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巻 65, 号 32014年5月/6月

In This Issue

東洋から来た花々 - 文/キャロライン・ストーン 
キャロライン・ストーン
ムガル様式で描かれたカシミール地方の箱を彩るスイセン

ヨーロッパ北部や米国のほとんどの地域では、クロッカスやチューリップ、スイセン、ヒヤシンス、その他、イスラム世界からもたらされた多くの花々のない春など考えられないだろう。 また、ジャガイモやトウモロコシ、トウガラシ、トマト、カボチャなど、中南米の果物や野菜のないヨーロッパ料理も想像しがたい。チョコレートやパイナップル、バニラとくれば、なおさらだ。

おそらく13世紀にヨーロッパにもたらされたサフラン・クロッカスは長らく、医学的価値、そして、より重要なことに経済的な価値を維持してきた。 10世紀のディオスコリデスの「薬物誌」アラビア語版に含まれているフォリオ(左)にもサフランが掲載されている。15世紀の図(右)では女性がクロッカスの花からサフランを採集している。
左: STATE UNIVERSITY LIBRARY、LEIDEN / WERNER FORMAN ARCHIVE / BRIDGEMAN ART LIBRARY、右: ALBUM / ART RESOURCE
おそらく13世紀にヨーロッパにもたらされたサフラン・クロッカスは長らく、医学的価値、そして、より重要なことに経済的な価値を維持してきた。 10世紀のディオスコリデスの「薬物誌」アラビア語版に含まれているフォリオ()にもサフランが掲載されている。15世紀の図()では女性がクロッカスの花からサフランを採集している。

遠い昔から植物は移動し、移植されてきたが、古代ギリシャ、ローマ、イスラム時代には主に経済的または医学的な重要性が関心の的となっていた。 純粋に装飾用の花は16世紀になるまでさほど重視されていなかったが、香りのある花は健康によいとみなされ、薬草とともに分類されていた。 

西暦160年頃に書かれたケイトウ(Cato)の「On Agriculture(農業について)」から中世イスラム世界のアル=アンダルス地方や他の地域の植物学者による農業関連の著書にいたるまで、さまざまな書物はこれらのカテゴリーに集中していた傾向がある。 11世紀後半にメッカ巡礼からスペインに戻る際、植物を収集したイブン・バッサル(Ibn Bassal)でさえ、著書「Diwan al-Filaha農業書)」で180以上の植物を挙げているが、花の美しさや珍しさについてはほとんど触れていない。 現在では驚かれるかもしれないが、イブン・バッサルはトレド、のちにはセビリアで王室植物園の園長を務めていた。 

1430年頃にヘラート派の画家が作成したこの細密画では、タチアオイのあふれる王室庭園が描かれている。タチアオイは中央アジアで特に一般的な植物で、ヨーロッパ北部には13世紀頃にもたらされた。
SNARK / ART RESOURCE
1430年頃にヘラート派の画家が作成したこの細密画では、タチアオイのあふれる王室庭園が描かれている。タチアオイは中央アジアで特に一般的な植物で、ヨーロッパ北部には13世紀頃にもたらされた。

記録に残っている植物伝来の最初の波は古代に発生している。 たとえば、アレクサンダー大王は西暦4世紀のペルシャ遠征の後、レモンとモモをヨーロッパにもたらしたと言われている。 その他の柑橘系の果物は地中海沿岸で知られていた。特にシトロンは有名で、苦みのある(または「セビリア」)オレンジもほぼ確実に存在した。 西暦5世紀にローマ帝国が崩壊した後、農業は衰退し、柑橘系を含む多くの植物は8世紀にイスラム教徒がヨーロッパに侵攻した際に持ち込まれたり、再度伝来したりした。

さらに十字軍の時代にも、もう一度、伝来の波が生じた。 このときも実用的な理由の方が重要だったようである。 英国の地理学者リチャード・ハクルート(Richard Hakluyt)は1580年に著書の中で植物伝来の価値について述べ、「国のために尽くそうとした」巡礼者が生命の危険をおかしてサフランの球根を秘密裏に英国に持ち込んだと書いている。これは、西暦6世紀に蚕の繭を中国からビザンチン帝国にこっそり持ち帰ったという僧の話にも似ている。

