en zh es ja ko pt

巻 65, 号 32014年5月/6月

In This Issue

a
上: クルシニヤニの木製のモスク。18世紀初期に建造され、近年修復された。ポーランド最古のモスク。 挿入: ジェネッタ・ボグダノヴィッチャ(Dżenneta Bogdanowicz) : ジェネッタ・ボグダノヴィッチャ
動画
ジェネッタ・ボグダノヴィッチャ(Dżenneta Bogdanowicz)は、中に入るように訪問者に陽気に手招きした。そこは、クルシニヤニ(Kruszyniany)で彼女が経営する小さなレストランだった。クルシニヤニはひっそりとした村で、まるで世界の果てにあるかのようだった。

ジェネッタ・ボグダノヴィッチャ(Dżenneta Bogdanowicz)は、中に入るように訪問者に陽気に手招きした。そこは、クルシニヤニ(Kruszyniany)で彼女が経営する小さなレストランだった。クルシニヤニはひっそりとした村で、まるで世界の果てにあるかのようだった。 ボグダノヴィッチャ氏は、部屋をくるくると走り回っていた。 どこからでも何でも見えて何でも聞こえるようだ。 テーブルのお客と一緒になって話をし、愉快そうに笑う。 ピエレカチェヴニック(ミートボール)やシテ(水、はちみつ、レモン汁をまぜた飲み物)など、出される料理のレシピも何らためらいなく教えてしまう。 今のベラルーシがある土地からやってきた家族の話もする。その慣習、伝統、宗教―そのどれもが絶滅の危機に何度もさらされてきたのだが―についての詳細を教えてくれる。

ボグダノヴィッチャ氏の家族の写真、そしてアンティークのコーランが、彼女にとって遺産と文化的表現への関心を呼び覚ますアーチファクトとなっている。 最初の写真: クルシニヤニの木製のモスク。18世紀初期に建造され、近年修復された。ポーランド最古のモスク。 挿入: ジェネッタ・ボグダノヴィッチャ
ボグダノヴィッチャ氏の家族の写真、そしてアンティークのコーランが、彼女にとって遺産と文化的表現への関心を呼び覚ますアーチファクトとなっている。 最初の写真: クルシニヤニの木製のモスク。18世紀初期に建造され、近年修復された。ポーランド最古のモスク。 挿入: ジェネッタ・ボグダノヴィッチャ(Dżenneta Bogdanowicz)

観光学を専門とするボグダノヴィッチャ氏が、ポーランドとベラルーシの国境から数キロのところに位置するクルシニヤニを初めて訪れたのは、30年以上前だった。人口の少ない小さな村、古い農場、舗装されていない道路、力強い静けさに触れるうち、彼女の祖先に関する強い好奇心が呼び起こされたのだった。 クルシニヤニは、1つの点を除いては、ポーランド北東部に何百とある静かな村と何ら変わらなかった。ただ1つ違っていたのは、村の中心にある緑色のモスクだった。 クルシニヤニに馴染みのない人は、モスクがただの質素な崇拝の場所であると思うことだろう。 しかし、ボグダノヴィッチャ氏にとって、このポーランド最古の祈りの家はほとんど忘れられかけていた遺産を照らし出すかがり火となったのだった。

主に中央アジア人の子孫でポーランドの慣習を持つポーランド・タタール人のイスラム教徒は、人口160人の村クルシニヤニに、カトリック教徒および東方正教徒に交じって暮らしている。 モンゴル帝国の後継者であったタタール人は、バトゥ・カン(Batu Khan)およびジョチ・ウルス(Golden Horde)の子孫である。 そのほとんどがロシアに住んでいるものの、5世紀頃に現在のベラルーシ、ポーランド、リトアニアに少しづつ移住をしていったタタール人の子孫もいる。 

レストラン「タタールスカ・ユルタ(Tatarska Jurta)」の食堂では、ボグダノヴィッチャ氏が訪問してきた少年に自身のタタールレシピの1つの生地の練り方を教えている。 
レストラン「タタールスカ・ユルタ(Tatarska Jurta)」の食堂では、ボグダノヴィッチャ氏が訪問してきた少年に自身のタタールレシピの1つの生地の練り方を教えている。 

