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巻 65, 号 32014年5月/6月

In This Issue

緑のサハラ、最後の湖 - 文・写真/シェルドン・チャド
ヤシの木に囲まれたブク湖のまわりで夕日が砂丘と山塊に陰影を織りなす。かつては緑に覆われていたサバンナの地質学的な名残をとどめ、広大だった「古き湖」の面影を残すウニアンガの18の湖のひとつだ。

日の出から数分後、古いチャーター機はチャド北部最大のオアシス、ファヤ・ラルジョー(Faya Largeau)への降下を完了しようとしていた。 眼下のサハラ砂漠南部は荒涼とした暗い景色から鮮やかなオレンジ色の砂丘へと変貌し、ナツメヤシの木が1本、そして数本あらわれ、飛行機が着陸する頃には森と化す。

空港警備部長のマハマト・スレイマン(Mahamat Souleymane)は私のパスポートの姓を見て、にやりと笑う。 チャドへようこそ」と言いながら2つの意味を強調して、繰り返す。 

私は、地球上で最大の地質学的異変のひとつ、ウニアンガ湖群(Lakes of Ounianga)を通して見たサハラ砂漠の気候史を探るため、この中央アフリカの国にやって来た。 国連教育科学文化機関(ユネスコ)は2012年、相互につながった18の淡水、塩水、過塩水の湖を世界遺産に登録した。 

「湖にはそれぞれ独自の逸話がある」とコロンビア大学の海洋地質学者ピーター・デマノカル(Peter deMenocal)は言う。彼の研究は、サハラ砂漠の気候史に関する最新の見解を支持している。 最も近い他の湖、チャド湖から800キロメートル以上離れた砂漠の奥深くにあり、明らかに環境的に場違いなこの湖群には一体どのような背景があるのだろうか。 今回の探検には、このような背景を探り、証明することに多くの時間を費やしてきた2人の男が参加した。そのうちの1人は湖への1日がかりの旅を始めるため、3台の4x4車両とともに待ち構えていた。 チャドのユネスコ担当科学委員会の議長で、同国きっての科学者でもあるババ・マラー(Baba Mallah)だ。

地質考古学者で40年にわたりサハラ砂漠東部の研究を続けているステファン・クレーペリン(Stefan Kröpelin)は、ウニアンガの湖底の年ごとの堆積物を調査し、サバンナがいつ、どのようにして乾燥し、現在のサハラ砂漠になったのか正確にモデル化しようとしている。
地質考古学者で40年にわたりサハラ砂漠東部の研究を続けているステファン・クレーペリン(Stefan Kröpelin)は、ウニアンガの湖底の年ごとの堆積物を調査し、サバンナがいつ、どのようにして乾燥し、現在のサハラ砂漠になったのか正確にモデル化しようとしている。

ババ(チャドではファーストネームが慣例)の後に続くのは、ステファン・クレーペリン(Stefan Kröpelin)だ。ドイツ・ケルン大学のベテラン地質考古学者で、40年にわたりサハラ砂漠東部に通い、1999年からはウニアンガで研究を行っている。 

ババの使命はクレーペリンと協力し、湖の科学的な最新情報をユネスコに報告し、願わくばいくつかの新しい発見をすることだ。 彼は熱心に「珍しい砂漠の地質」を私に見せたがっていた。 「自然の美しさ、神秘。そこにはすべてがある。私たちの宝でもある。 他の国の人が森を愛するようにチャド人は砂漠を愛している。」 

夕食用の羊とともに荷物を運ぶためのルーフラックを修理した後、私たちはランドクルーザーに乗り込み、未舗装の道へ出た。1ヶ月に1度使われるかどうかという道路は、私たちのめざす ウニアンガ・ケビル群(大ウニアンガ)まで続いている。 クレーペリンは、冗談まじりにこの道を「高速道路1号線」と呼んでいる。 運転手のアブドゥルラヒム(Abdulrahim)は古いタイヤ跡の外側で地面がやわらかい砂になる場所を察知すると、シフトダウンする。 何度も、何度も。 