現在、春になると北欧の庭を覆うクロッカスは、13世紀中頃に英国に到着したようだ。 その名前はアラム語の「kurkama」に由来し、地中海とユーラシアが原産だ。 

サフラン(Crocus sativus)はクレタ島でほぼ確実に栽培植物化されていた。この島では、3000年以上にわたってサフランが栽培されている。 サフランはスパイスや薬、染料と同程度に価値が高く、品質管理に関するほぼすべての規定には粗悪品に対する規制が含まれていた。 クロッカスの重要さはその美しさではなく、換金作物としての価値にあった。

13世紀中頃に英国にもたらされた可能性があるもうひとつの植物は、タチアオイだ。 伝統的なコテージの庭には付き物になっている植物だが、原産地はユーラシアだ。 多くの種が中央アジアからもたらされ、多数の絵画(特に15世紀中頃のヘラート派)の背景に使用されている。 (の図を参照。) タチアオイの名前(Hollyhock)は「Holy Hoc」または「holy mallow」(聖なるゼニアオイ)に由来すると考えられている。パレスチナ(聖地)からもたらされたためである。 ウスベニタチアオイや人気の高いエジプトとチュニジアの野菜モロヘイヤなど同属の多くの種類と同様、タチアオイは薬効があると考えられており、これが理由で広まったのだろう。

最後の氷河期において、北ヨーロッパの植物相は大幅に減少した。これらの土地からの旅行者は、ユーラシア大陸の豊かな植物に触れ、非常に驚嘆し感銘を受けた。英国には独自のバラ—イヌバラ(Rosa canina)—があったが、13世紀におそらくはシリアから美しく香り高いダマスクローズ(Rosa damascena)がもたらされた。シリアでは、このバラは数世紀にわたって重要な換金作物として栽培されていた。 シリアの博物学者アル=ディマシュキ(al-Dimashqi)は1300年頃の著作で、「ダマスカスの有名なバラ水」を作るための主要な材料として経済的な意味でのみこのバラに言及している。

極東の園芸家は、装飾用植物の種類を増やすために選択育種を長い間、行っていた。 このような考え方は1500年頃までに西方に浸透し、イスラム世界とヨーロッパ双方に広がった。 16世紀初頭にインドでムガル帝国を構築したバーブル(Babur)は、自然をこよなく愛し、庭園を造り、チューリップを好んだ。 1504~1505年には多様なチューリップ属の中心地だったカブール地域について書いている。

様式化されたチューリップが、1563年に完成したイスタンブールのリュステム・パシャ(Rüstem Pasha)モスクのタイルを彩っている。 中央アジアを起源とする多種多様なチューリップは、オスマン・トルコで最も人気の高い花のひとつとなり、芸術的なモチーフとして使われた。
Bridgeman art library
様式化されたチューリップが、1563年に完成したイスタンブールのリュステム・パシャ(Rüstem Pasha)モスクのタイルを彩っている。 中央アジアを起源とする多種多様なチューリップは、オスマン・トルコで最も人気の高い花のひとつとなり、芸術的なモチーフとして使われた。

さまざまな色のチューリップが丘を覆っている。数えたことがあるが、32種か33種はあった。 そのひとつを「バラの香り」と名付けた。赤いバラの香りに似ていたからだ。このシェイク(Shaikh)平野では自然に生長しているが、他の場所では見たことがない。 もうひとつのチューリップは「百枚葉」と名付けた。これもグル=ブンド(Ghur-bund)の狭い山道やパルヴァーン(Parwan)の丘のふもとでは自然に生えている。

その後、バーブルは故郷のウズベキスタンやカシミール地方から多くの植物をインドにもたらそうとした。 その一部がムガル帝国時代の細密画に描かれており、刺繍や織物、絨毯、家具のほか、彫刻や象眼の装飾的なモチーフにもなっている。

多種多様なチューリップへの情熱はイランとオスマン帝国を通して西方にも広がり、16世紀には花と庭への関心が高まった。 チューリップ、ヒヤシンス、バラ、カーネーションのほか、スイセンなどの花が人気を博した。 チューリップは無数のタイルやイズニクの有名な陶器、宮殿の装飾絵画、写本の漆の表紙、織物(絹天、刺繍を施したモスリンのスカーフなど)に何度も登場している。 アルバニアのドゥラス(Durrës)で「Lâle Devri (チューリップ時代)」の最中に建てられ、最近、復元された18世紀のモスクでは、ミナレットの上までチューリップで覆われている。 

