテル) という、その名前には調和していませんでした。ただし、それらは、岩だらけの丘の街にたった 1 つそびえ立つ、有名な修道院がドイツの要塞と疑われて連合国の爆弾によって倒壊したときの、モンテ・カッシーノの戦いを思い起こさせるものとしてはふさわしいと言えます。(悲劇的な間違い : それは正しくありませんでした。) モンテ・カッシーノは、589 年にロンバート人、884 年にイスラム教徒、1030 年にノルマン人、および 1349 年に地震と続く、5 回の攻撃を受け破壊されたことが記録されています。

このように、11 世紀の装飾的なフロア、ローマ時代の塔、および聖ベネディクト (中世ヨーロッパにおける修道院と最有力の修道会の創始者) を祭る教会を除いて、ここにはクリュニーよりも少数の遺構しかありませんでした。第二次世界大戦後、修道院はその最後の生まれ変わりとしてバロック様式で完全に修復されましたが、中世建築物の細々としたものが東方とのその構造的なつながりの痕跡として存続しました。前述の装飾的フロアは、たとえば、色彩に富んだ、幾何学的に不揃いなコスマテスク風模様であり —正方形、ひし形、6 角形の継ぎはぎ— それは、シリア、パレスチナ、エジプトのビザンチン建築のフロアのモザイクを手本にしていました。修道院の広大な土地保有の権利、従属関係と寄贈者をエッチングで施した、主要教会の巨大な青銅製の唐戸は、1066 ~ 1071 年に モンテ・カッシーノを改築した Desiderius 修道院長の命令でコンスタンチノープルでオーダーメイドされました。写本製作のヨーロッパの代表的中心として、またベネディクト修道会の本部として、修道院は当時、権力と富の頂点にありました。世知に長け、旅行経験の豊かな Desiderius は、東方から異国風の建築資材だけではなく、それ以上のものを輸入するだけの余裕がありました。修道院の図書館員の Leo of Ostia(オスティアのレオ)は、当時の改築の会計記録に記録には、Desiderius は「コンスタンチノープルに使者を送って、モザイクや敷石敷設と、木材、アラバスター、石材で作業できる芸術に熟達した芸術家を雇った」と記されています。

これらの熟練工の地理的起源を考慮し、Conant 等は、おそらく彼らの中にはイスラム教徒がいるだろうと推測しました。キリスト教的西洋の作業班の中にイスラム教徒の技術者および石工が存在することは、前例のないことではありません。後の研究者 John H. Harvey が述べているとおり、十字軍、およびイスラム教スペインにおけるキリスト教徒の レコンキスタ(国土回復運動)の期間、イスラム教徒の戦争捕虜は最終的ににフランス、ローマ、およびコンスタンチノープルまで行くことになりました。

Leo of Ostia (オスティアのレオ)は、モンテ・カッシーノの要塞化された修道院 (上) の玄関ポーチについて「わずかに尖頭アーチである」と記述しましたが、それらは残っていません。フロア・タイルの装飾 (下) は現存していますが、レヴァントからの石工や熟練工の実際の手仕事でないとしても、様式的な影響を証明しています。

「捕虜の中には、ムーア人の軍事技術者の頑丈な身体があったに違いない」と Harvey は書きました。「そしてそれは勝者がその知識と改良された技術を利用することになると思われる」。ウェールズの年代記によれば、1 人の捕虜がイギリス国王ヘンリー 1 世の王室建築家まで登りつめました:捕虜は、「カナーンの土地から来た、Lalys という名前の、石工技術で高名な男で、国内で最も著名な修道院、城、教会…を建設し、ウェールズとイギリスの大勢の者たちに技術を教えました」

Desiderius が輸入した職人たち (イスラム教徒またはそれ以外の) によって尖頭アーチを含む改築が行われたかどうかは、研究者の間では未だ議論の余地があります。Conant はそれが行われたと信じていました。第二次世界大戦の前に修道院を訪ねた際、彼は、付属礼拝堂に中世まで尖頭アーチが存在していたことに言及しました。彼はさらに、モンテ・カッシーノが、カプアのサンタンジェロ・イン・フォルミスの教会のモデルの役割を果たしたと推測しました。これも Desiderius が建設したもので、通路に尖頭アーチを備えています。大多数にとって疑いを脇へと退けるものは、Leo of Ostia(オスティアのレオ)の会計記録です。そこには、主要教会の玄関ポーチについて、fornices spiculos (「わに尖頭アーチ」) 持っていると記載されています。Leo は、Desiderius が最初に尖頭アーチに目を付けた時と場所についての手がかりも残しています。1065 年に修道院長は、中世ヨーロッパに於いて一番煩雑でイスラム世界の貿易都市への海の玄関口の 1 つであるアマルフィへと、本質的には買い物旅行と言えることを行いました。

今日、絵に描いたように見事なイタリアの観光都市であるアマルフィは、ソレント半島の南斜面にある深い渓谷の入り口に位置し、蜂蜜色のスタッコ塗りの家々と赤い屋根瓦のあいだを溶岩流が、ナポリの南東約 70 キロメートル (45 マイル) のサレルノ湾に流れ出ます。Desiderius はおそらくそこを船で旅しましたが、私はレンタカーを選んで、危険なほどに気を取られてしまうティレニア海の美しさを見渡しながら、ジグザグした断がい側の細長いタールマックの湾岸道路を運転しました。