私が見回すたびに砂漠は色を変える。 ここで1本の木が奇跡的に生き延びていたと思ったら、 あちらには遠い祖先が動物を捕まえて命をつなぐために使用した「罠の石」がある。 鉄器時代が始まった頃に近いのだ。 また、私たちが人間として行動を開始した場所にも近い。 2001年と2002年にはここからさほど離れていない砂漠で、頭蓋骨の一部を含む化石が見つかり、「トゥマイ(Toumai)」と名付けられた。この地域のゴラン語で「生命の希望」を意味する。 700万年前にまでさかのぼるトゥマイは現在知られている最古のヒト科の動物であり、チンパンジーとヒトが袂を分かったポイントに最も近い存在である。 トゥマイに学名を与えたのはババだ。サヘラントロプス・チャデンシス(Sahelanthropus tchadensis)という。 

日没の1時間前、巨大なアーチ形の砂丘のすべり面に野営するために停まった。三日月形の砂丘が夜間、私たちを風から守ってくれる。 明るいオレンジ色の砂は100メートルにも達し、ひとつの砂丘には20万トンもの純粋石英岩が含まれている。 サハラ砂漠に広がるよく似た幾多の砂丘と同様、これも地中海の砂で形成されている。鳥の群れのようにハルマッタン貿易風とともに南に移動し、過去数千年の間、毎年8メートルほど動いている。 これまでのところ、この砂丘は2400キロほど南下している。 

その夜、星空の下で絨毯の上に座り、私たちは羊肉を食べた。 チャド・アラビア語(国内ではほぼ一般的に使用されている)、ゴラン語(北部の現地語)、フランス語、英語、ドイツ語など、多国語が飛び交っていた。

「世界中の砂漠には塩湖があるが、淡水湖はない」とチャドの国家科学研究センターのディレクターであり物理学者のババ・マラーは言う。 ブク湖のアシに覆われた湖岸に立ち、アシが蒸発作用を遅らせる上、湖の下にある帯水層からにじみ出る水のおかげで湖水は淡水のままでいられるとババは説明する。 
「世界中の砂漠には塩湖があるが、淡水湖はない」とチャドの国家科学研究センターのディレクターであり物理学者のババ・マラーは言う。 ブク湖のアシに覆われた湖岸に立ち、アシが蒸発作用を遅らせる上、湖の下にある帯水層からにじみ出る水のおかげで湖水は淡水のままでいられるとババは説明する。 

教育を受けて物理学者になったババは博学の科学者でもあり、チャド科学支援センターを率い、17年間にわたってチャドのあらゆる研究を監督してきた。 2012年には、石油研究所の所長にも就任した。 家系では、11世紀にイスラム教を中央アフリカにもたらしたカネム・ブルヌ(Kanem-Burnu)の血縁にあたる。

ババは子供の頃からウニアンガ湖群を訪れていた。 彼の村は湖群の南側に最も近い地域、カネム(Kanem)にあった。 北に向かった人たちは「Toubou南から来た兄弟)」と呼ばれ、この地域にとどまった人々は「Kanembu(山の民の兄弟)」と呼ばれたという。 

夜が深まるにつれて、チャド観光局長のマフマド・ユヌス(Mahmoud Younous)はホテルの格付けを揶揄し、私たちの砂丘の野宿を「le hotel de milles étoiles(数千の星のホテル)」と呼んだ。 実際のところ、数千ではきかないだろう。  サハラの夜は大自然を実感できる場だ。

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次の朝早く、私たちは砂岩のテーブルロックや山塊を通り過ぎた。 他にも針状、ピラミッド状、スフィンクス状のヤルダンを見かけた。数百万年の間、ハルマッタンによって空気力学的に築き上げられた地形だ。 

その後、草木がないはずの砂漠で牧草や野草をはむラクダを見かけた。 車が頂上に差し掛かり、予期はしていたのだが、それでも私はその絶景に息をのまずにはいられなかった。 ウニアンガ・ケビル群の端、急斜面の下のくぼ地には蜃気楼が広がっていた。 濃い緑の木々と濃青色の湖。 風に運ばれてくる埃を避けて目を細めると、その景色はさらに超現実的なものになる。 滞在中、私はずっと風の音を聞き、風に触れ、感じ、においさえかぎとっていた。

チャド人の方では、別の「不思議」が彼らの心をとらえていた。 携帯電話の通話区域だ。 近くに通信塔があるため、今では探検に来た誰もが首都のN’Djamena(ンジャメナ)に電話をかけ、メールを送っている。 