今日、これらタタール人は何世紀にも及ぶ戦争を生き残ってきた人々である。最も最近では、共産主義者による宗教、伝統および言語の政治的回帰が行われてきた。 しかし、それらの人々は自身の歴史的アイデンティティを守るために戦っていたのだ。それは、18世紀の木造のモスクによって強調される事実である。緑の色合いを何層にもまとったこのモスクは、クルシニヤニの中心、外部からも注目される村唯一のランドマークとなっている。

村のツアーでボグダノヴィッチャ氏がまず連れて行ってくれたのが、森に取り込まれてしまいそうなタタール人のミザール(お墓)だった。 ボグダノヴィッチャ氏は、苔むした墓石が彼女の祖先のものであることに気付いた。 「はっとした瞬間でした。 突然、私に流れる血の、土地の叫びを感じるようになったのです。 その時初めて、自分にはポーランドのタタール人の血が流れているのだと思いました。 「帰ってくる必要があったのです」と同氏は語る。

14世紀にこの地域に住み着いたタタール人は、16世紀までにはポーランド語、リトアニア語、またはルテニア語を話すようになり、名字もポーランド的なものになっていった。 ステップの遊牧民の服装や儀式のほとんども次第に色あせていった。 しかし、クルシニヤニのモスクは、彼らの信仰だけは変わらぬものであったことを静かに主張している。 

ボグダノヴィッチャ氏は、初めて「自分にはポーランドのタタール人の血が流れている」と感じたのは、クルシニヤニのタタール人墓地を訪れた時であったと語る。 「帰ってくる必要があったのです」と同氏は語る。 
ボグダノヴィッチャ氏は、初めて「自分にはポーランドのタタール人の血が流れている」と感じたのは、クルシニヤニのタタール人墓地を訪れた時であったと語る。 「帰ってくる必要があったのです」と同氏は語る。 

クルシニヤニのモスクのガイドおよび保存管理人であるドジェミル・ギィエビキ(Dżemil Gembicki)は、ポーランドのタタール人は、タタール人の民族性、ポーランドの国民性、 およびイスラムの宗教という3つの特性を持っているという。 近くにもクルシニヤニと似たボホニキ(Bohoniki)という村があり、そこにもポーランドの古いモスクがある。同村出身であるゾフィア・ボダノヴィッチャ(Zofia Bohdanowicz)も、ボグダノヴィッチャ氏と同じ意見を持っており、 「私の家族は何世代にもわたってここに住んできました。私はポーランド人ですが、私や私の子供たちを皆と異ならせているのは宗教です。 これが私たちがポーランド人イスラム教徒である所以です。 イスラムがなければ、私たちも存在しません。 私はポーランドのタタール人イスラム教徒です。 この3つ言葉すべてが私たちにとっては重要なものなのです」と語る。

ボグダノヴィッチャ氏が初めてクルシニヤニを訪れた時、彼女はまだ20歳であった。 クルシニヤニの訪問後、彼女は勉学を続けるためビャウィストク(Bialystok)に戻った。 そこで、その歴史的村出身で、後に伴侶となるミレック(Mirek)と出会う。 結婚した後、ミレックの家族に会うため二人は頻繁にクルシニヤニを訪れた。17世紀後半、ボーランド王ヤン3世ソビェスキ(John III Sobieski)は、祖先の隊務に対する報酬として多くのタタール人子孫に土地を与えた。ミレックの家族も同様だった。 ボグダノヴィッチャ氏は、自身がツアーガイドを務めるツアーにクルシニヤニを入れるようになった。かつて夫の家族が住んでいた田舎家、モスク、そして墓地に観光客を連れて行った。

間もなく、この村には何かを食べたりくつろいだりする施設が何もないことに気付くようになった。  観光客を自分の家に呼ぶため、外にテーブルやベンチをセットした。 タタールスカ・ユルタ(タタール人の移動式テント)は、その名の通り簡素なレストランで、春の終わりから秋にかけてタタール料理をふるまっている。 時を経て、3人の娘たちの助けを得ながら、夫婦は家を改装し、観光客が中で飲食したりタタール人の生活を体験したりできるようにしていった。 後に家を増築していき、自分たちの住居を二階に移し、一階部分全体をレストランにした。そしてタタールスカ・ユルタ の評判は広まっていった。 2003年、彼女は夫ミレックと共にクルシニヤニに永住することにした。 

ボグダノヴィッチャ氏は、レストランに家族の写真やタタール人の姻族衣装などを飾った。
ボグダノヴィッチャ氏は、レストランに家族の写真やタタール人の姻族衣装などを飾った。