「[どんな都市よりも]あらゆる種類の別々の場所からの銀、金および織物に最も恵まれている」と、詩人であるアプリアの William が、11 世紀後半、Desiderius の訪問前後に記しています。「[多くの] あらゆる種類のものが、アレキサンドリアのロイヤルシティから、そしてアンティオキアから、ここにもたらされる。その人々は多くの海を渡る。彼らは、アラブ人、リビア人、シシリア人やアフリカ人を知るものである。この民族は、商品の輸出及び購買物の持ち帰りが大好きであり、ほぼ全世界を通じて有名である」

イスラム教徒の間で、アマルフィの評判は確かに抜群です。『Book of Routesand Kingdoms』(諸道と諸国の書) で、10 世紀のトルコ人地理学者 Ibn Hawqal は、この都市を「ロンバルディで最も繁栄している町であり、最も気品があり、その諸条件のために最も輝かしく、最も豊かで豪華である」と、賞賛しました。

この相互の賞賛は、商業目的のために、しっかりと根付いていました。早くも 9 世紀から、アマルフィという小さな共和国は、名目上はビザンチン帝国でしたが、アッバース朝、ファーティマ朝、ウマイヤ朝、その他を含め、黒海からイベリア半島沿岸までの、イスラム教権力との正規の商業的および外交的な接触がありました。西地中海で最も重要な港、アマルフィは、ヴェネチアとだけは東西間の商品交換のパイプとして競争関係にありました。箱いっぱいの タリ—地方で鋳造され、アラビア語で刻印された、4分の1ディナールの硬貨—と、木材や麻、地方特産物で膨らんだ貨物船で、アマルフィの商人は、アラブ・シチリア、北アフリカ、シリアやパレスチナの港で、油、ワックス、スパイス、および金と交換しました。コンスタンチノープルのバザールをうろつきながら、彼らは、金を宝石や香水、美術品、および紫平絹などの高価な織物と交換しました。ビザンチウムから特上の布を輸出することは違法であったため、高価な織物は港から密輸されました。

「アマルフィの人々は、利益を得るために、中近東ではこれまで知られていなかった東洋の外国陶器を伝える試みをした初めての人々でした」と、タイヤの大司教 William が 12 世紀に記しています。「向こう側へ持って行く必要な品物のため、彼らはそうした土地の重要な男たちから非常に有利な条件を獲得し、そこに自由に行くことを許可されていました」

バグダッドからカイロまでの東部の都市は、盛況な商人の居留地を自衛の下で維持し、見返りとして、貿易のパートナーに同様の対応と、自由放任主義の態度を採用しました。ヴァチカンが 9 世紀にアラブ人を南イタリアからの追放を指揮したとき、アマルフィは協力することを拒否して、さらにアラブ船に安全な港を提供しました。それはローマ法王を苛立たせ、頑固な共和国を他のイタリアの自治体から遠ざけましたが、先手が報われました。アラブ軍が後に南イタリアを包囲した際に、アマルフィには手を付けずにおきました。12 世紀の地理学者で世界旅行者のトゥデラの Benjamin はこう述べました。「この場所の住民は貿易に従事する商人で、種を蒔いたり、刈り取ったりしません。彼らは高い丘やそびえ立つ岩山に住んでいるためです。しかし、すべてを金で買い、…誰もそれを持って戦争に行くことはできません」

自然は除いて。1343 年、水中地震と津波が都市の半分を海に運び去り、完全に回復することはありませんでした。そのため、かつて町の中心だったピアッツァ・ドゥオモ (大聖堂広場) は、今では港に接しています。それでも、ピアッツァは、都市で人々が集まる主要な場所であり続けています。ツーリスト・ショップ、ジェラート・パーラー、噴水があります。しかし、都市の本当の心の拠り所であり、ピアッツァに影さえ投げかけるのは、原型は 13 世紀アラブ・ノルマン・ロマネスク様式全盛のもので、1891 年に復元されたサンドリュー大聖堂です。騒々しいブレンドの ムーア様式の縞文様 (アブラク、アラビア語で意味は「雑色の」) は、きらびやかなモザイクと尖頭アーチ、ファサードは、イスラム世界からアマルフィへの輸入品の総計がシルクやスパイスより多くなることが分かるようなはっきりしたメッセージになっています。

下 :vova pomortzeff / Alamy
上 :13 世紀半ばに建設されましたが、アマルフィの十字架のバシリカの回廊のインターレース尖頭アーチは、港湾都市でのイスラム設計の永続的な魅力が強調されています。上 :バシリカの地下室にある 17 世紀のフレスコは、モンテ・カッシーノで彼の仕事にひらめきを与えた尖頭アーチを含め、1065 年に Desiderius が見たと思われる建物を示しています。

「イスラム教世界が南イタリアに与えた芸術的な影響は、[その] 政治的および経済的歴史の具体的な一部となりました」とイスラム美術史家で現在はニューヨーク現代美術館館長の Glenn Lowry は 1983 年のモノグラフ『Islam and the Medieval West』(イスラム教と中世西洋) に記しています。「その結果として、…イスラム美術は南イタリアの語彙の形成に大きな役割を果たしました。その衝撃は、長期にわたる、深遠なものでした」