ムガル帝国のダーラー・シコー(Dara Shikoh)王子のために1630年に作成されたこのフォリオには、ヨーロッパに伝えられたものも含め、バラ、アイリス、デルフィニウム、アジアン・マリーゴールドらしきものなど、中央アジアとカシミール地方の複数の花が優雅に描かれている。 
The British library
ムガル帝国のダーラー・シコー(Dara Shikoh)王子のために1630年に作成されたこのフォリオには、ヨーロッパに伝えられたものも含め、バラ、アイリス、デルフィニウム、アジアン・マリーゴールドらしきものなど、中央アジアとカシミール地方の複数の花が優雅に描かれている。 

17世紀のオスマン時代の旅行家エブリヤ・チェレビ(Evliya Çelebi)はトルコの庭師ギルドについて説明し、花やその使用方法に何度も言及している。 たとえば、香りのある花はモスクに飾られ、メッカ巡礼のキャラバンがイスタンブールを出発する際は大きな盆に入れられた花が行列を彩った。 また、スレイマン大帝の宮殿にあるエディルネ庭園についても、 「地球上の他の庭園とは比較にならない。ドイツ人の国にあるウィーンの帝都でさえも」と書いている。 花の一覧には「チャイニーズ・ヒヤシンス」も含まれている。 

中国から西方へのより大規模な花の移動は18世紀中頃になるまで始まらなかったが、スルタン・アフメトIII世の時代、18世紀初頭に書かれた「Tuhfe-i Çerağan(すばらしき祭典)」には、ランプの灯りで夜行性の花を愛でる祭りが帰国した大使館員によって伝えられたと記されている。

しかし、さまざまな花に関する情報は美しい図入りの学術書に由来している。このような書物の最たる例の一部はイスタンブールのトプカピ図書館に保存されている。 1736年頃の「Sümbülname(ヒヤシンスの書)」には、42種類のヒヤシンスが図とともに掲載されている。 (皮肉なことながら、その名前から察するに1~2種類はオランダからオスマン帝国に帰ってきたもののようである。) 他の画集には花の由来、栽培方法に関する詳細な情報のほか、主な育種家と収集家に関するメモや、有名な球根とその所有者の名前、価格さえ掲載されていることがあった。 

「スイセンという名前はアルジェリアに由来する。 アフメト・チェレビ(Ahmed Çelebi)がここで最初に植えた」と17世紀のスイセンに関する書物「Sükûfenamesi」でアブドゥラ・エフェンディ(Abdullah Efendi)は書いている。 スイセンの種類と栽培法についても説明し、数十枚の図を掲載している。 これは、より大雑把な情報しか提供していなかった早期の著者とは対照的な扱いだ。 たとえば、ペルシャの旅行家ナースィレ・フスラウ(Nasr-i Khusraw)は1047年、ハマからダマスカスまでの海岸沿いの旅について「平原に到着したが、どこも咲き誇るスイセンの花で覆われ、平原全体が白く染まっていた」と書いているが、それ以上の詳細には触れていない。 スペインは多種多様なスイセンの中心地だったのだが、イブン・バッサルはスペインの「白いスイセン」「黄色いスイセン」「キズイセン」についてのみ言及している。

「数々の困難を乗り越えて、インド、マグリブ、アルジェリア、そして遠いヨーロッパの国々から花を輸入した人々、花の品種改良・栽培にすべてを捧げた人々がいた... ある記録によると、チューリップの品種は481種に上り、そのうちの149種がクレタ島およびキプロス島産であると言われている。」-アブドゥルアジズ・ベイ(Abdülaziz Bey)、 1900年頃、ヌルハン・アタソイ(Nurhan Atasoy)著「A Garden for the Sultan(スルタンの庭)」(2002年)より抜粋英国には独自の野生のラッパズイセン(Narcissus pseudonarcissus)があり、ワーズワースの詩で有名だったが、16世紀には庭師たちは新種を探していた。 著名な園芸家ジョン・トラデスカント(John Tradescant)は植物一覧のひとつに以下のように記載している。

1630年に外国のものを受領。 コンスタンティノープルのピーター・ワイチェ氏 [英国大使] より:

….スイセン 1

シクラメン 1

キンポウゲ 4

チューリップ・カッファ

チューリップ・パース

アネモネ 4種類...