現在、訪れる観光客は壁に家族の写真がかけられた部屋に通される。 写真の中の女性たちは、アジア人の目、漆黒の髪の毛が特徴で、浅黒い男性はポーランド軍の制服を着ている。 

「台所で実権を握っているのは母です。 お出ししている料理は、私が子供の頃にイスラム教の休日の時に食べていたものと全く同じものです」と語るのは、ジェネッタとミレックの娘の1人であるジェミラ(Dżemila)だ。 「母は、ポーランド中に散っていたタタール人の家庭を訪問しては、レシピを集めていました。 今では、その紙切れが分厚い料理本になっています」と続ける。 レストランの雰囲気や快活なレストランスタッフ(特にボグダノヴィッチャ氏)、そして手の込んだタタール料理に関する評判が口コミで、そしてオンラインレビューで拡がっていった。 今では、ピエレカチェヴニックを食べカルダモン風味のコーヒーを飲むため、 目利きたちが何時間もかけてやってくる。

クルシニヤニのモスクのガイドおよび保存管理人であるドジェミル・ギィエビキは、モスクの木製のミフラーブ(メッカの方向を示すくぼみ)の前でコーランを開いて座っている。 ギィエビキ氏は、ポーランドのタタール人は、タタール人の民族性、ポーランドの国民性、 およびイスラムの宗教という3つの特性を持っているという。
クルシニヤニのモスクのガイドおよび保存管理人であるドジェミル・ギィエビキは、モスクの木製のミフラーブ(メッカの方向を示すくぼみ)の前でコーランを開いて座っている。 ギィエビキ氏は、ポーランドのタタール人は、タタール人の民族性、ポーランドの国民性、 およびイスラムの宗教という3つの特性を持っているという。

美味しい料理をいただきながらボグダノヴィッチャ氏と話をはずませる常連客は、クルシニヤニが歴史的タタール・トレイルの一部であることを学んでいく。タタール・トレイルとは、ポーランド北東部の7つの主要な町や村 をつなぐ道路網のことだ。それら町や村の人口は少なく、ポーランドおよび東ヨーロッパの慣習によって違った影響を受けていた。 全長150キロに及ぶこの道路は、美しいソクウカ(Sokółka)の丘からクニシンスカ(Knyszyńska)を抜け、ソクウカ、ボホニキ、マレビチェ(Malawicze)、クリンキ(Krynki)、クルシニヤニ、スプラシュル(Supraśl)、そして最も人口の多い街、ビャウィストクをつないでいる。 道を進んで行くと、ポーランド・タタール人の歴史について学べるのみならず、現代の生活および文化をも垣間見ることができる。 中でも注目に値する場所はクルシニヤニである。本当に小さな町にすぎないが、ボグダノヴィッチャ氏の努力のかいあって、イスラム教の休日や文化行事の際には活気を取り戻している。

ボグダノヴィッチャ氏や他のタタール人家庭と同様、ブロニスラウ・タルコウスキ(Bronislaw Talkowski)も、タタール人兵士の隊務に対する報酬としてヤン3世ソビェスキ王によって17世紀後期に与えられた土地に住んでいる。 タルコウスキ氏は、クルシニヤニのイスラム教区の長であり、第二次世界大戦以前に生まれたわずか2人のうちの1人だ。
ボグダノヴィッチャ氏や他のタタール人家庭と同様、ブロニスラウ・タルコウスキ(Bronislaw Talkowski)も、タタール人兵士の隊務に対する報酬としてヤン3世ソビェスキ王によって17世紀後期与えられた土地に住んでいる。 タルコウスキ氏は、クルシニヤニのイスラム教区の長であり、第二次世界大戦以前に生まれたわずか2人のうちの1人だ。

ボグダノヴィッチャ氏は、タタール人の伝統や習慣を復活させるには、周期的なイベントが必要であることに気付いた。 彼女の唱道により、数年前、第一回ポーランド・タタール人の文化・伝統フェスティバルが開催された。 バンド演奏、ダンス、歌、ハンディクラフトのデモ、競争などが行われた。 全員がタタール料理ワークショップ、弓矢、乗馬などに参加するよう招かれた。 寄せられた関心は、彼女の大胆な予想をはるかに超えるものだった。 「再びクルシニヤニは人があふれる活気のある村になりました。 30年前の私のように、多くのポーランド・タタール人が血の叫びに耳を澄まし、戻りたいと考えるようになったのです」と彼女は語る。 