当時建設中の大聖堂の高くそびえる階段を上っているとき、それは Desiderius に確実に衝撃を与えました。彼は、若い君主にモンテ・カッシーノを気に入ってもらおうと、将来の神聖ローマ帝国皇帝、ドイツ国王ヘンリー 4 世への贈り物を買いにアマルフィへと赴きました。都市の貴重な輸入品の小売在庫を見て回ってから、Desiderius は、前途有望な国王にゴマをするために最適な贈り物として、前述の禁制品の紫平絹を購入することに決め、同時に教会用にいくつか銀の容器を求めました。しかし、Leo of Ostia(オスティアのレオ)によれば、その他に、修道院長の気に入る何かがあったのです。「Desiderius はアマルフィの大聖堂の青銅製の扉が非常に気に入ったため、すぐにモンテ・カッシーノの古い教会の扉の寸法を、この現存しているものをつくるようにという命令とともに、コンスタンチノープルに送りました。

現在、訪問者を大聖堂に出迎える扉は、9 世紀の教会、十字架のバシリカより前にさかのぼるものです。それは Desiderius が建設中に見た教会に隣接して建っています。通常、新しい教会は増築部分として、より古い教会いにつながれるため、結果として、林立する柱とアーチを持つ 6 つの側廊からなる大聖堂になり、宗教的な建造物が「その教会の歴史に従った」キリスト教教会よりも、アラビア風モスクにより似ることになります。現在は主要な大聖堂から分離していますが、それでもなおバシリカは建っています。18 世紀のあいだに、両方がバロック様式に改装されましたが、9 世紀半ばのバシリカの復元によって、美術史家が信じていたものが 10 ~ 11 世紀の身廊と平行した尖頭アーチであることが明らかになりました。アーチの上に、尖頭アーチで囲まれて 2 重列のランセット窓が上部通路に 1 列に並んでいます。そこで女性が礼拝していました。復元の正確性は、バロック様式に作り替える前のバシリカの室内装飾を示す 17 世紀前半の地下室の壁画によって確認されます。これは、Desiderius が見た教会でした。そして、かなり高い確率で、彼にひらめきを与え、青銅製の扉と一緒に、モンテ・カッシーノで同様の特徴を組み合わせたアーチであったのです。コンスタンチノープルから来た建築家達に加えて、Desiderius がアマルフィ人とロンバート人を雇ったと言及することによって、今一度、Leo of Ostia(オスティアのレオ)がこの推測の証拠を示しています。

バシリカを通ってゆっくり歩いていると、私は身廊の尖頭アーチに気付きました。簡単に見逃してしまいそうな小さなものである上、地下室に続く階段の上に半球の「メロン」ドームの、分割された部分、またはスキンチに押し込まれていました。新しい教会の建設の時期を決めると、ドームのアーチがサンタンドリューの中東起源に「意識的な言及」であることになり、「北アフリカおよびエジプト様式建築の典型」であったと、Lowry は推測しました。

「これは、アスワンやカイロの陵墓に見ることができ」と、彼は続けました。「マラケシュのクーバ・バルディヤン (西暦1120 年) のような多くの精巧な建造物も同様です。実際、スキンチおよびメロン・ドームとスラム教世界の葬送モニュメントとの共通の関連性は、形式とそのコンテキストの両方が、中東に旅行したり住んだりした多くのアマルフィ人によく知られていたという仮定を強固なものにします」

私は、そのメッセージの驚くべき意義をしばらくの間身体にしみこませました。Lowry が示唆したことは、サンタンドリューの大聖堂の建設者たちがイスラム様式建築の特徴をまねただけではなく、宗教的な設定で特定の使用方法もまねていたということです。これは模造以上のことです—それは大規模な導入です。十字軍の野蛮な敵対によって頻繁に暗い影を投げかけられた時代に、キリスト教徒とイスラム教徒の間に、そのような精神的で知的な共感が存在したことが、1076 年に教皇 Gregory 7 世からアルジェリア首長 An-Nasir ibn Alnas 宛に書かれ、Lowry が引用した手紙によって強調されています。兄弟のようなトーンで、Gregory は、預言者アブラハムへの共通の敬意を確認し、「私たちは、別々の方法ではあるが、同じ神を信じ告解する」と認めました。さらに特筆すべきは、Lowry が指摘したように、Gregory は首長の地方のキリスト教徒の人々に配慮するように司教を送ってほしいという依頼に応えて手紙を書いたことです。

通用口からバシリカを出て、私は、いみじくも天国の回廊と名付けられた、隣接する中庭に入りました。もしもこの崇高な空間に無意識に腰を下ろしていたとしたら、私は、ふと気がつけば、アンダルシア、モロッコ、またはチュニジアの宮殿にいると断言したでしょう。それというのも、その設計が特徴としてイスラム風であるからです。アマルフィの支配階級の商人のための墓地として、1266 年~ 1268 年の間に建設された中庭の特徴は、2 本一組で並べられた、 120 本の細く白い大理石の柱を支える低い壁に囲まれたセントラル・ガーデンとシュロの木です。柱の最上部から浅浮き彫りで立ち上がっているのは、いわゆる「インターレース」尖頭アーチです。そのアーチは池に投げ込まれた小石から広がる水の環のように交差します。