4つの湖から成るウニアンガ・ケビル群の最初の湖ユマを見に出かける頃には、太陽が沈み始めていた。 この塩湖を分かつ砂州のすぐそばで1人の男がゆったりと水浴びをしていた。 水の色は赤い。場所によっては15センチもの厚さで湖を覆っている藻、スピルリナ・プラテンシスのせいだ。 においもきつい。 私たちが到着する前、数週間は風がほとんどなかったのだろうとクレーペリンは説明する。 「風があれば、におうことはない。」 しかし、においや、サハラ砂漠で人が泳いでいる光景よりも衝撃的だったのは、カエルの鳴き声だ。 

ほぼ1万1000年から5,000年前まで続いていたアフリカ湿潤期と呼ばれる「緑のサハラ」時代の生き証人だろう。ウニアンガではまだ、しっかりと生き残っている。 このカエルは、かつて活気に満ちていた北アフリカのサバンナの生物学的な遺物なのだ。今や灼熱のサハラ砂漠だが、ゾウやキリン、カバ、アンテロープ、家畜の祖先であるオーロクスがここを棲み処としていた。

私たちはウニアンガ・セリル(「小ウニアンガ」)と呼ばれる2番目の湖群でブク湖のほとりにある丘にキャンプ地を設けた。ウニアンガ・ケビルの湖から50キロメートルほど西のところだ。 ブクはヤシの木に囲まれた深い青色の淡水湖で、緑のアシに半分覆われている。山塊と異動する砂丘の「火星」的な景色になぜかマッチしている。

開けた場所で野営していた午前3時、 5匹のジャッカルが1メートルほど先で私の頭上を取り囲んでいることに気付いた。 私の体のどの部分に誰が最初にかみつくか相談しているようでさえあった。 ジャッカルを追い払った後、再び眠りに落ち、目がさめたときには壮麗な日の出に迎えられた。 何もかもが静かだった。 オレンジ色の砂、山塊、湖。 朝日の中ですべてが輝いている。 

湖岸まで歩きながら、足元の美しさにも目を奪われた。 石器のハンマーやスクレーパーなどの道具が散らばっている。50万年前のものもあれば、「わずか」5,000年から1万前の新石器時代の「新しいもの」もある。 短波ラジオを耳に押しつけてニュースを聞いているババに会った。野生の草原の隣にいるように見えたが、実際には湖の上に生い茂るアシだった。

アシから離れて見たブク湖の真水は目にやさしいだけでなく、水生生物(右下)にもやさしい。
アシから離れて見たブク湖の真水は目にやさしいだけでなく、水生生物(右下)にもやさしい。  

 「世界中の砂漠には塩湖があるが、淡水湖はほとんどない」とババは言う。 

サハラ砂漠は世界最大の灼熱の不毛の地だ。 (北極・南極地域も不毛の地で、さらに大きい。) ここでは陽光が非常に強く、最寄りのヨアン湖で記録された蒸発率は水位を年間6メートル下げるほどの高さだった。 しかし、現在、そしておそらくは超乾燥状態が続く過去3,000年間、降雨量は年間数ミリメートルに過ぎない。 当然のことながら、どの湖も「最も塩分濃度が高い海のようになるはずだ」とババは言う。さもなければ、ずっと前に完全に消えていた。

サハラ砂漠は世界最大の灼熱の不毛の地だ。 (北極・南極地域も不毛の地で、さらに大きい。) ここでは陽光が非常に強く、最寄りのヨアン湖で記録された蒸発率は水位を年間6メートル下げるほどの高さだった。 しかし、現在、そしておそらくは超乾燥状態が続く過去3,000年間、降雨量は年間数ミリメートルに過ぎない。 当然のことながら、どの湖も「最も塩分濃度が高い海のようになるはずだ」とババは言う。さもなければ、ずっと前に完全に消えていた。

「しかし、ウニアンガにはとても大きな淡水湖がある」と、ババは、蒸発率を加速させてしまうほどのあたたかい笑顔で矛盾を指摘する。 

ババによると、アシ属のアシガマは最高6メートルにも成長し、水深20メートルの湖に堆積物を浮遊させる。 「ここでは日光が直接水面に当ることはない。 蒸発率が非常に低いので、水はほぼ完全に淡水の状態を維持できる」という。 多数の魚と甲殻類の存在もババの説明を証明している。 