花、そしてモチーフとしてのチューリップの人気はトルコから西および北へ広がった。 アルバニアのドゥラス(Durrës)では、18世紀のミナレットがチューリップで覆われている。 
Caroline Stone
花、そしてモチーフとしてのチューリップの人気はトルコから西および北へ広がった。 アルバニアのドゥラス(Durrës)では、18世紀のミナレットがチューリップで覆われている。 

2年後、彼はヒヤシンス、チューリップ、数種のスイセンを受け取った。この中には、「Narcissus Constantinopolis」も含まれていたが、おそらくはナースィレ・フスラウが好んでいた種類「Narcissus tazetta(フサザキスイセン)」だろう。

カーネーションや他の花に関する書物もあるが、バラと、もちろん、チューリップの人気の方がはるかに高かった。 18世紀の学術書によると、チューリップの人気を広めたのはスレイマン大帝の主席裁判官エブスウド・エフェンディ(Ebüssuud Efendi)だった。 たとえば、エフェンディは白いチューリップ(おそらくはトルコ・ボル地方の野生種の栽培中に発見された自然突然変異)をもらうと、自分の庭で繁殖させた。 

フェンニ・チェレビ(Fenni Çelebi)の書いた別の「Sükûfenamesi」には、メフメド・アガ(Mehmed Aga)が収集して繁殖させた「クレタ島のチューリップ」に関する広範な情報が記載されている。クレタ島カンディア(イラクリオン)の21年にわたる包囲作戦(史上最長)の際に収集されたものだろう。 ベネツィアが支配していたこの町が1669年、オスマン・トルコ軍の手に落ちた後、チェレビは花のコレクションを無事にイスタンブールの自宅まで持ち帰ることができた。

16世紀までに新しいエキゾチックな種類の植物に対する情熱がヨーロッパで根付き、チューリップのような花は実用的な特徴よりも外観に対して積極的に求められるようになった。 

17世紀のドイツの「Album Amicorum(友好の画集)」に掲載されている絵には、チューリップやアイリス、アネモネ、バイモ、野生のグラジオラスなど、東洋から伝来した花が数多く描かれている。 
Christie’s images / Bridgeman art library
17世紀のドイツの「Album Amicorum(友好の画集)」に掲載されている絵には、チューリップやアイリス、アネモネ、バイモ、野生のグラジオラスなど、東洋から伝来した花が数多く描かれている。 

チューリップの名前の由来とヨーロッパにどのようにしてもたらされたかについては諸説ある。 1546年にフランスの博物学者ピエール・ブロン(Pierre Belon)はギリシャ、小アジア、エジプト、シリア、パレスチナへの調査旅行へ出かけ、1553年に「Observations(観察)」を出版した。 この中で、トルコではターバン(トルコ語で「tülbend」)にチューリップを飾ることがおしゃれとされており、チューリップはわずかながらターバンに似ていると書いている。 トルコ語ではチューリップは「lâle」なので、近代の英語名(tulip)は頭飾りと花を混同した結果ではないかと推測されている。 

ただし、ブロンがチューリップの球根を故郷に送ったという証拠はない。 オーストリアの外交官オジエ・ジスラン・デ・ビュスベク(Ogier Ghislain de Busbecq)が、友人でウィーンの帝国薬草園を管理していたフラマン人植物学者カロルス・クルシウス(Carolus Clusius)にチューリップを渡したという説もある。 ビュスベクはスレイマン大帝の宮廷で大使を務め、1554年から1562年まで毎年、数ヶ月はイスタンブールに滞在していた。 チューリップのほかにも、ライラックやムスカリ、プラタナスなどの球根や植物を多数、ウィーンや他の場所にいる友人に送ったとされている。 クルシウスはその後、ライデンに移り、ヨーロッパで最初の学究的な植物園のひとつを創設した。 このような伝達によって、1630年代のオランダでは「チューリップマニア」と呼ばれる並はずれた現象が起き、今日の大規模な輸出産業につながった。