この静けさから、夕暮れのアマルフィの観光客でいっぱいの通りへと歩みを進めると、私は、アラブ建築の影響のさらなる証拠に気付きました。町を網の目のようにしている、狭い、白塗りの、屋根のある路地や、曲がりくねった道は、南西に約 300 海里のチュニジアの歴史的に重要な Sidi Bou Said のそれと強く似ています。つまり、特筆すべきは、それぞれの大陸が約 5 億年前に行ったのと同じように、1 つの町がもう 1 つの町から簡単に切り離されるのを空想的に想像できるという類似性であるといえるのです。

すべての道路の指示に従うと、私はアマルフィの港に行き着きました。私はアフリカの水平線のきらめく光を見ることはできませんでしたが、それらを想像することはできました。キーキーいう音とともに、横帆式の商船が海岸から戻ってくる、それらは、宝石や絹の箱とともに積み重ねられ、スパイスの香りを抱いています。しかしながら、これらの船はより長持ちする何かも輸送していました。西洋建築の外観を変えた発想です。ここまでは、これらの発想の痕跡、特に尖頭アーチの、南イタリアから北へ向かってフランスへの、明確な地理的、歴史的な経路をたどってきました。少なくとも 10 世紀までは、尖頭アーチは西洋では知られていない目新しいものだったことは、やはり明確でした。東方の建築様式によって創造性を刺激された装置と様式、および、おそらく、場合によっては、戦争や商業的接触によって西洋に行き着いたイスラム教徒の石工たちによって高度な技術でうまく作られていました。

それらの石工たちがアマルフィのバシリカのアーチの仕上げに取りかかるまでに、同様のアーチの優雅なアーケードはほぼ 1 世紀の間、別の祈りの家のよく知られた特徴を持っていました。チュニジアのサヘル海岸沿いの、マーディアのグレート・モスク、そこでの痕跡が私を次へと導きました。


「拳に握られている短剣」は、Ibn Khaldun (15 世紀のチュニジアに生まれた歴史家) が、かつて戦略上重要なマーディア半島 (地中海のチュニスの南約 250 キロメートル (150 マイル) に突き出している) を表した言葉です。実際、短剣の刃の先端を、地域で最も長年にわたって誰もが欲するものの一つへと、まっすぐ東に向けています。エジプトです。10 世紀前半、隠喩の短剣よりも多くのものを巧みに使う男は、'Ubaidallah 、ファーティマ朝の創始者でした。このはみ出し者は、アグラブ朝、北アフリカとシチリアの前世紀のイスラム教徒の支配者、およびバグダッドのはるか彼方にいるアッバース朝のカリフの名目上の代表者を追放することによって、チュニジアのリーダーシップを引き受けました。軍事問題よりも貿易に関心があったため、アッバース朝は 'Ubaidallah の軍隊と野望にはかなわないことが判明しました。無慈悲ではあるが、有能な支配者—彼は権力を手に入れるのを助けた人々を暗殺して、彼と意見を異にする神学者と法律家は公然とむち打ちにされた—'Ubaidallah は自分自身をマハディ (「選ばれた人」)、イスラム教の救い主と呼びました。彼を阻むことはない異教で、戦略的に重要な半島に彼が建設した都市には、彼が自ら選定した称号に関連してマーディアと名付けました。

上 :マーディアのグレート・モスク (チュニジア、916 年建設) は、アマルフィ人商人に知られていた可能性があります。その建設者たちも、同様に、カイルアンのグレート・モスク (下) をよく知っていたことでしょう。そこでは、アーチは 9 世紀半ばの初期までさかのぼります。

916 年に、'Ubaidallah は、半島を本土つないでいる狭い地峡でマーディアのグレート・モスクの建設を命じました。独自のモスクの多くは破壊され、幾度と無く再建や復元がなされました。しかし私が見に来たその部分には重大な例外があります 。主通路およびアーケードです。

かつては支配者と彼の側近のためだけに確保されていた通路を通って、私は、尖頭アーチの 4 辺形に対立する接合された先端によって形成された交差ヴォールトで囲まれた尖頭アーチの側廊を横断しました。構造は、あたかもヨーロッパのゴシック様式教会に由来しているかのように見えます—しかし、それは、その様式がそこで夢見られていたよりも少なくとも 1 世紀前に建設されています。これらのアーチを支える金色のライムストーン・ブロックを加工した石工が後にアマルフィにも赴くということが可能だったでしょうか?祖国の話をしたり、彼の町の礼拝所の美しさを自慢したイスラム教徒商人が、興味を持ったヨーロッパ人の聞き手にこの場所を説明した可能性はあるでしょうか?海の向こうの建造物が祖国で見たどれよりもすばらしいという情報を祖国に戻って共有したのは、もしかすると、この道を通ったり、このアーケードを通り過ぎていったアマルフィ人の商人だったかもしれません。記録に基づいた証拠がないため断言はできませんが、それでも、10 世紀前半までに、ここでこのアラブ港がアマルフィ人商人に知られていて、尖頭アーチが確立され、有名になったという事実が残っています。

そこに立つと、私の精神はその遠い世紀に運ばれ、腰が曲がって日焼けした高齢者が私をゆすってこの世紀に戻してくれます。モスクの管理人の Ibrahim Nouri は、私が建物の歴史に興味を持っていることを知ると、喜んで、私に元のモスクが終わり復元されたモスクが始まる場所、つまり文字通り時代の結合部を私に指し示してくれました。

「この種の建物はもう二度と作れないでしょう」と、彼は率直な敬意を込めて言いました。彼が私に断言した理由は、「それが信仰によって建てられた」ためで、単純な構造よりもアーチが多く使われていることを示唆しています。