ここにあるのは、世界でも珍しい水文システムの結果だという。ウニアンガ・セリル群の11の湖のうち、淡水でないのは1つだけだ。 さらに理解を深めるため、私たちは中央にあるテリ湖に向かった。 ここで再度、時代をさかのぼらなくてはならない。

湿潤期の数千年間、サハラ東部のほとんどを占める地域(現在のヌビア砂岩帯水層系となる場所)に水が蓄積された。 これは世界最大の化石帯水層で、約200万平方キロメートルがチャド、スーダン、エジプト、リビアの下に広がり、深さは最大4,000メートルにおよぶ。 ウニアンガ湖群は、この帯水層によって下から潤されているため、これまで気候の変動にも耐えてきたのである。

ただし、三日月形の砂丘を忘れてはならない。 ゆっくりと、しかし、容赦なく砂丘は合体して「超巨大砂丘」になり、数百キロメートルにわたって延びている。 遠い昔、砂丘はウニアンガ・ケビルとウニアンガ・セリルの2つの大きな元の湖に入り込み、現在の姿であるより小さな湖の集まりに分割してしまった。 

ランドクルーザーで通ると、長い砂丘がくぼ地で湖を分離しているのがわかる。この動きは続いており、そのうち湖を消し去ってしまう可能性もある。 

チャド北部で最も人里離れた2つのコミュニティのリーダー、ウニアンガ・ケビルのアフマット・ムッサ・ソジ(Aahmat Moussa Thozi)(中央)とウニアンガ・セリルのネビ・グエット(Nebi Guett)(右)は、彼らの部族の伝説的な歴史を今日の科学に結びつける。 「この湖の隣には古代の人々が住んでいた。 私たちの祖先は湖から出てきたと信じている」とソジは言う。 ここからさほど遠くない場所で2001年と2002年にトゥマイ頭蓋骨が発見されたことは、この地域でのヒト科の動物と人間の居住が700万年前から始まっていた可能性を示している。 右下: ウニアンガ湖群地域のコーディネーターであるアハマダイ・バルカイ(Ahamadai Barkai)の属するチャド観光局は湖への冒険旅行を促進しており、これは「誇りの源であり、明るい将来を展望している」とグエットは言う。 (注: 印刷版ではアハマダイ・バルカイが誤って特定されている。
チャド北部で最も人里離れた2つのコミュニティのリーダー、ウニアンガ・ケビルのアフマット・ムッサ・ソジ(Aahmat Moussa Thozi)(中央)とウニアンガ・セリルのネビ・グエット(Nebi Guett)()は、彼らの部族の伝説的な歴史を今日の科学に結びつける。 「この湖の隣には古代の人々が住んでいた。 私たちの祖先は湖から出てきたと信じている」とソジは言う。 ここからさほど遠くない場所で2001年と2002年にトゥマイ頭蓋骨が発見されたことは、この地域でのヒト科の動物と人間の居住が700万年前から始まっていた可能性を示している。 右下: ウニアンガ湖群地域のコーディネーターであるアハマダイ・バルカイ(Ahamadai Barkai)の属するチャド観光局は湖への冒険旅行を促進しており、これは「誇りの源であり、明るい将来を展望している」とグエットは言う。 (注: 印刷版ではアハマダイ・バルカイが誤って特定されている。)
ユヌス・マフムド(Younous Mahmoud)局長率いるチャド観光局は湖への冒険旅行を促進しており、これは「誇りの源であり、明るい将来を展望している」とグエットは言う。 

世界で最も人里離れたウニアンガ・セリルの村からテリ湖を眺めると、 淡水湖の表面を覆っていたアシの茂みは見当たらない。 それとは反対に、テリ湖は急速な蒸発率によって過度に塩化しており、水深はわずか2~3メートルしかない。水面は他の湖よりも低い。 

水面の高さの差により、隣接する湖からテリ湖には半透性の砂丘を介してゆっくりと水が流れ込んでいる。 この「蒸発ポンプ」のため、他の湖は地下の帯水層から継続的に水を引き出して損失を補っている。 水深があり、部分的にアシに覆われている上、この補給が他の湖の水を淡水に維持する役割を担っている。  