この細密画には2人のトルコ人とともに庭で食事をするヨーロッパ人が描かれている。 このような場で花や種、球根、購入場所の助言などが交換された可能性がある。
Walters art museum
この細密画には2人のトルコ人とともに庭で食事をするヨーロッパ人が描かれている。 このような場で花や種、球根、購入場所の助言などが交換された可能性がある。

しかし、球根に対する大きな需要は目新しいものではなかった。 ヌルハン・アタソイ(Nurhan Atasoy)は「A Garden for the Sultan(スルタンの庭)」(2002年)で、トプカピ宮殿の台帳を引き合いに、たとえば、1592年には5万株の白と5万株の青のヒヤシンスの緊急リクエストがトルコ中南部マラシュ(Maraş)にある夏の牧草地から寄せられていたことを示している。 

外交官と商人は、庭園用の花をヨーロッパに持ち帰る上で重要な存在だった。 彼らは植物を収集している、庭がある、または植物の入手場所を知っているといった人たちと交流があった。 クルシウスは、1575年にウィーンで初めてシラー(Scilla siberica)が咲いたと書いている。これは、オスマン宮廷への派遣団の一員からもらった球根を彼が育てたものだ。 現在ではシラーは早春に北部の庭を鮮やかな青で覆う風物詩となっている。

ユリが西ヨーロッパ原産かどうか定かではないが、バルカン半島とアジア西部を起源とするマドンナリリー(Lilium candidum)が古代から存在していたのは確かである。 「聖母のユリ」という名前が示すように、純潔と貞節に関連付けられて重要な象徴となった。 

他の種類のユリもコンスタンティノープルからもたらされた。 華やかなヨウラクユリ(Fritillaria imperialis)はクルディスタンからヒマラヤのふもとにいたる広い地域が原産で、赤いものは染料として使われていた数多くの伝説に登場し、細密画や刺繍のモチーフとしてもよく使われている。 クルシウスは1576年にオスマン帝国からウィーンに球根を送ってもらい、すぐに優雅な庭園の「必需品」になった(現在ではあまり栽培されていない)。 黄色い種(ゲンチアナ(lutea))は1665年に初めて記録されている。

16世紀におそらく同じ経路で伝来したもうひとつの種がマルタゴンリリー(Lilium martagon)である。 ユーラシア全体に生えていたが、ヨーロッパの特定地域の原産という説もある。 「マルタゴンはトルコ語で小さくきっちり巻かれたターバンを意味し、どこに生えていたかに関わらず、オスマン帝国からヨーロッパにもたらされたことを示唆している。 英語では16世紀に登場し、1597年までにはノルウェーのベルゲンで栽培されていたことが明らかになっており、人気の高い植物がどれほどすばやく広がったかがわかる。

「私は、良い物を持ち帰りたいという強い願いを抱いていた。外国の美しいものを利用して自国を豊かにすることは私たち皆の使命である。 中でも、私は花に新しい何かを見出すことは可能であると思う。ここにもそこにも花は無数にあり、皆が花に興味を持っているからである」」-ピエトロ・デッラ・ヴァッレ(Pietro della Valle)、イスタンブールにて、1615年6月27日ライラック(Syringa vulgaris)はヨーロッパ東部の春に欠かせないもうひとつの象徴だ。バルカン半島原産だが、宗教的、政治的な分割が原因で、コンスタンティノープルの庭園から2つの経路を介してヨーロッパ西部に伝来した。 ビュスベックがウィーンに持ち帰ったほか、ベネツィアの大使がイタリアに伝えた。 

17世紀初頭にムガル帝国とオスマン帝国双方の宮廷で英国大使を務めたトーマス・ロー卿(Sir Thomas Roe)は、主任庭師ジョン・トラデスカントの要請でバッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズやチャールズi世など母国のさまざまな貴族に植物を送っている。

最も珍しい植物で最高の庭園を作り出そうとする競争が激しかった時代である。 バッキンガム公はレバントの商人にできる限りエキゾチックで珍しい花を送るよう要請している。 このため、トラデスカントがオランダに派遣され、中東から伝来した多くの植物をもたらしたのは驚くに値しない。 また、ロシアへの探検にも出向き、カラマツや香り高いナデシコの一種など新しい種を持ち帰っている。 (残念ながらトラデスカントは自らこれを保証することはできなかった。 嗅覚障害だったのである。) 