Nouri が口にした信仰は、北アフリカの信心深い都市、約 130 キロメートル (80 マイル) 内陸のカイルアンに残っている作品について思い起こさせました。

670 年に、アラブの大将、Oqba ibn Nafi によって、北アフリカ横断進軍中に設立されました。この砂漠の都市は、その名前の文字通りの意味が「停止場所」で、軍隊のキャンプとして区画されていました。その中心には 2 つの建造物があります。モスクと司令官の住居です。オクバのモスクには何も残っていませんが、現在のカイルアンのグレート・モスクは 9 世紀半ばの初期に建設され、世界最古のイスラム教礼拝所の 1 つとされ、後続のすべての北アフリカ様式モスクのモデルでもあります。

カイルアンの歴史的旧市街の銃眼のある壁によって 3 方を囲まれているため、モスクは外側からは要塞化したように見えます。高い壁と先細の、四角形の尖塔を持ち、730 年までさかのぼると信じられています—他のモスクより 1 世紀ほど早く、おそらく世界最古の立位尖塔です。西洋様式の通路は、巨大な控え壁の内部に作られ、日の照りつける旧市街とモスクの強い日差しを浴びた広々とした中庭 (またはサーン) の間に一時的な影ができ、二重構造のアーケードに囲まれています。アーケードの 3 つの側面は、モロッコや南スペインのイスラム建築に共通する、わずかに尖った馬蹄形アーチを特徴としています。しかし、礼拝所に面する南の玄関ポーチは、年代的にも、芸術的にも異なっています。836 年の残りのモスクより約 40 年以上前に建設され、その鋭い尖頭アーチは先端と礼拝所の通路の側面に位置しています。建築家が尖頭アーチをこの特別な用途を選んだ理由を、運よく、調査が実施される日に偶然モスクにいたチュニジア国立文化遺産協会の現代建築家 Mohammad el Hedi Belahmar から教えてもらいました。

「発想は、礼拝所への入り口に注意を集中させることです。入り口ポーチは重要だというメッセージを伝えるためです」と Belahmar は私に語りました。それは、尖頭アーチによって各先端に支えられている 8 つの丸いベイを用いて、視覚的なバランスも取り、どのようにスペースを均等にするかという問題を解決しますと彼は言いました。北アフリカでの尖頭アーチの使用は、このモスクが建設された当時はとても新しいものでした。と Belahmar は言いました。そして、アーチの独特の形は、彼にペルシャの影響、または長期にわたって形式と名前がアラブ化されたことが由来だと推測しました。

「フランスでは、それらはアルク・ブリス、アラビア語でカオウス・ムンカッサールと言い、両方とも「壊れたアーチ」を意味します」と彼は言いました。初期のイスラム教徒建築業者にとっての魅力に関しては、Belahmar はそれを「より高い強度を建造物に与えるための、基本的に技術的な解決法」と見なしました。

その日の夕方になって、私は別の建築専門家からの別の意見を聞きました。カイルアンのイスラム美術館館長の Lotfi Abd Eljaoued です。メディーナの中心部の復元された要塞、カイルアンのラ・カスバー・ホテルでランタンで照らされたたそがれ時のプールサイドに座っているとき、「基本的に、尖頭アーチは光の泉を作るために建物を広くしました」と Eljaoued は私に語りました。「光は重要でした。モスクで神の名前の刻まれた碑文を見ると、それらの多くは光という言葉で神に言及しています」

コーランの 24 章、ノール (「光」) は、1 つの例です。一方、イスラム教の伝統に従って、神の名前アレーム (「全知」) を暗唱する者は、文字通り神の理解を用いて「啓蒙」されます。そのような光の概念の解釈は、Suger 修道院長とよく似ているようです。彼らは私に、単純な構造よりもアーチの使用が常に多くなっていることを考えさせ始めました。それでも、イスラム教徒の石工たちは、ゴシック様式の大聖堂が飛躍的な高さに届くほどには、けっして尖頭アーチを使用しませんでした。一方が他方にひらめきを与えるとしても、この区別の理由は、文字通り、基本的なものです。

ニューアブダビで美術史の教授を訪ねました。中世イスラム美術の専門家、Yasser Tabbaa は、「早くから、キリスト教教会の建築はバシリカと同一と見なされ、長くて高い建物タイプでした。その一方、イスラム建築は中庭のある家の構造に始まっていることが分かり、低く、広く、周囲を取り囲みます」と述べています。「後のモスクでは、トルコ人かペルシャ人かに関わりなく、高さが志向されました—たとえば、ドームでは前者、イーワーンの [高いヴォールト、3 側面の入り口スペース]—しかし、フライング・バットレスを用いて安定化させることは、誰も要求しません」

969 年に、光によっては土地と富への欲求としてそれほどひらめきを与えられなかったため、ファーティマ朝は、マーディア半島の短剣の先の端の土地を、アッバース朝の支配者の手から奪い取りました。エジプトです。これらの支配者の 1 人が、アーチの試行について、次のモニュメントの責任者となる人物でした。カイロと改名されたファーティマ朝の都市の名祖である Ibn Tulun のモスクです。