しかし、現在残っているのは、かつて地球上に存在した最大の内陸湖で、今日のカスピ海よりも大きかったと言われる「メガ・チャド」に注ぎ込んでいた2つの広大な湖の名残なのである。 


「私たちの使命は珪藻土の試料を採取して、異なる期間に湖の水位がどれくらい変化したか調べることだ」とババは説明する。 

珪藻土は、湖と海の底に沈んだ単細胞植物である珪藻植物の微細な骨格残骸から成る軽しょう土である。 湖の水が減ると、湖盆をとりまく砂岩の絶壁に珪藻土が見つかることが多い。 この試料を採取して、堆積物の高さを記録し、放射性炭素年代測定を行う。 湖のおおよその水深を追加して「仮想洪水」コンピューター・モデルを使用すると、理論的に各期間の「古き湖」の広さを予測できる。

クレーペリンはウニアンガ・セリルのエダン湖近くでヤシの木立を回り、砂岩の急斜面の溝を登った。湿潤期には小川があったであろう場所だ。 突き出た端まで来ると、エダンの眺めが広がる。この湖は完全にアシで覆われている。 

「ステファン・クレーペリン(右)には借りがある」とババ(左)は言う。 「湖がどのように作用するのか正確に理解することができるようになった。 当然、手段さえあれば自分たちで(コアリングと分析を)ここで行う。そうすればチャド独自の発見になる。」 ババはクレーペリンを「信頼のおける十年来の友人」と評している。
「ステファン・クレーペリン()には借りがある」とババ()は言う。 「湖がどのように作用するのか正確に理解することができるようになった。 当然、手段さえあれば自分たちで(コアリングと分析を)ここで行う。そうすればチャド独自の発見になる。」 ババはクレーペリンを「信頼のおける十年来の友人」と評している。

クレーペリンはメモを取り、地質学者専用のハンマーを取り出し、珪藻土のかけらを採取する。 「地球が誕生して以来、この場所で試料を採取する地質学者は私が初めてなんだ」という。 表面を削り取ると、 堆積物は容易にはがれる。 掘った穴に手を差し入れ、珪藻土の白い塊を取り出す。 珪藻土はもろく、 手の中でたやすく粉々になる。 

放射性炭素年代測定なしに年代を確定することは難しいが、「6,000~7,000年も経っていない」だろうとクレーペリンは推測する。 他の試料は8,500~9,500年前のものだ。 高度計には海抜405メートル±10メートルと表示されている。  

それほど科学的な知識はないが、熱意だけは負けない観光局のファティ・ダディ(Fati Dadi)がクレーペリンに日光で白くなった一握りの貝を持ってくる。古代湖の堆積物の別の場所から取ってきたものだ。 「ネックレスを作るわ。 針で穴を開けるの。 オリジナルじゃない?」 クレーペリンは笑顔を見せる。 「1万年前のものだからね。 店では買えないよ。」

ブク湖の近くに戻り、ラクダの隊列を通り過ぎた。そのすぐ後、私たちの小規模な3台のランドクルーザーの隊列は湖のほとりで停まった。 車から降りると、日中の温度がやっと上がり始めたばかりだったが、淡水での水浴びの誘惑に勝てず、クルーが1人、2人と湖に飛び込む。 クレーペリンは前回、ここで水泳をした際、住血吸虫病にかかってしまった。熱帯の水が汚染されていることの多い水生の寄生虫病だ。 それでも真の砂漠探検者として「リスクがなければ、おもしろくもない」と宣言して 飛び込んだ。 (4ヶ月後、再び治療をしなくてはならなかったと教えてくれた。)

Aウニアンガ・ケビル群最大のヨアン湖では、大きな砂の流れが深い緑の水辺に吹き付けている。 地元の部族トーバス(Toubous)の男たちがヤシの木陰で休息している。造園設計家によって景色に埋め込まれているかのようだ。 その1人がババだと私は気づいた。 彼のそばまで行き、聞いてみた。砂漠と研究室と、どちらの方が落ち着くのか? 