7年前、彼女はサバントゥイを再び祝いはじめた。サバントゥイには、「すきの祭り」という意味があり、春の農耕期の終わりを祝う祭りであり、1,000年以上昔に起源を発する。 村人やゲストが集まって、ゲーム、競争、モンゴル風アーチェリー、乗馬などを行う。羊やハンドメイドのタオルなどの賞品が準備されている。 

現在、クルシニヤニのモスクを訪れる観光客を出迎えてくれるのは、はじけるような笑顔のギェンビキ(Gembicki)だ。その中央アジア的な顔立ちからは、彼が間違いなくタタール人の血を受け継いでいることが分かる。 モスクがどのように男性用・女性用のスペースに分けられているかを説明した後、彼はカリグラフィー、メッカとメディナの写真 で飾られた板張りの壁を見せてくれる。 床にはカーペットが敷かれている。 南側の壁にはミフラーブがあり、メッカの方向を示している。 その上には、輝く星で飾られた三日月が明るく光る。 ミンバルの階段に腰掛けながら、「これはイスラムの象徴です」とギェンビキ氏は語る。金曜日の礼拝ではイマーンがここで説教を行う。 ポーランドのイスラム教徒の中でアラビア語を理解できる者はほとんどいないが、コーランはアラビア語で朗誦される、と同氏は説明を続ける。

上: 他の場所への方向を指し示すクルシニヤニの標識。 
上: 他の場所への方向を指し示すクルシニヤニの標識。 

続いて、ギェンビキ氏は木が生い茂る小さな丘へと観光客を案内していく。 その厚い林冠がイスラムの墓地を守っている。ここでボグダノヴィッチャ氏は自身の祖先の墓を見つけた。 ここで、タタール人が西洋ヨーロッパの環境にどのように交じりあっていったかがはっきり分かる。 何十年も雨風にさらされて劣化しているとはいえ、18世紀の墓石には、アラビア語、ロシア語、およびポーランド語の刻印が読み取れる。

ポーランドの北東部に住み着いたタタール人の歴史は、ヤン3世ソビェスキ王と関連している。ヤン3世は、1683年、オスマントルコとのウィーンの戦いと関連して繰り広げられたシュトゥロボ(Párkány)の戦いにおいて、タタール連隊の司令官であったサミュエル・ムジャ・クジェチャコスキ大佐(Samuel Murza Krzeczkowski)に命を救われた。 その報酬として、王はタタール人に土地を与え、今日タタール・トレールとして知られる道を与えた。 今でも、クルシニヤニの住人は、かつてクジェチャコスキ大佐の領主邸があった場所を指さすことができる。そこは今では古い菩提樹の林にすかっり取り込まれてしまっている。

タタール人は、少しずつ新しく与えられた土地に馴染んでいった。 「彼らは意識的に周りに合わせていきましたが、同時に自分たちの信仰は守ろうとしました。 ポーランドでは、タタール人イコールイスラム教徒、とみなされていました」と語るのは、「ポーランド・タタール人の年鑑(Yearbook of Polish Tatars)」およびタタール人の歴史に関する他の作品の編集者で歴史家のアリ・ミスキエヴィチャ(Ali Miśkiewicz)である。 彼らの伝統は、リトアニアやポーランドの主な中心地で守られてきた。彼らは自分たちの宗教について教え、自身の崇拝の場所を建設していった、と同氏は説明した。 ポーランド共和国のムフティ(イスラム教の法学者)のスポークスマンであるムサ・チャコロスキ(Musa Czachorowski)は、「イスラム教徒は600年に渡ってポーランドに住んでおり、ポーランドの法律によってイスラムの規則に反する行動を取るよう強制されることはありませんでした」と述べる。

地図

1920年代、19のコミュニティに6,000人のポーランド・タタール人またはリトアニア・タタール人がおり、17のモスクで崇拝を行っていた。 1925年、彼らはイスラム教協会(Muzułmański Związek Religijny)を設立し、ポーランド全土のイスラム教徒全員を一つにしようと試みた。 彼らは、ポーランド・タタール人の文化・教育連合(Cultural and Educational Union of Polish Tatars)も設立させ、社会的文化的活動を展開していった。 