835 年にバグダッドの奴隷の息子として生まれた Ibn Tulun はアッバース朝の軍隊の出世の階段を上り、イラクのサーマッラーで権力の地位に就き、その後、カリフ、Mu'tasim の下で芸術と建築の中心として活躍しました。868 年に当時のエジプトの首都、フスタートの摂政に任命され、Ibn Tulun は、病院や水道を含む公共事業で都市を拡大し、豊かにしました。公共心だけではなく野心も旺盛であったため、彼は任命から 2 年たたぬうちにバグダッドから独立を宣言して、自分の王朝である、トゥールーン朝を創設しました。新しい政権には、新しい首都が必要でした。そのため、Ibn Tulun はフスタートの北東エリアを、アル・カターイ (「言葉」または「4 分の 1」の意味)と呼ばれる華々しいガバメント・センターに一変させました。ここには、宮殿複合施設、庭園、およびマイダン (公共広場) が整備され、彼にとって十分な広さがあり、中庭ではポロをすることができました。センターは、Ibn Tulun の最高の業績です。モスク複合施設はかつてない大きさ (2.5 ヘクタール/6.5 エーカー)でした。Ibn Tulun の都市複合施設とモスクの設計には、支配者サマラの相続遺産と趣味が反映されました。スタッコ塗りの赤いブロック造りのモスクは、野菜のモチーフの複雑で装飾的な漆喰仕上げが施され、屋外階段室を彷彿とさせる螺旋式のミナレット、サーマッラーの有名なマルウィヤ (「カタツムリの殻」) ミナレットを特徴としています。高い二重壁がモスクを取り囲んで、内部に静かなで穏やかな環境を作り上げています。壁の間のエリアは、ジヤダと呼ばれ、教師たちがコーラン、神学、占星術、医薬、その他について議論するために集ることができます。暑い夏の日中、議論中にのどが渇いたら、中庭の泉から冷たいレモネードを注ぐことができます。室内の壁伝いに、ほぼ連続的にコーランの短詩が並んでいますが、伝説によると、ノアの方舟の残がいから引き上げられた木製の梁に彫り込まれています。

後の 9 世紀に建設された Ibn Tulun のモスクには、Ibn Tulun の故郷のイラク、サーマッラーで一般に使用されるのと同様に、尖頭アーチが煉瓦の支柱から立ち上がっています。

構造全体に形式と壮大さを備えていますが、礼拝所を支え、中庭を取り囲む多数の煉瓦の支柱は、何列にもなった優雅な尖頭アーチの方が勝ります。モスクの建設に関連する物語は、これらの特徴を、さらに多くのイスラム教とキリスト教の協力に結びつけています。10 世紀エジプトの歴史家 al-Balawi は、Ibn Tulun が彼の新しいモスクに 300 本の支柱が必要だと分かったとき、地方の教会から取り出すしか入手する方法はないのですが、支配者は「これを悪いと考え、それを行わないことにした」と記しています。これを聞いて、コプト人のキリスト教徒の捕虜は、偶然建築家であったため、石や大理石の支柱を使わずに、代わりに煉瓦の支柱を選んで、モスクを設計することを申し出ました。Ibn Tulun は、「とても喜んで、彼を自由の身にして、彼にこの仕事をゆだねました」

コプト人のキリスト教徒はモスクの建設、設計、歴史家が承認したほとんどの美術に参加しましたが、煉瓦の支柱を好むのは、明らかにイスラム様式と、特にサーマッラー様式です。モスクの尖頭アーチは、同じく、初期のシリア-イラクの例にならって作られていますが、—Northedge が私に話したように—カイロアメリカ大学のイスラム美術および建築の教授、Bernard O'Kane に、私たちが靴下をはいた足でモスクをぶらついたときに、私がかけた質問です。身なりを整えた、めがねをかけ、アイルランド訛りが町で 30 年経ってもしおれることのない人、O'Kane は、イスラム教建築家の中で尖頭アーチの使用が呼び起こしたものへの最終的な答えに対して Northedge の事前注意を繰り返しました。ただし、彼は気付いていました。象徴的な光で構造物を満たす目的は、Eljaoued が推測したように、説明へと引き付けることでした。

「たとえば、ファーティマ朝は、光の形容語句にちなんでモスクに名前を付けます」と O'Kane は指摘し、いくつかの地方の例をスラスラと述べました。「ハキムというモスクの元の名前は、アルアンワールでした。「壮麗な光」を意味します」アルアズハルも同じことを意味します。アルアクマルは「月光モスク」を意味します。モスクにコーランの短詞の選択をする場合、彼らは光に関連するものを頻繁に選びます。「啓発や光を当てると言う概念が重要だからです」

その想像をかき立てる室内装飾と歴史的重要性にも関わらず、Ibn Tulun のモスクは、実際、年代順の後部座席に座っているようなものです。地下にあるちょっとした手近な工学、ナイル川の中流にあるローダ島のニロメターよりも、はるかに目にとまりにくいものです。

カイロの創立より 108 年前に建設されたニロメターの水門は、知られているなかでエジプト最古の尖頭アーチです。

861 年に建築されたニロメタ-は、毎年起こるナイル川の洪水の高さを測定します。翌年、ごちそうがもたらされるのか、飢えがもたらされるのかを予言する重要な機能を備えています。構造は簡単です。地面の 13 メートル (40 フィート) の石を収める穴に、水の深さを計測するため中央にメモリ付きの支柱と共に下ろします。しかし、穴の途中まで下ろすと、エジプトで最古の現存する尖頭アーチとヴォールトされる 1 組の壁のくぼみがあります。