ナデシコはヨーロッパの象徴的な花であり、多くの絵画や写本の縁に登場しているが、常に5枚の花弁で小さく平たい花として描かれていた。 オスマン帝国で好まれていたカーネーションはナデシコとは異なり、明らかにひだが多い。野生種がないため、地中海のオランダナデシコ(Dianthus caryophyllus)との雑種として栽培されていたようだ。 ナデシコは16世紀中頃にコンスタンティノープルからイングランドにもたらされ、特徴的なクローブの香りがする八重咲きの真紅の花になったようである。 

ペルシャの詩をおさめたこの画集は18世紀初頭のもので、このフォリオにはダマスクローズが果物の花やスミレ、シラーとともに描かれている。
Private collection / Caroline Stone
ペルシャの詩をおさめたこの画集は18世紀初頭のもので、このフォリオにはダマスクローズが果物の花やスミレ、シラーとともに描かれている。

カーネーションの選択育種はオスマン帝国と西洋の庭の双方で始まった。 1600年代の初頭までには数十種類ができていた。ある英国のリストには63種が掲載され、トルコの「Karanfil Risalesiカーネーション専門書)」には現代のカーネーション(おそらく世界で最も広く売られている花)の祖先ともいえる種類の一部が掲載されている。 

さらなる旅行の機会を利用すべくトラデスカントは1620年、アルジェリアの海賊征伐遠征にも志願した。 遠征は成功しなかったが、トラデスカントはモロッコのテトゥアン近くの海岸になんとか上陸し、「バーバリー(Barbary)の地がコーンフラッグやグラジオラスにどこまでも覆われれているのを見た。」 20世紀後半になっても、明るい赤紫色のグラジオラス(Gladiolus byzantinus)に覆われた野原は北アフリカの絶景だった。

グラジオラス属は主にサハラ砂漠の南に生えているが、この種は北部にもよく適応し、瞬く間に人気が高まった(今日のより大きな庭用グラジオラスの祖先である)。 驚くべきことに、イスラム世界では庭師や芸術家の興味を引かなかったようだ。庭ではなく農業に関係付けられ、雑草として認識されていたからだろうか。 この遠征からの他の戦利品には、「アルジェ・アプリコット」(当時、英国で知られていたものよりも優れた種)や「鮮やかな真紅」の野生のザクロ(すでに栽培種が知られていた)、「なめらかなカーネーション」などがあるとトラデスカントは書いている。

この時代、東洋からの植物はすべて、さらに西へと渡り、職業園芸家の手によって大西洋を超え北米・南米へと運ばれ移植された。 18世紀中頃までにコンスタンティノープルやアレッポ、ウィーン、ライデンの庭園で誇らしく咲いていた花々は、バージニア州アレクサンドリアや近郊のジョージタウンでもありふれたものとなった。

キャロライン・ストーン(Caroline Stone) キャロライン・ストーン[email protected])はケンブリッジとセビリアに居住している。 最新の著書「Ibn Fadlan and the Land of Darkness(イブン・ファドランと暗黒の地)」は、極北の地における中世アラブ人の記録をポール・ランド(Paul Lunde)とともに翻訳したもので2011年、ペンギン・クラシックス社から出版された。

 

おそらく13世紀にヨーロッパにもたらされたサフラン・クロッカスは長らく、医学的価値、そして、より重要なことに経済的な価値を維持してきた。 10世紀のディオスコリデスの「薬物誌」アラビア語版に含まれているフォリオ(左)にもサフランが掲載されている。15世紀の図(右)では女性がクロッカスの花からサフランを採集している。 おそらく13世紀にヨーロッパにもたらされたサフラン・クロッカスは長らく、医学的価値、そして、より重要なことに経済的な価値を維持してきた。 10世紀のディオスコリデスの「薬物誌」アラビア語版に含まれているフォリオ(左)にもサフランが掲載されている。15世紀の図(右)では女性がクロッカスの花からサフランを採集している。

This article appeared on page 38 of the print edition of Saudi Aramco World.

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