「本当は研究室の方がいい。 そこが仕事場だから」と物腰のやわらかなババは言う。 それでも、すぐに言葉を継ぎたす。 「どちらも補足し合っていると思う。 砂漠は大好きだが、参加できる適切な研究室で砂漠から得た結果を提出できる可能性も捨てがたい。 でも、そこが問題だ。 現在、チャドでは研究所や大学が作られ、中核的な研究者グループである知識層が形成されているが、研究室はない。」  

アシに覆われたウニアンガ・セリル群のエダン湖を背景に、かつては水中に沈み、今は日光で色あせた茶色い砂岩が化石微生物の試料となる。放射性炭素年代測定により、異なる時期の湖の大きさがわかる。
アシに覆われたウニアンガ・セリル群のエダン湖を背景に、かつては水中に沈み、今は日光で色あせた茶色い砂岩が化石微生物の試料となる。放射性炭素年代測定により、異なる時期の湖の大きさがわかる。

私たちが話している間、探検隊サポート・スタッフのチャド人メンバーが過度に塩化された湖の岸部にある天然の塩の泡をプラスチックのボトルに詰める。  天然の塩泡だとクレーペリンがあとで説明してくれた。 「食べられる」という。チャド人はこれを健康飲料と考えているようだ。 

しかし、ヨアン湖の水の下にあるものこそが、ウニアンガ最大の科学的発見になる可能性がある。 「ロング・コア」だ。 クレーペリンは、伝説やつかみどころのない宝物について話すように、この言葉を発した。 

数十年にわたり、クレーペリンはスーダンやエジプト、リビアで現在は干上がっている古代の湖をいくつもめぐり、サハラ東部の環境と気候の歴史を再建しようとしてきた。 しかし、どの湖も、あまりにも昔に干上がっているため、限定的な結果しか得られていない。 「過去4,000年の情報は何もない」とクレーペリンは言う。

現在進行形で堆積物が蓄積している現場を見つけようとしているが、これは今も水がある場所にしかないのである。  

1万1000~5,000年前のアフリカ湿潤期の置き土産である貝を手にする観光局のファティ・ダディ。ひもを通してネックレスを作るという。
1万1000~5,000年前のアフリカ湿潤期の置き土産である貝を手にする観光局のファティ・ダディ。ひもを通してネックレスを作るという。

1999年に初めてヨアン湖にやって来たクレーペリンは、重力式柱状採泥器を使い、固定の堆積物を50センチ掘り出した。 これはテストだったのだが、その結果は一生ものだった。

「何もなくても不思議はなかった。 砂があるかもしれない。 研究の進展につながらない同質の泥だったかもしれない」とクレーペリンは思い返す。 だが、そうではなかった。 明らかにほぼ1年ごとの層になった泥は、1年ごとのみならず季節ごとの堆積物の層を分析できることを示していた。

大規模なコアリング作業を行った価値があったのは明らかだ。」

2004年には再び、6.5メートルのコアを採取した。このコアは過去6,000年の継続的な古代環境の記録を示すものだった。 長く細い柱状の堆積物を分析した結果、クレーペリンは「緑のサハラ」の消滅という気候変動による最も重大なアフリカ完新世の事象に関する優勢な科学的見解は「最初から間違っていた」と結論付けた。

コアの堆積物に含まれていた花粉の分析を引き合いに、クレーペリンは2008年の論文で、北アフリカは数世紀の間に乾燥してサバンナから砂漠になったというデメノカルの仮定に異議を唱えた。 新たなデータは、乾燥がより長い期間にわたる漸進的なプロセスで、数世紀ではなく数千年単位だった可能性がある証拠だとクレーペリンは主張する。 

これは単なる学究的な疑問ではない。 サハラ気候史研究の精度は、現在の気候モデラーにとっても重要だ。彼らは歴史に対してモデルをよりよく合致できるほど、現在の気候変動を将来の予測につなげることができると考えている。 

クレーペリンの分析は「非常に重要」だとデメノカルはコメントしているが、地理的には1つの「データ・ポイント」に過ぎないと述べている。 対照的に「アフリカの西武と東部の異なるデータ・ポイントは20ほどある。最新のものはアフリカの角と呼ばれる地域のデータだが、すべて同じ結果を示している。 約5,000年ほど前からあとは、どの地域でも急に乾燥している。 どちらが正しいのか? おそらく両方とも正しいのか?」と デメノカルは聞く。 「正直なところ、まだわからないとしか言えない。」