「慎重な計測は、尖頭アーチのこれらのくぼみが 2 つの中心から入ってきて、範囲が 1/3 に分かれます」と、Creswell は、彼の特徴である客観的な態度で述べました。「つまり、これらのアーチは、ゴシック建築家が呼ぶところの「3角ヤスリ」です。しかし、彼らはどんなゴシックの例よりも 3 世紀早かったのです」

現在はふさがれていますが、すきまは、かつてナイル川の洪水の水の水門としての役割を果たしていました。アーチはどんな危険構造物の働きもしないように思われます。そのため、おそらく装飾的だったのです。ニロメタ-の設計者、ペルシャの天文学者の Abu'l 'Abbas Ahmad ibn Muhammad ibn Kathir al-Farghani は、アーチを現代の建築技術の機能として簡単に組み合わせました。動機が何であれ、9 世紀半ばまでに、尖頭アーチが、事実上、エジプトとマグレブに広がり、その 1 世紀程度以内に南イタリアまで進出しました。しかし、このトレンドは、アラビア半島から西に広がったように、イスラム教から経路を戻って、さらに東で始まりました。その旅の主要な交差点は、メッカ、マディーナの次のイスラム教の 3 番目の聖地であるエルサレムでした。

輝く金が層をなした屋根と空色のタイルを備えた岩のドームは、世界で最もはっきりとした建造物です。実際、それは、エルサレムばかりではなく、中東全体の建築的提喩といえます。近接するアル・アクサ・モスクとともに、アル・ハラム・アル・シャリフ、「聖地」を構成しています。そこから、預言者ムハンマドが奇跡的な「夜の旅」の間に天国に昇ったと、イスラム教徒は信じています。ムハンマドが連れて行かれた場所、イエスが教えた場所、そしてかつてソロモンとヘロドの寺院が建っていた場所で、巨大な岩を取り囲む構造物は、モスクではなく、聖堂です。

lars r. jones / Aga Khan Visual Archives, MIT
エルサレムの岩のドーム (688 年 ~ 691 年建設) の内部柱列のアーチの先端は、微妙ではありますが、構造上の問題を解決し、イスラム様式をビザンチン/キリスト教様式から区別しようとする動きを促進することもできました。

室内も外観も装飾され、何世紀にもわたって復元がなされてきました。岩のドームの 8 角形の骨組みは、岩を取り囲むアーチ柱列の 2 つのコンセントリック・リングを用いてウマイヤ朝カリフ Abd al-Malik が 688 年 ~ 691 年に建設させましたが、Abd al-Malik によって命じられたものと同じ状態のままです。それは世界最古のイスラム教建造物で、その内部は、一部の人からは、イスラム建築における最古の尖頭アーチと言われています。

Yusuf Natsheh (寺院における考古学の責任者) は、アル・アクサ・イスラム美術館館長の Ahmad Taha の会社の構造を訪ねる許可を私に与えてくれました。その建物は、数学的な完璧さで知られています。たとえば、外壁はそれぞれ、ドームの幅と長さは同じ、また基礎からの高さも同じ :20 メートル (67 フィート)。豪華な室内装飾は、きらびやかなモザイク、大理石のパネル張りや、彩色した木工細工であふれていました。ドームを支えている内部柱列のアーチは、互光灯と黒みがかった石材 (アブラク、コルドバのグレート・モスクやアマルフィの大聖堂のファサードにおいて見られるようなもの) によって縞模様で飾られ、それらは、非常にわずかに、先が尖っています。全体的な印象としては、実際、すばらしく豪華な室内装飾でした。Taha はその理由を説明してくれました。

「ウマイヤ朝はキリスト教徒を労働者と管理者として輸入しました」と、彼は言いました。「モザイクを作成した芸術家と労働者はビザンチン、シリア人、キリスト教徒だったため、ビザンチン様式の要素がたくさんありました」

これらの同じ労働者が岩のドームの尖頭アーチにも関与したのでしょうか?おそらく。尖頭アーチはビザンチン建築の共通の特徴ではありませんが、Creswell が記し、Northedge が推測したように、シリアの先例があります。しかし、なぜ、この特定の時代と場所で、それが用いられたのだろうかと、不思議だったのです。旅を通じて、私はアーチの発展に対する現実的動機と哲学的な動機の両方を聞きました。その 2 つが融合したのがここでした。

純粋に機能的なレベルでは、尖頭アーチは技術的な問題に対する解決策でした。円形柱列では、壁の厚みによって、一方の半径が他方より大きいため、外壁へのアーチの開口部が内壁のそれよりも大きいです。これは、アーチ (内輪) の裏面が内側に傾斜しているため、それらを視覚的に不安定にすることを意味します。岩のドームの建設者は、アーチの内側を尖らせて、内輪を一様に水平部まで上げることによって、この問題を修正しました。(建設者は、外部柱列を 8 角形にすることによって、この問題を回避しました。今日では、その後の復元のおかげで、内部柱列の両側のアーチが尖っています)

しかしながら、より深い動機付けが考えられます。岩のドームは、美術史家が一般に同意するところですが、ユダヤ教とキリスト教に対するイスラム教の勝利宣言 (または、イスラム教徒への履行) です。これは、場所と設計により明らかです。岩のドームは、新しい信仰を定義するかたわら、一般的にはビザンチン教会を、具体的には近隣の聖墳墓教会を手本にしましたが、それらすべてに決定的な差をつけることを意図していました。コーラン (4:171) の短詞が刻まれた卓越した碑文は、イスラム教とキリスト教の神学的な差違を直接強調します。「神は唯一神 :栄光あれ神に :はるかに高貴なものは神、息子を持つ以上に」これらの目立つ装飾用の宣言の中心に於いて、アーチが作るメッセージを、どのように簡単に向上させているのでしょうか?