非イスラム国家に住んでいたため、ポーランド・タタール人はある程度は自然に周りを吸収していき、同化していった。 例えば、ポーランド・タタール人およびリトアニア・タタール人の女性は、頭と顔を覆うことはしない。 ボグダノヴィッチャ氏は、「モスクで女性たちと一緒に座りますが、家では皆同等です」と語る。 

建築も影響を受けていった。 クルシニヤニの木造のモスク、そして近くのボホニキ のモスクは、カトリックや正教会の教会と外観はほとんど変わらない。異なっているのは、その特徴的な三日月のみである。 

ドジェミル・ギィエビキはイスラム教徒、そして妻のカシア・ギィエビキ(Kasia Gembicki)はカトリック教徒であるが、クルシニヤニの自宅で子供たちと共に遊んでいる。 夫婦は、セリム(Selim、左)をイスラム教徒として、リリア(Lilia)をカトリック教徒として育てているという。
ドジェミル・ギィエビキはイスラム教徒、そして妻のカシア・ギィエビキ(Kasia Gembicki)はカトリック教徒であるが、クルシニヤニの自宅で子供たちと共に遊んでいる。 夫婦は、セリム(Selim、左)をイスラム教徒として、リリア(Lilia)をカトリック教徒として育てているという。

タタール人の書物は、文化の融合のもう1つの例となっている。 文章はポーランド語およびリトアニア語で書かれたが、アラビア、オスマントルコ、およびタタール的 な要素も含まれていた。  コーランや他の宗教文書に関しては、タタール人は、ポーランド語またはベラルーシ語の単語で発音できるように開発されたアラビア語の一形態を使用していた。 

しかし、変わらないものもあった。 結婚式は、大きな羊皮の上で行われ続けた。これは、ジョチ・ウルスの時代から続くもので、家、富、そして安定を表している。

しかし、 第二次世界大戦後、一夜のうちの大掃除的な動きにより、ソビエトの共産主義者らは、ポーランド、ロシア、リトアニア、エストニア、ラトビア、ウクライナ、およびベラルーシに踏み込みタタール人の文化や宗教の撲滅に力を入れていった。 住居、教育および文化的機関、および多くのモスクが破壊された。 タタール人の知識階級は逮捕され、国外退去になったり殺されたりした者もいた。 6,000人いたポーランドおよびリトアニアのタタール人は3,000人までに減少した。 

この時代、共産主義当局は、いかなる少数国家および少数民族をも許容しなかった。 1960年代に確立されたタタール・トレイルは、単なる観光地として宣伝された。ポーランドのタタール人を民族誌の珍しい存在にまで減少させようとする策略だった。 ポーランドのイスラム教徒は、「宗教的コミュニティ」に基づいて中東や北アフリカからの移民と親しくさせられた。 これにより、民族性が弱まっていき、完全に失われてしまうことが多かった。 その時代に生まれたタタール人の多くは、アラビア語で祈る方法を知らない。 

地域で最大の町であるビャウィストクでは、タタール人の民族グループ、ブンチュク(Bunczuk)が大人や子供を対象に伝統的な民謡や踊りを教えている。 
地域で最大の町であるビャウィストクでは、タタール人の民族グループ、ブンチュク(Bunczuk)が大人や子供を対象に伝統的な民謡や踊りを教えている。 

ソクウカに住む女性は(匿名希望)、「私はあるべき仕方で宗教を学んできませんでした。 私はいろいろなことに関する知識がなく、多くを行うことができません。 時々タタール人が家にきて祈り方を教えてくれます。祖父母たちもアラビア文字の読み方を教えてくれました」と語っている。

1989年に共産主義による支配が終了すると、ポーランドにおけるタタール人コミュニティは息を吹き返した。 ポーランドのイスラム教協会には、現在、ビャウィストク、グダニスク(Gdańsk)、ワルシャワ、ボホニキ、クルシニヤニ、ポズナン(Poznań)、ブィドゴシュチュ(Bydgoszcz)、ゴジュフ・ヴィエルコポルス(Gorzów Wielkopolski)の8つのコミュニティがあり、5,000人のポーランド・タタール人のイスラム教徒を包括している。 協会は、国家においてポーランドのイスラム教徒を代表し、宗教的・霊的サービスを提供し、クルシニヤニにあるような史跡や墓地の保存を行っている。 また、結婚式、葬儀、および祈祷会なども主催する。 協会は、クルバンバイラム(「‘Id al-Adha」 イード・アル=アドハー およびラマダンバイラム(「‘Id al-Fitr」イド・アル=フィトル)などのイスラム教の祝日、および他の儀式などを組織する。 