ウニアンガ・ケビルの役場で私は村長のAahmat Moussa Thozi(アフマット・ムッサ・ソジ)に会った。 歴史に興味を抱いているのは科学者だけではないのだ。 通訳を通してアフマットは彼の部族の起源に関する伝説を教えてくれた。 

「この湖の隣には古代の人々が住んでいた。 私たちの祖先は湖から出てきたと信じている。 湖から出てきた人たちは湖につながっている。 ヤシの木やナツメヤシ、見事な湖のある土地は非常に美しい。 ウニアンガには15の部族がいるが、 皆、こうして始まった。」 

ここに地質学的な歴史につながる文化的なヒントはあるのだろうか? 確実に把握するには、地球神話学的な調査が必要になるだろう。 トゥマイが住んでいた頃から700万年以上も続いている土地で「古代」は何を意味するのだろう。アフリカ湿潤期は、数百回も続いている湿度の高い時期の最も直近の1回に過ぎない。 この湿潤期が現在、関心を呼んでいるのは、現在の人間の解剖学的構造に影響を与えたからだ。また、私たちの将来のヒントが隠されているかもしれない。

「私の家族は湖から来た」とアフマットは続ける。 「私はその子孫だ。」 

つまり、 湖が彼の部族に生命を与えた。 しかし、それが正確にいつなのかは不明だ。おそらく科学的な問いになるだろう。 

ウニアンガ・ケビル湖群最大のヨアン湖のほとり、男たちが日陰でリラックスした朝を過ごしている。 アシの覆っている面積が最低レベルに下がり、蒸発率が記録的に高い現在、湖は塩化している。 2010年にクレーペリンとメレス、カールスが、現在から1万940年前までさかのぼるコア試料を採取したのは、この湖の底だ。このコアの研究は今も続いている。
ウニアンガ・ケビル湖群最大のヨアン湖のほとり、男たちが日陰でリラックスした朝を過ごしている。 アシの覆っている面積が最低レベルに下がり、蒸発率が記録的に高い現在、湖は塩化している。 2010年にクレーペリンとメレス、カールスが、現在から1万940年前までさかのぼるコア試料を採取したのは、この湖の底だ。このコアの研究は今も続いている。

クレーペリンは2010年、マルティン・メレス(Martin Melles)率いるケルン大学第四期古気候学グループと協力した。メレスは湖の堆積分析でほとんどいつも北極・南極地域に行っていた。 

 「熱い砂漠地域では機会はほとんどない」とメレスは言う。 「サハラ砂漠は南極と同じくらい極端で遠い。」 

メレスのもとで古気候学を研究している大学院生イェンス・カールスがヨアン湖で開始された柱状採泥器の操作のほとんどを実施した。 「重量は30キログラムで、ロープが何本もついたシステムを 何回も上げたり下げたりしなくてはいけない。 上部の堆積物はとても貫通しやすいが、多少密集した堆積物に達すると、コアリング速度が1回当たり1ミリメートル未満にまで落ちる」とカールスは説明する。 

1ミリメートルは1年の堆積物にも満たない厚さだ。 彼らは完新世の開始時期の層をめざして16メートル掘り下げた。 時には摂氏50℃にも達する暑さの中、さえぎるものもなく陽光が降り注ぐ水面で何度も重量を使って採泥器を打ち込み、作業は続いた。 最終的に彼らは目標に達した。連続した1万940年分の「気候と環境変化の大陸の記録」を手に入れたのだ。 

「過去に気候システムがどのように作用し、将来どうなるのか」を理解するには、世界中に広がる地質学の記録が必要だ」とメレスは言う。 「サハラ東部の代表的なコアが1つあるだけでも、大きな前進だ。」

「ロング・コア」の分析はまだ続いているが、「本当に世界的な気候変動を示す証拠が見つかっている」とクレーペリンは言う。「比較的最近のナツメヤシの登場」などだ。「古代エジプト時代の歴史なら説明できるか、少なくともよりよく理解できるようになった。 アフリカ大陸の気候史について、かつてないほど鮮明に調査できる」と主張する。