「イスラム建築の初期の歴史でこの建造物の影響力の大きい位置を与え、私たちは、建築用語で、新しい宗教の文化的アデンティティを確立することを始めるにおいて、尖頭アーチの導入の果たし得る役割を考える必要があります」と、建築史家、Peter Draper、『The Formation of English Gothic』 (英国ゴシックの形成) の著者は述べています。

これは、Northedge が私の旅の始めに語った「意図的な芸術的思想」だったのでしょうか?おそらく。それでも、慣習的な見方は、ニューアブダビで Tabbaa がそれらの特性を示したように、岩のドームの尖頭アーチはその後の時代からさかのぼるか、もしそれらが原型なら、より高い重要性がないので、簡単に「現場での修正」ができるのです。Draper によれば、どちらにしても、それらは結局、イスラム建築の「際立った特徴」になります。エルサレム、遠方の要塞および、Northedge が推測したようにヨルダンの東部砂漠にあるウマイヤ朝の王子の狩猟小屋、または、はるかに目にとまりにくい場所、約 30 マイル北西で約 10 メートル (30 フィート) 地下のここで始まったトレンド。

いわば、それは、私が半透明の、まだら陽の水のラムラの地下貯水槽をファイバーグラスの小さなボートで漕ぎ出すこようなものです。ボートの幅広の操縦席は、ここに立ってアーチに近づいて見るには、最高に見晴らしが利く地点になります—壁に刻まれたクーフィー体の碑文によれば—「神の恵みを」、そしてカリフ、Harun al-Rashid の命、「172 年のメッカ巡礼の月に、」 (西暦 789 年 5 月)。そのようにして、貯水槽は独自に残っているアッバース朝のモニュメントであるだけではなく、Creswell 独自の強調によれば「知られている例のうちで最古の、組織的で排他的なフリースタンディング型の尖頭アーチを構成しています」。あたかも、いくらか浸水した状態で、長く忘れられたゴシック教会のように、一組のベイの水面から、優雅で完全なアーチが、6 つの左右対称の側廊を形成して、立ち上がっています。かわいそうに、と、私は思いました。当時でさえ、貯水槽に来た大多数の人々が上からバケツに水を汲むことすら稀であり、ましてや訪問者がこれらの技術作業を見ることはほとんど無く、さらに下での技術系の仕事はほぼ鑑みられることがありません。

しかしながら、Draper が付け加えたように、ラムラは「新しいタイプの建築の言語」を表しています。初期の中東全体に散在している例は、この新しい言語に於ける初めての言葉ですが、ラムラの尖頭アーチははじめて完全な形の文を表しました。この言語がその後の数世紀にわたって成長し広がっていくと、叙事詩のような、中世ヨーロッパのゴシック大聖堂建築の詩になるのでしょう。

尖頭アーチの年代学創設のための探求において、物理的特徴をあちこちで追跡することはできますが、その経路を突き止めるのは難しいままにしておく、というアイディアを私は発見しました。Lowry が記したように、これは、中世のあいだ、[西] とイスラム教世界との関係の強さが静的ではなく、動的であり、芸術的な影響の 1 つのモードから次へと変化しているためです。

そして、キリスト教西洋がイスラム教東方から尖頭アーチを導入したのと同時に、イスラム教も、ペルシャ、ビザンチウム、インド、アジア、アフリカ、さらにヨーロッパから文化的語彙を獲得しました。これを考慮して、Natsheh は彼のかつての教授だった (Creswell のコンテンポラリー・アカデミックのライバルでもあった)、故Ahmad Fikri の説をを言い換えることによって、私にイスラム美術の歴史を要約してくれました。

「イスラム美術の学生はイスラム美術を賢明で美しい子供と考えています」と、彼は笑顔で言いました。「しかし、この子供の目はローマから、手はペルシャから、足はコプト人のエジプトからできています。 そして、これらすべての要素を混ぜ合わせると、良好で賢明な子供となります」

それが本当だとすれば、芸術の歴史の中で最も深遠な運動の 1 つ—ゴシック—は、この賢い子供の遺伝子のおかげと言えるでしょう。

Tom Verde フリーランス・ライター Tom Verde (writah@gmail.com)、Saudi Aramco World 誌への頻繁な寄稿者、イスラム研究およびキリスト教イスラム教関係論の修士号保有者。彼はこの記事を、彼と多くの旅をともにした、彼の師であり助言者、指導者、友人でもある、故Ibraham Abu-Rabi に捧げています。

翻訳記事に関するご意見ご要望

翻訳記事についてお気づきの点がありましたら、saworld@aramcoservices.comまでご連絡ください。今後の改善に役立てさせていただきます。ご送信の際は、件名を英語で “Translations feedback” としてください。多数のコメントをいただく場合、すべてのメールに返信できない可能性もありますので予めご了承ください。

--編集部

This article appeared on pages 34-43 of the print edition of Saudi Aramco World.

Check the Public Affairs Digital Image Archive for 2012年5月/6月 images.