今日、イスラム教徒コミュニティにおける儀式の多くは、イスラム教徒のみならず異教間の対話に興味を持つ非イスラム教徒のためにもなっている。 ワルシャワ大学東洋文化学部の助教授であるアガタ・スコウロン・ナルボルチク(Agata Skowron-Nalborczyk)は、「お互いについて学び、敬意を持ち、互いの宗教における共通の価値を探し、固定観念を壊していくことは伝わっていきます」と語る。 

今日、ポーランドには 20,000から30,000人のイスラム教徒がいるが、これはポーランドの人口のたった0.6%に過ぎない。 コミュニティは小さくても、多様性に富んでいる。 新しいイスラム教徒最大のグループは、アラブ諸国出身であるが、トルコ人、ボスニア人、ソマリア、アフガニスタン、チェチェン、シリアからの難民などもいる。  

ポーランドのタタール人5,000人のほとんどがビャウィストク、およびその他の都市に住んでいる。 クルシニヤニやボホニキなどのタタール人の村は、普段は寂しい村である。だがイスラム教の祝日になると、イスラム教徒が家族と共にモスクで祈り、墓地を参るためにやってくる。 そのような祝日には、どんどん有名になっているボグダノヴィッチャ氏がふるまってくれるタタール料理を味わうのだ。

ビャウィストクの教室では、ビャウィストクのイスラム教協会の議長を務めるマリア・アレクサンドロヴィチェ・ブキン(Maria Aleksandrowicz-Bukin)がイスラムに関する授業を行っている。 
ビャウィストクの教室では、ビャウィストクのイスラム教協会の議長を務めるマリア・アレクサンドロヴィチェ・ブキン(Maria Aleksandrowicz-Bukin)がイスラムに関する授業を行っている。 

ポーランド・タタール人は、文化の存続が子供たちにかかっていることを強く認識している。 数年に渡って、タタール人コミュニティにおける学校では、タタール人の子供たち向けのカリキュラムを提供しており、コミュニティに基づく文化・宗教に関する指導はますます一般的になってきている。 彼らは、物語、家族―特に祖父母―から受け継がれる価値観、そしてタタール人組織や協会が主催する活動などからもタタールの伝統および歴史について学んでいる。 

何年にも渡り、タタール人は忘れ去られてしまったタタール人の言語を再び教えることができる日を待ち望んでいた。 2012年、ビャウィストクでタタール語のレッスンが開始され、その夢はついに実現したのだった。 ポーランド共和国タタール人連合の中央議会は、「400年の『沈黙』を経て、ついに我々は祖先の言葉を使う機会をもてることとなった」と発表した。 

その遺産により、タタール人がポーランドにおける西と東、イスラム教とキリスト教の架け橋となったことは当然のことだ。彼らは宗教的ルーツを守りながらも、他の遺産および信仰を持つ人々に囲まれた中で快適に暮らしてきたのだ。 ミスキエヴィチャ氏は、「ポーランド人の感覚を持つタタール人は、そのルーツや信仰を決して忘れるべきではありません。しかし、タタール人として600年間ポーランドを母国としてきたこと、常に社会の重要な存在であったことを常に思いに留めておくべきです」と語る。

カタジナ・ジャレカ・スタンピエン カタジナ・ジャレカ・スタンピエン[email protected])は、クラクフ(Krakow)のヤギェウォ大学(Jagiellonian University)で人文科学の博士号を取得した。同大学では、国際支援の効果性に社会および文化がどのように影響するかに焦点を当てた研究を行った。 異文化間コミュニケーションのワークショップも開催している。
アガ・ルクザコウスカ(Aga Luczakowska) フォトジャーナリストであるアガ・ルクザコウスカwww.agaluczakowska.com)は、ポーランドの新聞Dziennik Zachodni(ウェスタン・デイリー)誌でデビューし、現在はルーマニアのブカレストを拠点としてフリーで活躍している。 彼女の作品は、ニューヨークタイムズ紙の「Lens(レンズ)」ブログ、ザ・ワシントンポスト紙および ザ・ガーディアン紙などに掲載されてきた。 

 

This article appeared on page 30 of the print edition of Saudi Aramco World.

Check the Public Affairs Digital Image Archive for 2014年5月/6月 images.