ババもこれに同意している。 「ステファン・クレーペリンには、重要な国際的科学誌に論文を掲載してもらったという借りがある。 湖がどのように作用するのか正確に理解できるようになった」とババは言う。 当然、手段さえあれば自分たちで(コアリングと分析を)ここで行う。そうすればチャド独自の発見になる。」

風に運ばれる指先のような砂の塊は引き続きウニアンガ湖群を形作るとともに浸食している。ヨアン湖を南西から見たこの航空写真では、勢いのある北東のハルマッタン貿易風の力によって劇的な地形が作られているのがわかる。 
ジョージ・シュタインメッツ(George Steinmetz)
風に運ばれる指先のような砂の塊は引き続きウニアンガ湖群を形作るとともに浸食している。ヨアン湖を南西から見たこの航空写真では、勢いのある北東のハルマッタン貿易風の力によって劇的な地形が作られているのがわかる。 

私たちは、ウニアンガ・ケビルのヨアン湖からいくぶん離れたエグイベチ(Eguibechi)を1時間ほど行ったり来たりした。 クレーペリンは町へ行く道すがら見つけた地表の珪藻土を探している。 GPSには位置を記録しておいたのだが、なかなか見つけられない。 最後にもう1度だけルートをたどった。 クレーペリンが探していた珪藻土ではないが、私は白く盛り上がっているものを見つけた。 

そこまで行くとクレーペリンは有頂天になり、すぐに作業に取りかかった。 ババが、彼の上にかがみこむ。 「君は本当に新しい発見を目撃しているんだよ」とクレーペリンは言う。 「何年も行きたいと思っていた場所だ。 湖で採取したコアを解釈するためにすぐに必要だ。そうすれば堆積が起きた時の湖の深さを確実に解釈できる。」

私たちが見ているのは、元の古代湖の湖岸線だとクレーペリンは説明する。 「この地下茎が残っている。アシの古代の根だ。湖がまだ浅かったころには木が生えていた場所もあるだろう。」 年代は約8,000年前だろうと彼は予測する。 

「こちら側では古代の湖底から最も高い堆積物があらわれている。」これは古代湖が「現在の湖よりも50倍または100倍広かった」証拠だという。 つまり、「緑のサハラ」時代には「私たちの目に見える限りの大地が水に覆われていた」。 

クレーペリンは堆積物を「W76」、新しい発見物というラベルのついたビニール袋に入れた。 

風が巻き上がり、クレーペリンの声がくぐもる。 銀色に光るオアシスと緑色のヤシの木、そして空色の湖が少し離れた場所にあるのがようやく判別できる。 

ババがやって来て私に腕を回し、顔を砂に向けさせた。 「ウニアンガでは砂漠の美しさを見た。 それでも、科学的な研究は止まらない。私たちは湖に隠されたさらなる秘密を見つけるよ。」

シェルドン・チャド(Sheldon Chad) チャドで迎えてくれたユーモアあふれる人々のおかげで、高い評価を得ているカナダ人文筆家・写真家シェルドン・チャド[email protected])はこの探検期間中、親しみをこめて「Wardougou」チャドと呼ばれていた。「自分の国を愛する男」チャドという意味である。 最初から違和感はなかったとチャドは言う。「サハラ砂漠の忘れがたく美しい景色を超える唯一のものは、そこに住む人たちの優雅さと寛大さかもしれない。」 チャドは現在、ブリュッセルに在住している。

チャド北部で最も人里離れた2つのコミュニティのリーダー、ウニアンガ・ケビルのアフマット・ムッサ・ソジ(中央)とウニアンガ・セリルのネビ・グエット(右)は、彼らの部族の伝説的な歴史を今日の科学に結びつける。 チャド北部で最も人里離れた2つのコミュニティのリーダー、ウニアンガ・ケビルのアフマット・ムッサ・ソジ(中央)とウニアンガ・セリルのネビ・グエット(右)は、彼らの部族の伝説的な歴史を今日の科学に結びつける。 c 1万1000~5,000年前のアフリカ湿潤期の置き土産である貝を手にする観光局のファティ・ダディ。ひもを通してネックレスを作るという。 1万1000~5,000年前のアフリカ湿潤期の置き土産である貝を手にする観光局のファティ・ダディ。ひもを通してネックレスを作るという。

This article appeared on page 12 of the print edition of Saudi Aramco World.

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